屋敷は周囲に馴染んで存在していた。
いや、逆。周囲は屋敷に馴染んで存在している。これが正しい。
杉並の高級住宅街。少しだけ小高い土地。
水害を避けようという懐の温かい非魔術師たちは、その視座も一般人より高くありたいという気持ちがなかったかどうか、高みを目指してこの土地に根差した。
そんな選民思想がこの土地を覆い尽くしていく過程を知る者は皆無に近い。
高ければ勝手に山に住めば良い。ではなぜこの場所に。……この地にはいったい何が眠っているというのだろう?
疑問に感じる者は今までだってこれからだって、存在することはないのだけれど。
彼らが移住するよりむかし。明治・江戸と連綿と続く家系が、この土地の管理者として座していた。
名を玲瓏館。この東京という神秘の薄れ切った地において3番目に高濃度な霊脈の上に建つ屋敷に、魔術師は住まう。
つまりは、こうだ。
初めに玲瓏館があり、後からついてきた人々は玲瓏館にお伺いを立てながら、住居を建てた。
だから、逆。
もはや、整然としつつもこの山を、家屋たちが埋め尽くそうとして、由緒など忘れ去られたこの世紀末においても、なお玲瓏館という地は轟いていた。
仮に、当主が8年前に亡くなって、使用人たちも消え去って、残された少女一人が切り盛りをしていることが公然の秘密となっていてもだ。
長年この地から艱難苦難を退けてきた玲瓏館の名に、
玲瓏館の正門。
様々な邸宅や路の隙間を通り抜けて、その目の前に飛び出した者が驚くことは二つある。
一つに、これほど立派な屋敷が存在すること。
この丘まで上る過程、横目で見てきた邸宅はどれも立派なもので、感心を覚えるほどであるのに、この邸宅はどうだろう。
まさに支配者のための屋敷。広大な庭に、豪奢な噴水。しかし下品さはない。西洋式の屋敷の洗練されたデザインに、莫大な敷地面積。明治の時代に名を馳せた歴史的遺物であろうかと勘繰るほど。
屋敷の背後には鬱蒼と不気味な森が、正門を前にする人々を威圧するように、厳かな雰囲気を纏っていた。
二つに、これほど立派な豪邸が、突然目の前に降って出たように現れたこと。
広大な面積を占め、高級住宅街に似つかわしくない木々の密集地帯が存在するのに、まるでその場所が、家々でできた森の中にすっぽりと覆い隠されてしまっているかのような。
考えてみれば当たり前のことで、玲瓏館邸があることが自然なことで、後にそれを囲うようにして建ち並び始めた家々は不自然なもの。
で、あれば。
不自然に囲まれた者が自然を知覚できるだろうか?
犬の遠吠えが聞こえてくる。それが夜の
時刻は日付変わって数分。
広い玲瓏館の廊下を一人の偉丈夫が歩いていた。男はやがてある部屋の前で立ち止まると、遠慮なく開け放った。
部屋の中では女が物憂げに、ロココ調の真っ赤な猫脚のソファーの肘掛けに肘を載せ、レース越しにいったい何を見ているのか、外を眺めていた。
男の入ってきたのに呼応するように、女は目を伏せ、それからじろりと男を睥睨した。
「ノックもなしに部屋に侵入してくるなんて。まだまだ躾がなっていなかったかしら?」
「昨日のことをまだ引き摺ってるのか?何も問題はねえよ。向こうのサーヴァントのクラスがわかったこと。サーヴァント以外の隠し球があること。当初の目的以上の成果を上げたじゃねえか」
館の主人である女が、男に命じたのは「男の宝具抜きで、全サーヴァントと一通り手合わせすること」。
もちろん、宝具の縛りを入れた上で、相手サーヴァントを潰せるのならば勝ち切ってしまって構わないが、一度サーヴァントの情報を集めてから大々的に動こう、というのが女の方針だった。
「
「ああ、そうかい」
実際関係はないのだろうし、そんなこと最初からわかっている。
しかし、昨日の襲撃から拠点へ戻ってきた際に、女にあった事を伝えるや、一瞬、絶やさなかった余裕の雰囲気が崩れたことを男は気にかけていた。
「ところでアナタは何をやっているのかしら?ランサー、さっさと仕事をしなさいな」
女。
玲瓏館美沙夜は、もう
準備も違えば、実力、経験値も違うのだ。
サーヴァントを推測するに能う情報が漏れてしまったとして確定はしないという状況は、相手へ多くの判断・取捨選択を迫ることになる。
サーヴァントにとってアキレス腱であるマスターという存在だって、マスター不明のサーヴァントとして動き回らせ続ければ、宝具を縛らせていたとしても他のサーヴァントと比べて自由に動きやすい。
それを可能にしているのが、まさに前述の通り、玲瓏館美沙夜という魔術師がいかに優秀であるかということだ。
それほど優秀な魔術師であるからこそ、ランサーは焦れったく思う。
「マスター。いつまで動かねえつもりなんだよ」
「いつまでって言われてもね。時が来たらとしか言いようがないわよ」
秘密にするものでもないし、言っても良いのだけれど。戦闘狂のアナタに言っても理解してもらえるかわからなかったから言わなかったのよ。
そう蔑むようにも受け取れることを口にしながら、美沙夜は少しレースを手で開き、この家から見下ろす家々を眺めて、言葉を続けた。
「多陣営がお互いに睨みを効かせ合っている戦力均衡のときが一番市街地に影響が少ないわ。理由はそれだけよ。シンプルでしょう?
それにね、ランサー。まだ始まったばかりなのに、何を急いでいるのかしら?勝手に他のマスターたちが潰れていってくれるなら多いに結構。野蛮な戦闘狂いのアナタには理解できない感性かもしれないわね」
ランサーには前者の理由に想いが込められているようにも思えた。
このマスターに戦い方をえらんでいられる余裕などないことをランサーは知っている。此度の戦いで聖杯を勝ち取ることができなければ、屍人と化し、醜く唾棄すべき者に身を堕とす。そういう風に
ランサーが召喚された数日が経った頃、あなたみたいなタイプにはこう言った方が、言うこと聞かせられるんじゃないかと思ったのだけれど、とお互い今の立ち位置でその身を蝕む呪いについて語った。
同情を誘いたかったわけではなかったろう。だからこそ、数日経った今こそと喋り始めたのだから。
『だからこそ、勝つためには最善を尽くし、転じて、私たちの陣営の勝ちは揺るがない。けれど万が一にも。あるわけがないとは思うけれど。この戦争を勝つこともできないのなら、呪いに侵された私をあなたに処理してもらいたい』
凄絶な内容に反して、普段の軽口と同じ声色だった。
かつてサーヴァントに裏切られた経験から、決してサーヴァントに弱味を見せないということを信条にしていたはずの美沙夜の「こう言った方が言うことを聞かせられるんじゃないか」という自覚的か、無自覚的かの願いでもあり、庇護すべき人々を傷つける魔物となる前にトドメを刺してほしいという、ノブレスオブリージュの精神故でもあった。
「……それじゃあ、まあ、
「ああ、そうそう。今日から数日の間はこれを持って行ってくれるかしら」
美沙夜が目線で指した場所にあったのは、微小な魔力の封じられた、小さなサファイア。
「なんだ、このちっこいのは」
裏を見ればルーン文字が刻まれている。ランサーが解析するまでもなく、美沙夜が解説を始める。
「今、私が手に持ってるこの呪符。ルーン文字が刻まれているわ。これに私が魔力を込めるとそのサファイアが起動する。増幅回路になっていてね、私の込めた魔力量に応じて、増幅率も変わるわ。屋敷に私では対応しきれない相手が訪れたときには、私が呪符に魔力を込めるわ。そのときは戦闘中でも戻って来なさい。その宝石を相手に投げれば目眩しにもなる。人のいるところでは使わないように」
「了解」
サーヴァントは霊体化して空間に溶けるように消え去った。
美沙夜はしばらくの間瞑目し、それからティーカップを傾けて、紅茶を飲んだ。
本のページを繰りつつ、窓を眺めていると、例の正門前に人の気配が現れた。
「あら、あれは……」
まるで観光にでも来たみたいに、夜、一人の少女が玲瓏館邸を眺めていた。ソファーから立ち上がり、美沙夜も少女を凝視する。
メガネをかけた少し野暮ったい、けれどどこか見覚えのある。
「沙条の生き残り……」
昨日の今日である。偶然か、それとも。
襲撃したランサーと美沙夜とを繋げる線を、沙条の生き残りに披露した覚えはない。
けれど、いかなる術式か。亡くなったはずの沙条愛歌をその身に降ろし、窮地を切り抜けたということだった。そしてご丁寧に、ランサーを屋敷まで転送してくれるというおまけつき。
沙条に降霊術の研究はなかったと聞いているけれど、隠し球とはこれだったのか。それとも沙条愛歌の死というそれこそがフェイクだったということか。
沙条側の策略は読み切れない。
けれど、沙条からアクションがあるとすればここ数日だろうと考えていた。これほどに早いとは思ってもみなかったが。
ランサーを屋敷に留めておこうという考えはあったが、生憎、美沙夜には
呪符を握りつつ、敢えてこちらから応じるか、向こうからのアクションを待つか。正門を見つめつつ、兎角ランサーを呼ぼうとしたところで、沙条側が屋敷から遠ざかっていく。
「何よ。全く」
重たい息を吐く。
結果はどうあれ、今は、すぐさま呪符に魔力を込めるべきだった。資材一つ消費するのに一瞬だけ迷った。
この一瞬で命を落としたかもしれないのに。
この身は自分のためにだけのものではない。
勝たなければいけない。
それが玲瓏館美沙夜としての覚悟だ。