遅くなりました。
シリアス回です。
月明かりだけが頼りになる薄汚い路地。埃っぽさと害虫が蠢く中、マフィアを率いているガンビーノは焦りを露わにしていた。
「──クソがッ!」
ガンビーノが怒りに任せてゴミ箱を蹴り飛ばせば、腐乱した生ゴミが散乱し、周囲のマフィアは恐怖と腐敗臭に表情を歪めている。
──全てはあの環状線での出来事が計画に大きな支障を及ぼした。
化け物と呼ぶに相応しいシュテンの力により、全て頓挫。カポネとも道路の崩落から落下して以降、会えておらず、連絡もつかない状況である。
予定以上の爆薬を使用したとあってはガンビーノとて悠長にしている余裕は無い。最悪、あの一連の崩落が自分達の起こした事件だと扱われ兼ねなかった。それ程までに一個人で成せる所業では無いのだから。
大地の果てでまた会おう──その言葉を頼りにガンビーノはペンギン急便を探し続けたものの、その
そして有限の時間を無作為に浪費する訳にも行かず、最終手段とも言える手段を取る事となったガンビーノ。
それは鼠王への対談。このスラムのみならず龍門全体に情報網を網羅している彼であるならば、大地の果てについて把握している筈、と踏んでの行動であった。
だが鼠王もまた行方を知らず。我慢の限界を超えた故の悪態である。
「おい、スラムのゴミ共を痛めつけてでも、鼠王の居場所を吐き出させろ」
「……しかし、カポネさんは住民に手を出すなと──」
「てめえらのボスは誰だ!? あんな腑抜けた男じゃねえだろうが!」
腹の底から響き渡る怒号。家族とも呼べる
そして彼はスラムの住民を虐げながら情報を聞き出していく。だが何一つ鼠王の所在に関する物は得られる事は無かった。
命までは奪わずとも、骨の一本や二本を折られようが知らぬ存ぜぬを突き通す住人。余程の緘口令を敷いているのか、はたまた誰にも知られていないのか──その真偽はガンビーノに判断がつかない。
その数が三十を超えた頃、苛立ちがピークに達したガンビーノは、八つ当たりで仲間の一人を蹴り飛ばした。
それでも消えぬ焦燥を何度も蹴り付ける事で発散させようとするも、変わる事は無い。
「──クソがッ!」
再び声を荒らげたガンビーノ。鼠王を探す手段はより強行なものへと変わって行く。
他の移動都市から逃亡して辿り着いた先が龍門だった──その一連の流れは決して珍しいものでは無い。
裏社会では数少ない物資や金品を奪い奪われ、時には人を殺めて這い上がって行く。そして落人に待つのは死肉まで喰らうハイエナ達。出涸らしであろうとも貪る彼等の前では骨一本すら残りはしない。
そんな血肉を奪い合う死地から逃げ延びた者に頼る先など無い。命辛々逃げ延びた地が、多種多様の種族が住み、表と裏が同時に繁栄して成り立つ地、龍門だったと言うだけの話。
だが龍門は外部の者に寛容であるとは言え、決して無法では無い。龍門には龍門のルールがあり、スラム街もまた、例外では無かった。
そしてガンビーノとカポネ。彼等が龍門でマフィアとして生き抜く条件として、スラムの統治者である鼠王から幾つかの制約が提示されていた。
その中でも重要視されていたのは、不殺を貫く事。そして住人に手を出さない事。この二つが龍門を生き抜く上で守るべき秩序とされていた。
カポネは知っていた。何年も前からこの地に訪れており、フェンツ運輸の中に潜む反乱分子とのコネを作り上げたからこそ、ペンギン急便に成り代わる作戦だったのだから。
ガンビーノは知らなかった。この計画の為に龍門に訪れており、鼠王など所詮はスラムの象徴たる地位にいるだけの置物に過ぎないと侮っていたのだから。
故に彼等は破ってしまったのだ。この龍門におけるルール、喧騒の掟を。
目を瞑ってでも進める程に歩き慣れた道を鼠王は行く。喩え月明かりすら入らぬ裏道だろうと、その足取りが阻まれる事は無い。
スラムの王である彼の元には多くの情報が転がり込んでくる。龍門のありとあらゆる場所に目があると表現しても過言では無い程、鼠王の腹心は存在していた。
そしてガンビーノの狼藉も漏れる事無く彼の元に届いている。龍門が大都市として名を挙げるよりも、数十年前から心血を注いで作り上げたスラム。表を光とするならば、闇を一身に背負い続けてきたからこその貧民窟の鼠王。
彼からしてみれば、スラムとは家族であり、自身そのものと言える存在であった。
その中でも幼馴染と呼べる仲の人物がいる。龍門の闇を共に背負うと決めた仲間達。同じ釜で飯を食い、汚泥に塗れながらも龍門の為に、と誓い合ったのだ。
長い年月が経つにつれ、その仲間も多くが亡くなっている。多くの同胞の亡骸によって成り立つこの世界で、心を許せる仲間が喩え僅かに生き残っていた。
そしてその一人である伝説の元マフィア、菫。龍門を作り上げる最中で後遺症を負った彼は、この平穏となった龍門で魚団子スープの屋台を経営していた。
子息には恵まれなかったものの、大きく歳の離れたジェイと呼ばれる少年を弟子に付け、日々を満喫している。
そんな彼に会う為、鼠王は路地裏を歩いていた。年相応のゆったりとした牛歩で進み、息一つ切らしてはいない。一見してみれば平静の一言に尽きるだろう。
だがもし、エンペラーが彼を見たらこう言うだろう。
──おいクソ鼠。そんなに急いで何処に行くんだ? と。
観察力のずば抜けた者が見れば容易に悟られる程、彼の視線と足取りは一点のみに集中していた。
そして辿り着いた先に待っていた菫。
だが彼は──暗い裏道で血を流して倒れている。
「……菫や。生きておるか?」
「…………」
鼠王が声を掛けようとも返事の一つも返らないどころか、その身はピクリとも動きはしない。鼠王は眼を微塵も揺らさない冷静さを見せつつも、万が一の覚悟を決めていた。
だが菫とてその名を轟かせていた人物。年老いても多少の暴徒相手であれば物ともせず、また引き際を瞬時に見極められる猛者でもある。
確信にも似た予感を抱きながら、鼠王は言葉を続けた。
「ふむ、元気そうじゃの」
「……なんだよ、分かってるならわざわざ聞くなよ」
軽快そうな声を出しながら状態を起こし、汚れた外壁に
「冗談じゃよ。事情は把握しておる。……ワシの居場所など、このご時世なら隠す必要も無かろう」
「遠い昔の契りだろうと、約束は約束だ。俺がスラムのルールを守らねえで誰が守る?」
「相変わらず頭が固いのう。……そんな事よりもお主の傷を治療せぬとな。ほれ」
「痛、いだだだっ! リンさん、少しは優しくしてくれよ!」
命に別状が無いと判断した為か、鼠王は少し巫山戯た様子で強引な手法を用いて治療していく。
それもどこか懐かしいのか、痛みに悶えながら菫も少しだけ笑みを浮かべていた。
「のう菫よ。お主は今、幸せか?」
「なんだ、藪から棒に。……そうだな。苦労も多いが、この平穏は俺達の求めていたもんだ。幸せだって言えるんじゃねえか? 愛娘まで作って過ごしてるお前だってそうだろ?」
「……その通りじゃな。ワシもお主も、あの頃に比べたら遥かに幸せな時を生きておろう」
「……言ってぇどうした?」
含みのある言葉遣いに顔を顰めた菫の視線が、鼠王を貫く。だが鼠王の瞳には感情を一切浮かんでおらず、何一つ思考を読ませる事は無かった。
「今回のシラクーザのマフィアは、ギリギリのラインを見極めておったつもりじゃった。彼奴が力を見せようとも、掟を破る極僅かな線を踏ませようとな」
「……オニの兄ちゃんか。あの桁違いの強さは初めて見た時は腰を抜かしたもんだ」
「そこを考慮してもじゃ。対面して奴等の底は確かに見えておったにも関わらず、ワシは見誤った。歳といえば歳なのかもしれん。……だがそれ以上に、スラムが大きくなり過ぎた」
十全に事態を想定して何重にも策略を張り巡らせていた。それはシラクーザのマフィアだけの話では無い。この騒ぎに乗じて起こりうる惨事の全てを考慮する必要があった。
全二十二区に区分けされる龍門。その七区相当の広さを持つスラム。その大きさでありながら、日に日に住民が増え続けているのが現状だ。
それもその筈、迫害を受ける感染者の受け皿は此処にしか無いのだから。
ロドスのような感染者に対する寛容──意識改革にも等しい所業を、大規模の龍門で行える筈も無く。かと言ってスラムの住人が飢えに苦しみ、生命すらも奪い合う生き地獄へ鼠王が落とす訳もなく。
ただその
だがそれも最早限界なのだろう。スラムの王である鼠王が管理しきれないレベルとなれば、誰の手にも負えはしない。
僅かに見えた綻び。その結果が今、目の前にある。
「──何れにせよ、スラムには転機がやって来る。ワシの手か、執政者の手か、はたまた炎国からか分からぬがの。その時にワシは──」
「リンさんよ。難しい事を話されても俺には分からねえぞ。……でもな、俺達は──スラムはお前の志に付いて来たからこそ、築き上がった結晶なんだよ。誰もお前の決めた事に異論を唱えたりはしねえ。それが
「……万が一、死ぬ事になろうとも同じ事が言えるかのう」
「俺は言えるぜ。散々仲間達の亡骸を乗り越えて来て今があるんだ。俺だけ見っとも無く逃げようだなんて思っちゃいねえよ。……ま、今の若い奴等は知らないがな。でも一つ言えるのは、鼠王がスラムを統べているからこそ、子供達も人らしく生きていけるんだろう」
「…………」
覚悟と決意を固めている菫の様子を静観して見つめる鼠王。少しばかりとは言え弱音を吐く。知己の者達が見ればありえない光景であった。
だが苦難を共にして来た菫だからこそ分かる事もある。
この世界に蔓延る感染者問題。その緩衝材として、龍門の為にと作り上げたスラム街。心血を注いで作り上げた、まさに我が子のようなもの。
龍門の為だった筈のスラム街。それは何時しか自身の大切なものの一部となり、全ての貧困層を救おうと鼠王は躍起になっていた。
冷徹で残忍だった貧民窟の鼠王。人を殺す事に躊躇いも嫌悪も感じはしない。時には部下を率いてウェイと対立した時もあった。時には共に手を取ってウルサス帝国と戦った時もあった。
歩み続けた道程の中で生まれたスラム。何時しかそれは掛け替えの無い宝物へと。
──だがそれでも掌から零れ落ちていく。
命、仲間、信頼、そして大切な子供達。
レユニオン、感染者、シラクーザ、ウルサス帝国──その零れ落ちた隙間を縫うようにして潜り込み、破綻させられていた。
平穏の中、慈愛言う心を持ってしまった鼠王はスラム街の明暗を分ける決断を迫られている。
「のう、菫よ。魚団子屋は繁盛しとるか?」
「あ? ……そりゃグルメ本に載るくらいだからな。ジェイ坊がいなきゃ今頃過労死しとるぞ」
「ホホッ。それは良い事じゃの。……お主も立派な龍門の一部じゃ。最高の魚団子屋が無くなれば、沢山の人が悲しむのう。──だから菫や。お主は長生きするんじゃよ」
「棺桶に片足突っ込んでる爺に何言ってやがる。……それにそう思うなら一度くらいは俺の店に顔を出せよ。娘を連れながらリン・グレイとしてよ」
悪戯な笑みを浮かべた菫。それは伝説の元マフィアとして、スラム街を作り上げた者としてでは無い、一人の龍門市民としての言葉である。
「……そうじゃな。落ち着いた頃に行くとするかの」
そう静かに、鼠王は夜空を見上げながら言葉を零したのだった。
一つの決意をその胸に秘めて。
真紅に染まる瞳を滾らせながら、オニが宙を舞っている。決して比喩では無い。独特の紋様をした和服を靡かせながら、空を駆けていた。
力を解放したシュテンが一足飛びで建物の屋上へと着地した後、建物から建物へと飛翔するように跳躍を繰り返す。その姿は宛ら鳥の様であった。
まるで重力を感じさせない足取り。駆けていく速度は疾風の如く。常人為らざる者だからこその手法である。
目にも止まらぬ速度で移動して数分後。シュテンの辿り着いたのは、先程までモスティマとバイソンが訪れていた駄菓子屋であった。
「……チッ、リンはいないか。ユーシャの気配も無いな」
シュテンは苛立ちを隠そうとしないまま、荒ぶっていた血を鎮静化させた。落ち着きを取り戻した彼は、静かに目を閉じて思案する。
ウェイとの連絡も取れず、鼠王との邂逅も叶わず。ただ無作為に時間が流れている。
刻一刻と夜明けが迫る中、明らかに計画から逸脱した事案。
ただ一つ言えるのは、鼠王。彼はシュテンの思惑の上に居ると言う事。
「……チッ」
再び舌打ちをすれば、シュテンは踵を返して闇へと姿を消そうとする。鼠王がいなければ用などある筈も無い──そう、思った時である。
「──シュテン、何故お前が此処にいる?」
近付く気配に首を向けると同時に、彼の元へ声が掛かる。余り馴染みの無い、だがそれでいてスラム街では異質過ぎる気配に、シュテンは隙を決して見せていなかった。
そしてそこに居たのは二人の女性。龍門近衛局の特別督察隊隊長であるチェンと、その部下であるオニの大女であった。
「チェンか。……その横にいるのは誰だ?」
「あぁ、面識は無かったか。私の部下のホシグマだ。そんな事より、私の質問に答えて貰おうか」
「個人的な確認だよ、気にするな。──寧ろ、近衛局がスラムに何の用だ?」
「環状線がマフィアの抗争で破壊されて、住民に暴力が振るわれる被害が出ている。その主犯が此処にいると情報が入ったからな」
淡々と事務的なまでに徹底した、近衛局としての姿をチェンは見せる。その行動に過失は落ち度は無いだろう。模範的な姿勢はシュテンですら賛辞を送る程だ。
だが、この一件はウェイの元で検閲され、情報を統制されるべき案件である。起こるべくして起きた事件。確かに環状線が破壊されたのは予定外なのかもしれないが、それでもウェイの力を持ってすれば闇に葬るのは可能であるとシュテンは判断していた。
にも関わらず、彼の右腕たるチェンが直々にこの場にいる。その事に思わずシュテンは溜め息を吐かざるを得ない。
「そうか。なら解決に向けて頑張ってくれ。俺は俺で急ぐ所があるからな」
そう言ってヒラヒラと手を振り、シュテンはその場から離れようとする。
「──ホシグマ」
「了解」
名前を呼ばれて小さく言葉を返したオニの大女──ホシグマがシュテンの腕を掴んだ。並みのオニを遥かに超える膂力。車両ですら片手で軽々と持ち上げる彼女に掴まれたとなれば、通常のシュテンでは振り払える筈も無い。
「……ほう。お前、先祖返りのオニか。それも中々の濃さだ。その狂気、良く抑え込めるな」
「──ッ!?」
「俺の存在を本能で理解したようだな。──で、チェン。何のつもりだ?」
酒呑童子と言う狂気。強さの元凶であるその血──より多く受け継いだオニを先祖返りと呼ぶ時代があった。
現代となっては滅多に現れない事象。シュテンでさえ忘れかけていた存在が目の前で怯えた様子を見せている。
それもその筈、酒呑童子の血そのものであるシュテンに対し、大きく薄まって劣っている存在が歯向かおうなど、本能が拒絶反応を示すのは当然であった。
そんなホシグマに目もくれずに、シュテンはチェンを見据える。最悪の事態を想定した上で、ただ静かに。
「……ウェイ長官直々に拘束命令が出ているのはシュテンに対しても、だ。……お前は好感の持てる男だから、出来れば荒事にしたくは無い。大人しくしてくれないか?」
「……悪いが構っている暇は無い。ウェイ長官には俺から伝えておくから放っておけ」
──何故ウェイが俺を拘束する?
派手にやり過ぎて隠蔽が不可能だった?
──第一、此処へ即座に辿り着くのも不可解。
ユーシャと鼠王、ウェイが繋がっている?
──そもそも、二人で俺を拘束出来るなど、ウェイは本気で考えていない筈。
となればこれは単なる時間稼ぎなのだろう。
──何故時間を稼ぐ?
俺と言う驚異が不在のペンギン急便に意義がある。
思考を巡らせ、現状の把握に務めるシュテン。ウェイと鼠王の思惑が読み切れず、掌に踊らされているのは実に不愉快であった。
だがそれ所では無い。シュテンの推測が正しいとなれば、ペンギン急便に何かを仕掛けようとしている。
歩き出そうとするシュテンの腕をホシグマは気力を振り絞って引き寄せる。全身が浮き上がって強引に引っ張られたシュテンの両腕に、チェンが金属製の手錠を掛けた。
「余り手を煩わせないで下さい。確かに貴方は不気味ですが……此方も仕事ですので」
「……チェン、二度は言わんぞ。俺を離せ」
「私も仕事だからな。悪いがこれ以上抵抗するなら武力行使に移るぞ」
「そうか……」
ガチャガチャとなる手錠を鬱陶しそうにシュテンは見つめる。恐らくは並みの力自慢にも壊されない特別製なのだろう。力を込めてもビクともしない強度を誇っていた。
──だが遊んでいる時間は無い。
「っ……ぁ……」
「ホシグマ、どうした? 何か体調でも──」
オニが
今まで出会った強敵にも感じ得なかった命の危機。本能に刻まれた酒呑童子への恐怖がホシグマを支配し、チェンもまた、冷汗を流しながら震え、シュテンを見る。
そこには、粘土細工のように手錠を毟り取るシュテンの姿があった。
「──目が覚めたらウェイの野郎に伝えておけ。相応の代償を払って貰うとな」
一足飛びで距離を取るチェンと、何とか身体を動かして対面するホシグマ。
酒呑童子は笑う。狂笑う。強者との死合いは、彼の血を何処までも滾らせるのだから。
カポネは動揺していた。急ぎ足でスラム街を抜けて行くも、その動悸は高鳴っていくばかりであり、不安が募っていく。
──ガンビーノがスラムの住人に暴力を振るっている。
その報告を部下から受けた時、全身から血の気が引いた感覚を覚えたカポネ。この龍門で生きる為には決して破ってはならない掟なのだから当然であろう。
唯一シラクーザのマフィアに許されているのは、ペンギン急便に対する行動のみ。ただそれだけである。
「あの馬鹿は何処にいやがるんだ……!」
部下に命令を下してガンビーノの居場所を探ろうとしても、行方不明のままに時間だけが過ぎていく。唯一にして絶好の日でありながら、全てが徒労に終りかねなかった。
何度か部下の報告を受けても見えない足取り。煙草を吹かして紫煙を立ち登らせようとも、その焦燥は収まる事を知らない。
そんなカポネの元に、緩慢な動作で訪れる者が一人いた。
娘の手作りである純白のコート着込み、杖を突いたザラックの老人、鼠王である。
「──お主ら、随分と好き放題やってくれたのう」
気配などまるで感じもしなかった中、突如響き渡る声に、カポネは身を震わせる。
振り向けば厳格な顔をした鼠王が張り詰めた空気を纏って立っていた。
「……鼠王。アンタの
「なんじゃ、彼奴の情報も知らずにペンギン急便に成り代わろうと思ったのか? やれやれ、随分と浅はかじゃのう……」
「ジジイ……てめえ……」
半ば言い掛かりのように難癖を付けるカポネであるも、鼠王は一蹴。それどころか、軽んじるような口調で揶揄されてしまう。
怒りを見せるカポネは額に青筋を浮かべるも、まだ口に出したりはしない。
龍門のルールを破ったのは他ならぬ
「さて、どう落とし前をつけてくれるんじゃ?」
「……アンタが事前に化け物の情報を教えてくれれば俺達は別のやり方で始末出来た。この責任は鼠王、アンタにもある筈だ」
「ほう、異な事を申す。シラクーザから逃亡したマフィア如きに彼奴が倒せると? ならば教えて欲しいものじゃな。お主に天災を止められる、その方法を」
「………そこまで言う相手を秘密にしておくとは随分と嘗めた真似をしてくれるじゃねえか」
カチャリ、と音を立ててボウガンを照準したカポネ。結局の所、良い様に嵌められただけなのだと気が付いた彼の瞳には、明確な憤怒が見て取れる。
だがそれでも鼠王の態度は一変足りとも変わることは無かった。
「何のつもりじゃ? まさかワシと──スラムと、事を構えるつもりか?」
「…………」
「──ハッ、随分と怒ってんじゃねえか、カポネ」
突如鼠王の背後から降り注いだ声──そこには大量のマフィアを引き連れたガンビーノが立ち尽くしていた。
カポネの部下達に連れられて此処まで来たのだろう。情報把握が出来ていない様子であったものの、古き友人が怒りを見せているのを、嬉しそうにしていた。
そしてカポネは矢を充填したボウガンを鼠王へと向ける。後はトリガーさえ引けば何時でも射出され、すぐ様に対象の肉体を貫くだろう。
決意を瞳に宿したカポネの指先は、既に撃ち抜く準備が整っていた。鼠王と交わる視線。恐怖も敵意も浮かべはしないその姿はまさに老獪の王。
数瞬の束の間の時。膠着は一瞬にして解かれる。
目にも止まらぬ高速で撃ち抜かれた矢。夥しい鮮血を撒き散らせながら肩口へと深々と突き刺さった。
鼠王──その背後にいた、ガンビーノへと。
「ぐっ……がっ!」
苦痛に声を漏らすガンビーノを、カポネは静かに見つめる。旧知の仲──それも、自身のマフィアのボスに向けた視線とは思えない程、冷酷なものであった。
「鼠王、これが落とし前だ。……俺達は、この龍門のスラムでしか最早生きられない。アンタには逆らうつもりは毛頭も無いのを理解して欲しい」
「こやつはお主のボスじゃろう。そんなトカゲの尻尾切りが許されると思うのか?」
「許されないならこいつを殺すだけだ。ガンビーノ一家は龍門のルールを破った事で壊滅し、新しくカポネファミリーとして生まれ変わる。簡単な事だ」
決意したカポネは、何処までも冷め切った思考で言葉を紡いでいる。
そして痛みに
「カポネ……てめえ……俺を裏切るって言うのか!? 誰がボスだと思ってやがる! 臆病な犬に成り下がりやがって……!」
「ガンビーノ、ここはシラクーザじゃねえ。確かにシチリア人であることを誇りに思うのは立派だが、龍門には龍門のルールがある。……無謀を突き通してファミリーを壊そうとしているのはお前だ」
「ホッホッ、思ったより知恵が働くようじゃな。……その思慮深さがあれば今頃シラクーザであの女に潰されず済んだろうに」
スラムで起きた住民への暴行騒動。ボスと言う立場と指示者としての責務を全うさせる、と、カポネはガンビーノを生贄として差し出した。
組織として考えれば頭が責任を取るのは常套とも言えよう。尤も、それは本人自身による申し出が主であるが。
だがどうあれ、理に適っていると判断した鼠王は、予想外の方向に転ぶ事態にからからと笑う。されどカポネ、彼にとって悲願とはこの龍門で確固たる地位を作る事。今目の前に居る貧民窟の王に許しを乞うことでは無い。
「……そこまで把握してるなら、俺達が如何に切羽詰まった状況なのか理解してる筈だ。……鼠王の力無くして、あのペンギン急便は討ち取れねえ。俺達のファミリーは、アンタには従う」
「……ええじゃろう。お主の見上げた生への執念に免じて保留にしておいてやる」
そして鼠王は不遜の態度のまま、言葉を続ける。
「次いでに朗報じゃ。お主らが怯えとる彼奴の身柄を遠い地で押さえ、逃げ込んだ先──探しておった大地の果ての位置をこちらで掴んでおる。まさに千載一遇の時じゃな」
「……臭うな。余りにも胡散臭い。用意周到過ぎやしねえか? 一体俺達を使って何を企んでやがる?」
「それをお主に教える意味は無かろう。他意があろうともなかろうとも、お主らに選べる道は突き進むのみじゃ」
まるで鼠王によって敷かれたレールをただ走るだけの暴走列車。本性を隠そうともせず、ただ行く先を指定する鼠王に対し、カポネは訝しげな表情を浮かべる。
だがそれは列車が出発する前に気が付かねばならなかった。一度走り出せば止まる事の無い急斜面。ただ鼠王によって作られた道を往く事しか、彼らには選ぶ選択肢しかないのだから。
「……チッ、じゃあ今更だが一つだけ教えてくれ。この件──ペンギン急便に成り代わる話は、元々俺達が持ち掛けたものだ。スラムへの流通を第一に優先する利点を差し出して、な」
少しだけ言葉を止め、言葉を反芻するようにカポネは目を瞑る。そして再び、言葉を選ぶように口を開いた。
「だが調べている内に気が付いた。アンタとペンギン急便──と言うより、あの男とエンペラーに繋がりがあるって事がな。……古い仲なんだろう? それで何故、ペンギン急便を裏切られる?」
蛇の道は蛇。喩え部外者と言えども、シラクーザでは長年活動していたマフィアなのだ。この程度の当たり障りの無い情報収集程度ならば造作もない。
全てが仕組まれた茶番劇なのだから何故も糞もない──そう、言ってしまえば身も蓋も無い話ではあるも、カポネの瞳に映る鼠王の顔。
それは今まで見た何よりも、真剣な顔付きとなっていた。
「表向きは型破り極まりない連中だが、それでも龍門のルールには触れない範囲での行動じゃ。彼奴等は間違いなくこの龍門に新しい風を吹き込む。そう思わせる程の人材じゃよ」
「……余計理屈に合わないじゃねえか」
「──だがあの男は別格じゃ。ルールは龍門に在らず、全ては自身の信条の元によるもの。特に仲間の事となれば何一つ省みない。仲間の為ならば環状線道路を破壊し、必要とあれば人を殺す。仮にもし、ペンギン急便が龍門と対立する事となれば、龍門に喧嘩すら売るじゃろう」
「……つまり、龍門にとって強力な刃でもあり、暴発する爆薬でもある、か。……この巨大都市となった龍門にそんな爆薬は必要ねえ──そう言う訳だな?」
コクリと頷き、鼠王は空を見上げる。最早言葉を紡ぐ事は無く、何を思い浮かべているのかは、カポネには分からない。
だがそれでも。鼠王に比べたら児戯にも等しい観察力だとしても理解できる程、鼠王の瞳には強い意志と決意が滲み出ていた。
その発言の真意が分かればカポネにとって、これ以上の言葉は必要は無い。それぞれが思い描く未来図に口を挟む程、自身に余裕など無いのだから。
鼠王から必要な情報を聞き出し、カポネは背を向けて歩き出す。部下達にガンビーノを引き摺らせながら向かう先は大地の果て。
喩えそれが罠だとしても、引き返す先など無いのだから。
そんな中、ふと思い出すのは鼠王の言葉。ペンギン急便の化け物の男──シュテンは仲間の為なら龍門のルールをお構い無しに破るという事。
ふと感じていた違和感。重要な事では無いと無視していた筈なのに、何故か今になって思い出されてしまう。
一度考えてしまえば消えぬ思考。無意味に巡らせる事となり、何度も反芻した後に漸く、その違和感に辿り着いた。
龍門──否、スラム街の為にその手を汚す事を厭わない鼠王。必要とあらば私見で裁き、ルールに反するならばシラクーザのマフィアすらも手中に収めようと強引な手段を用いている。
──まるで一緒じゃねえか。
そしてそれは、カポネ達マフィアにも言えるファミリーの為に奔走する今があるのだから。
──アンタは気が付いているのか?
否、気が付いていない筈が無い。
まるで何かに──それこそ、自分に言い聞かせるかのような台詞。違和感は疑惑へと変わるも、それは今は不要な感情。
夜風に吹かれ、寒さと共に思考が消えて行く。そしてカポネ達は夜のスラム街へと歩いていくのだった。
喧騒も街灯も無い静かな裏路地で、鼠王は立ち尽くしていた。
暖かいコートに包まれるも、心は冷えきったまま。言い表せない感情を心に秘めたまま、彼は無表情で空を見上げ続けている。
「……ふぅ」
重い溜息を吐けば、白くなった吐息が空へと霧散する。
それでいても、鼠王の心情は幽幽たるもの。まるでスラムの未来を示すかのように暗雲が立ち込めている。
それ程までに彼の決断は重圧を伴うものであった。
昔の鼠王ならば──冷血の王であった鼠王ならば、迷いも無く即決断しただろう。
都市と都市がぶつかり合い、硝煙を上げる街の中を敵兵が蹂躙していく市民を見ても、顔色一つ変えなかったあの頃。
寧ろ百計を張り巡らした敷地内に踏み込む敵に笑みさえ浮かべていたスラムの王。
それが今のなっては、決意しながらも揺れる心に踊らされていた。
古き友──シュテンを自らの手で始末する事に。
共に汚泥に塗れた訳でも無い、親友とは呼べない関係。だが幾度と無くその武勇に助けられた。
その相手に今、仇で返そうとしている。
エンペラーにもシュテンにも知られてはならない。
飽くまで独断での計画の変更。その延長線に偽装させ、実行しなければ、鼠王自身の身の安全──そしてスラムすら危ういものとなるのだから。
誰もいない静寂の中、コツコツと無防備に歩く音が響き渡る。
鼠王の感じた事の無い、その上、蜃気楼のように揺らぐ不安定な気配を纏いながら彼女は近づいていた。
「お初にお目に掛かるわ、鼠王。──私はミズ・シチリア。少しお話したいのだけれど、良いかしら?」
尻尾のように長い真白の髪を揺らし、甘美な毒を持つ魔性の女が、鼠王へと接触する。