シュテンと敵対するという意味。それは自殺行為に他ならないと、彼の暴力を見れば誰もが思うだろう。
一挙一動が死を纏う死神。その認識はウェイや鼠王に於いても変わりは無い。争うくらいであれば、上手く利用して使役した方が幾分も利益を生む事は言う迄も無かった。
当然、シュテン自身の認識も同様であり、その結果が今の龍門に於ける立場なのだと理解している。
だからこそ、シュテンは鼠王に問い掛けた。
「お前は
その言葉は言わば最終警告。今にも暴れ狂う衝動を抑え込み、熱い吐息を吐き出しながらシュテンは構えていた。
ここで矛を収めれば全て不問にしてやる、と。長い付き合いの執政者が相手だからこその問いである。
不遜。
紛うことなき傲慢な態度。
鼠王と言うスラムの王に対して余りにも無礼な発言は、聞く者が聞けば逆上しかねない程の暴言である。
されど鼠王の心は平静を保ち続けた。恐れなど
「愚問じゃのう、売っておらぬ訳が──っと、油断も隙も無い。動けば子奴がどうなるか分かっておろう?」
言葉を返したその瞬間、シュテンの全身に力が漲ったのを鼠王は見逃しはしない。その剛力が振るわれるよりも早く、捉えているテキサスを人質として突き付けた。
まるで石像の如く微動だにせずにシュテンは停止する。
「何、命までは取らん。それが龍門の掟じゃ。だが──手足の一本は貰う予定でいたがの」
「だったら俺の腕でどうだ?」
「──ホ。ホ、ホ……カ、カカカッ! 異な事を言う! その暴力が振るわれぬまま鋼よりも強靭な肉体を切り飛ばせる保証など、万が一にも存在せぬだろうに!」
喉の奥から込み上げる声で笑い、鼠王らしからぬ姿を見せていた。
狂気にも似た荒唐無稽な発言。その上、自己犠牲を是としない筈のシュテンが、そこまでの言葉を口にする事自体、余りに異常なのだと。
故に鼠王は思う。
──それでこそあの信憑性が増す、と。
だがシュテンは鼠王に言葉を返すこと無く、チラリとモスティマを視界に収めた。
「モスティマ」
「……はぁ、うん、そうだよね。分かってるよ。それが貴方の生き様なんだから」
「その女の相手は任せたぞ」
「うん。シュテンも気を付けてね」
何処か憂いを帯びながらも諦めたように笑うモスティマ。言葉など不要と言わんばかりにたった一言名前を告げるだけで心を通じ合わせる。
そんな彼女の姿を見て納得したシュテンは、手にしていた煙管から火種を捨ててソラへと手渡した。
コツコツと足音を立て、少しだけ鼠王へと歩み寄り、対面する。
そして──
「ッ!」
──自らの右腕で左腕を掴み、引き千切った。
肘から先が無くなった左腕から、夥しい程の血煙を上がる。
想像を絶する痛みを伴うであろう自傷だと言うのにも関わらず、シュテンは眉間に皺を寄せるだけであり、悲鳴どころか呻き声すら出さないでいた。
幾ら本人が言葉にしていたとは言え、余りに突発的な行動。鼠王、そしてミズ・シチリアさえ、瞠目し、思考が停止して硬直する。
忽然とした事態を把握するのに肝要なのは老練な人生。鼠王ならばコンマ何秒とあれば正常な思考を取り戻すだろう。
──されどその刹那の時間。シュテンを前にしてその隙は致命的である。
予備動作も音も無く、鼠王の視界からシュテンの姿が颯と消え去る。──否、無音では無い。音を置き去りにする程、稲妻の如く動いただけの話。
鼠王がその事実を把握出来たのは、シュテンが目の前に現れたその直後。先まで居た場所の床が弾け飛び、爆音を奏でていたからだった。
シュテンの全身が悲鳴を上げるように、ビキビキと不穏な音を鳴らす。鼠王に対して半身となって脚を広げているその姿から、力を溜め込んだ豪脚が放たれるのは誰が見ても明らかであった。
──思考が、身体が追い付かぬ。
絶対防御に守られたその身でさえ、死の予感を感じさせる暴力。未だ鼠王の思考はシュテンに隙を突かれて距離を詰められた状態に過ぎず、その一撃が到達するまでに行動を起こせる余裕など無かった。
──それ故、鼠王は全身の遍く筋肉を脱力し切った。
「疾ッ──!」
訪れるべくして訪れた衝撃。小さく息を吐いたシュテンから放たれた回し蹴りは鼠王の身体──に纏う砂の障壁に直撃する。
轟音の響き渡る衝撃波。宛ら空爆を受けた爆心地のような、人体同士の衝突とは到底思えない。
まるで弾丸の如き速さで鼠王の身体が吹き飛んで行く。鉄板の外壁を容易く貫き、隣の家屋、更にその先の家屋へと貫通した。
幾度と続く破砕音が十数秒続いた現実を考えれば、遥か遠くまで鼠王が飛ばされたのか容易に想像出来るだろう。
大きく破壊された壁の先、深淵と言わんばかりに延々と続く爪痕。鼠王の姿は最早視認する事は叶わない。
余りに遠くへ引き離された結果、鼠王のアーツ──テキサスを捉えていた巨腕が崩れ落ちる。倒れ込みそうになるテキサスを支えるように、シュテンはそっと体を体で受け止めた。
「シュテン、すまない……」
「いや、俺の見立てが甘かった。良く耐え抜いたな、十分な働きだ」
「違う! そうじゃない! わ、私のせいで腕が!」
「ん? ……嗚呼、安心しろ。
まるで余裕の無い、焦りすらも感じさせるテキサスの対応に対し、怒りを顕にしながらも冷静のままなシュテン。
切断面すらズタズタになっていた左腕の傷口同士を右腕で押さえ、いつの間にか密着させていた。さも当然のようにその手を離せば、既に出血は止まっている──どころか、癒着し始めており、痛々しい傷跡を残すだけであった。
だがその腕は万全な状態とは言い難いようであり、僅かに指先の震えが見られる。
「エクシア、クロワッサン。仇は取ってやるからな」
「いやいや、あたしはまだ死んでないからね?」
「あたしは、じゃないやろ! ウチも死んでへんで!」
軽い言葉を返しながらも、エクシアは脇腹を、クロワッサンは腕を押さえていた。動く度に激痛が走るのだろう、笑みを浮かべながらも時折痛みを堪えるように顔を顰めている。
「さて、続きだ」
ペンギン急便の容態を確認し終えたシュテンがミズ・シチリアへと振り向く──事は無かった。鼠王の吹き飛んで行ったその先。ただ一点を見つめ、目にも止まらない速度で駆け抜けて行った。
「……なぁソラ」
「……? どうしたんですか?」
何処か神妙な面持ちで、テキサスはポツリと話し出す。
「……仮にもし、だ。シュテンの腕が動かなくなったとしたら……」
「……そうなったら、皆で支えて行かないと、ですね……」
「いや、私の全てを捧げてでもシュテンの右腕となれば良い。……寧ろ、そこまで行けば最早伴侶なのでは無いのだろうか?」
「テキサスさん、頭打ちました?」
ほんの僅かな時間、たった一人の男が現れた──それだけで場の空気が一転する。殺意と暴力に塗れた緊張は見事に解け、何時もの軽口を叩く様子すら見られた。
そこまで全幅の信頼を寄せられているシュテンだからこそ、物語が上質に彩られる──そう、ミズ・シチリアは確信し、笑みを深めた。
「あら、私の事は見向きもしてくれないのね。これでも絶世の美少女なのだけれども」
「君のようなちびっ子には興味無いんじゃないかな? それよりも──まだやるつもり?」
シュテンが鼠王を相手するとなれば、モスティマにとってこの状況は、錠を解く必要の無い易々たる物である。
何時もの余裕を取り戻し、手馴れた手つきで杖を構えた。
しかしミズ・シチリアは笑みを浮かべるばかりであり、無防備な姿を晒したまま。既に闘う意志は無いようであり、音も無く静かに歩き出した。
「彼が来たのならもう貴方と争う必要は無いわ。飽くまで鼠王が貴方達を捕らえる為の時間稼ぎだったのだもの」
「そうだろうね。ならもう貴女の計画は瓦解したと諦めたの? 次いでにその計画について話してくれても良いけれど」
「私はただ楽しければ良いのよ。人の不幸と悲劇。それを見る事だけがこの世を謳歌する全てなの。だから──この結果も物語の分岐の一つに過ぎないわ。……それよりも鼠王の計画について考察した方が良いんじゃないかしら?」
真に考えるべきは鼠王の行動だとミズ・シチリアは語る。
何故ペンギン急便、もといシュテンと争うのか。
何故シュテンを引き離し、ペンギン急便のメンバーを襲ったのか。
何故メンバーを狙うなどとシュテンの琴線に触れる行動をするのか。
その酒呑童子の強さを誰よりも知っている筈の鼠王が。
そしてミズ・シチリアと言う異分子。シラクーザを裏で支配する鼠王と同等の怪物。
蠢く情勢と龍門の立ち位置とスラム街に蔓延る懸念。
モスティマはその全てを混ぜ合わせて黙考し、混沌とした其々の思惑を仮定とした中で、一つの結果だけが視えてくる。
「……まさか、君が、彼を……」
「ご明察よ。聡いのね、モスティマ。私、賢い子は好きよ。そんな子が簡単に私の掌に踊ってくれるのだから、本当に可愛いわ」
普段から全てを見通すように笑みを浮かべているモスティマが驚愕の色に表情を染める。そんな光景でさえ、ミズ・シチリアは愛おしそうに狂った笑みで見つめていた。
純白の絹糸のような髪を揺らし、蛇の如く赤い瞳がペンギン急便達の姿を捉えるように視線を動かす。
「主人公はシュテン。ヒロインは貴方達。不本意だとしても鼠王は必ず遂げるわ。それが彼にとっての悲願なのだから」
コツコツと歩く姿は無垢な少女そのもの。だがカポネやガンビーノの死体を見向きもせずに踏み抜き、出口に立つ彼女の姿は間違い無く死神であった。
「さぁ、悲劇の結末を奏でに行きましょう。貴方達が居なければ、物語は不完全燃焼で終わってしまうもの」
──死色に染まる、酒呑童子の結末を見る為に。
チカチカと明滅を繰り返す視界と全身に走る鈍痛が生の実感をさせる。
砂煙の中、杖に身を任せながら鼠王は立ち上がった。
「……ふぅ」
ペンギン急便にさえまともな傷を与えさせなかった障壁は、殆どに亀裂が走っており、特にシュテンの回し蹴りを受けた場所に関しては無惨なまでに砕け散っている。
だがそれでも──大きな傷を負う事無く直撃を受け流す事が出来た。
それは紛う事無き珠玉の経験。本来であれば衝撃だけでも上半身が消し飛ぶ威力を、ただ脱力を仕切るだけでも四肢の欠損も無く、継戦する事が可能なのだ、と。
(尤も、限度はあるが、の……)
だが鼠王には対シュテンの対策として、十年の時を越える対策を行ってきた。辛酸を舐めさせられた過去。その苦渋は忘れもしない。
初めて鼠王がシュテンと出会ったのは、龍門と全面戦争をしていた頃である。それも戦場。互いの兵士が命を削り合う真っ只中で、ウェイが直々にその男を連れて鼠王の前にやってきたのだ。
ウェイの連れて来た傭兵。その程度の認識でしか無く、嘗めていたのも事実であった。
結果は敗北。それも文句のつけようが無い程の大敗。
獰猛な笑みを浮かべて拳のみで鼠王の障壁を破壊していく、まさに鬼を体現する姿。恐怖し、逃げ、命懸けで反撃するのがやっとだった。
その直後に鼠王は気付いたのだ──この男はまだ遊んでいるだけなのだ、と。
何故ならば飽きたように直後に取り出した大刀。その一撃は不可思議な力が加わっているとしか思えない程、容易く障壁を切り裂かれた。
そして隙間を貫くように叩き込まれる拳。小柄なザラックではどうしようも無い暴威に、一撃で意識を刈り取られた。
気を失う直前、恐怖と驚愕を浮かべるウェイと、悪魔的な笑みを見せていたシュテンの姿は未だに焼き付いている。
それが鼠王にとって初めての敗北であった。
「……ホホ。当時はワシも若く、天狗になっておった」
その過去が鼠王をより強く、強靭さと柔軟さを兼ね備えさせた化け物へと進化させた。
それでも尚、未だ彼にとってシュテンとは、最強の代名詞であり、恐怖の対象でもある。
──故に今日の戦いには凡百の計謀が張り巡らせてあった。
シュテンが鼠王の元へ訪れようとするのも、
チェンとの戦いで大刀を失うのも、
途中で仲間達の助けに入るのも、
全てが計画通りに過ぎない。
「策略においてはワシの方が上手じゃろうが、洞察力は間違い無くお主の方が上じゃ。何処まで未来が読めておる?」
そしてペンギン急便の仲間達に手出しして怒りを買う事さえ。
鼠王にとって、
「──のう? シュテンよ」
埃を払い視線を向けた先には、紅蓮の瞳に怒りを宿し、昔のままの姿で獰猛な笑みを見せる鬼がいた。
シュテンと鼠王が対峙する。邪魔も観客も居ない。間違い無く今宵の終着点は此処にあった。
「……愛娘の為にも先に一つ伝えておくぞ。ユーシャは何一つ噛んではおらぬからな。彼奴を恨む事は勘弁してやってくれぬか?」
「……成程。俺を出し抜く為に娘の思いさえも利用するか。随分と手の込んだやり方だな。……次いでに聞かせてもらうが、ウェイとピーターズについてはどう言うつもりなんだ?」
「各々の思惑の中でワシに力を貸しとるに過ぎんよ。あまり責めてやるでない」
「……まぁ良い。下らん事を聞いたな。詳しい事は本人から聞いてやる」
その言葉を皮切りに、シュテンが大きく腰を落として腕をだらりと脱力する。
今にも獲物に飛びかかろうとする猛獣の姿そのものであった。
「昔の馴染み故に警告はしたぞ。俺が
「何故ワシがペンギン急便の仲間を狙ったのか聞かずによう言うのう。……そもそもじゃ、シュテン。お主が龍門の掟を破り、スラム街で人を殺し過ぎたのが事の発端なのじゃよ。それを見兼ねた──」
「──詰まらんな。言葉に重みが無い。貧民窟の鼠王と呼ばれる程の男が、俺を相手取るのに浅はかな理由の筈が無いだろう。……いや、その浅はかさだからこそ見える理由と言うのもあるか」
「……フォッフォ。やはり鋭い読みと強靭な精神。お主に言葉を掛けても微塵も心は揺れぬか」
鼠王の纏う障壁が音を立てながら修復していく。──否、それまで以上の強度と柔軟性を備えた、対物理障壁へと変化を遂げていた。
老いても尚、卓越したアーツは未だ現役。両手で杖を突き、龍門の混沌を掌握してきた灰色の林が牙を剥く。
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず。幾度とお主の事を思い、敬い、憎み、生きてきたと思う? もう意表は突かせんよ。その暴力、最早ワシには届かぬ」
「ぬかせ。俺は仲間──いや、家族に手を出す奴は誰であろうと赦すつもりは無い。だから──」
「──潔く死ね」
疾風迅雷。
怒涛の砂煙を立ち込めながら、最初に動いたのはシュテンであった。暗闇の中でも分かる程、血の滾る瞳をギラつかせながら鼠王に接近。その直後に右拳が弧を描いて飛来する。
目にも止まらない神速。鼠王の動体視力では捉える事は不可能であり、右拳を振りかぶった時点で未だ視線は動かないままであった。
間違い無く鼠王の顔面を捉える一撃。──だがその拳が鼠王に当たらないまま、障壁を沿うようにして空を切る。
「──ほお」
感嘆の意を見せるシュテンであるも、即座に大きく背後へ跳躍した。直後、鼠王の周囲に砂の槍が貫かんとばかりに地面から顕現する。
その予兆を見事に感知して回避したシュテンに対し、鼠王は追撃。着地する足場を
身丈程までに立ち昇り、切り裂かんとばかりに地を這いながら殺到させた。
回避する術など無いシュテンの取る行動はただ一つ。真正面から打ち砕くのみである。
砂の刃が自身の射程圏内に入った時、右拳を眼前に構え、体重を乗せない手打ちの打撃を繰り出す。速度に特化した拳は風切り音すら置き去りにし、絶え間無い破裂音を鳴らしていた。
ほぼ同時に放たれた数多のアーツさえ、シュテンに届くこと無く霧散する事となる。
「随分と小癪なアーツの使い方を覚えたな」
流石に無傷とは行かなかったのだろう。右拳から血を滴らせながら、視界には何も映らない筈の周囲を眺めてポツリと呟く。
その言葉に鼠王は眉を跳ね上げてシュテンを注視した。
一手交えただけの言わば挨拶代わり。にも関わらず、鼠王が時間を掛けて構築した結界。それをシュテンが容易く見破るとなれば、敵ながら見事な慧眼と褒めざるを得ない程であった。
「ここ一帯の宙に舞う砂は全てお前の手中か」
「……お主は粘土の粒子すらも見極められる視力を持っておるのか?」
「まさか。ただ似たような事を仲間にやらせてみただけだ」
そう言ってシュテンが思い浮かべたのはソラのアーツ。歌に乗せて効果を発揮する特殊な能力故、その多様性は見張るべきものがあると常々考えていた。
その一つとして声の反響を利用した索敵──所謂、一部の動物が利用するエコロケーションが可能かどうかをテストした事がある。
しかしながら、アーツを飛ばして反響させ、その僅かな違和感を感じ取って計算し、敵の位置や体勢を把握する──その繊細な感覚と緻密な計算と絶え間無くアーツを使いながら行わなければならない。
余りに高い難易度故、試験にすらならなかったのを覚えていた。
だが、それでも。指先の如く繊細なアーツを有する目の前の男ならやって退けるだろう──そう、シュテンは周囲に漂っているであろう砂を触れるように、腕を動かす。
「しかし……相変わらずの化け物じゃな。話には聞いておったが、まさか術者も無しに腕を接合させるとは。……だが左腕が動かない所を見るに、万全とは言い難いようじゃのう」
「それはお前も同じだろう? 空間に張り巡らせた砂塵で空間認識と先読みを繰り返しながら、並行思考で攻撃する為のアーツを発動させ、命懸けで俺からの攻撃を避けねばならん。脳を焼き切るつもりか?」
「ホホ──シュテン、甘く見るなよ」
鼠王の老体には過負荷な思考の積み重ね。シュテンは腕の不利など気にも留めず、まるで老体を労わる様な、憐れみを含んだ笑みを見せる。
──その言葉を皮切りに鼠王から年相応の穏やかな空気が霧散した。
余裕の笑みを消し、肌が痺れると感じさせる程の威圧感。龍門の深淵を肌身に感じて見続けてきた男の瞳に映るのは、感情の見えない混沌であった。
一定の強さを超えた者にしか出せない
先のチェンがその領域に踏み込んだものの、この男の才能は彼女を凌駕する。昔の鼠王でさえ、その領域に踏み込んでいたのだから。
そして今も尚、シュテンを倒す──その一点だけに特化し、対策し、開発を繰り返してきたのだ。
戦いを楽しむのは自身の悪い癖──そう、シュテンが分かっていても止められるものではない。肌を突き刺す圧を感じれば感じる程、笑みが溢れ、口角が上がっていく。
目的と大きく掛け離れた感情と理解しつつも、その本能に抗う術は無かった。
「多くの同胞の亡骸で作り上げたスラムの為であれば、命を削る事に恐れなど無い。安魂夜が明けるまで戦い抜けるだけの精神力は持っておる」
「──はははは! そうか、それが本音なんだな! ならばリンよ、理由はどうあれもう止まる訳にもいかんな!」
「左様。愉快な戯れも終焉じゃ」
最早言葉は不要、と腹を抱える程に大声で笑っていたシュテンの姿が闇へと消えた。
だが鼠王は見えなくとも知っている。その姿は地に伏せるようにして足元に現れたと言う事を。
視界に映らない位置からのシュテンの足払い。一般人であれば脚ごとへし折れる攻撃も、全てを予兆していた鼠王は軽く跳躍して回避する。──が、僅かに浮いたその瞬間、強引に筋力を最大限に活かし、体勢を変えたシュテン。有り得ない体勢から掬い上げるようなアッパーが放たれた。
回避行動を取らせない為の不規則な一撃。だが当然、鼠王はその行動を逸早く察知している。
拳が当たる直前に、生成した砂の足場にて体勢を変えてギリギリの回避。障壁がビリビリと悲鳴を上げて、空気を切り裂く拳の音が耳元で響き渡った。
神経が擦切れる程の相剋。だが精神的な負担は間違い無く鼠王の方が大きい。
「仕切り直しとするぞい」
超接近戦の戦いは分が悪いと判断した鼠王。自身の纏っていた障壁を爆散させてシュテンを吹き飛ばす。
激しい耳鳴りが響く中、シュテンは即座に体制を立て直して鼠王へと接近。だが爆ぜた障壁に使われた砂が全身に纏わりつく。それは行動を鈍化させ、動きを阻む。何十キロにもなる砂の重り。
歩く事すらままならない筈の重さの体──を、シュテンは変わらぬ速度で駆けた。
「この程度、枷にもならんな!」
「──ッ!」
想定外の速さに刮目する鼠王であるも、戸惑う事無く即座に対応する。シュテンに纏わせた多量の砂。その砂を収縮、収縮、収縮──と、ひたすらに加圧させていく。
「ほお……!」
僅かに動きを鈍らせたシュテン。好機と睨んだ鼠王は更に砂を掻き集め、全身を覆う程に砂を殺到させた。
逃がさんとばかりに纏わりついた砂が徐々に、徐々にとシュテンの形に変形していく──そう思わせる程に砂が全身を覆う。
多少腕に覚えがある者でも、瞬く間に肉塊へと潰される重圧。最早シュテンでさえ身動きを取る事は不可能であった。
「──ふむ」
鼠王がグッと掌を握り込めば、黄土色の砂の山が所々真紅に染まった。
より強く、強固に砂が収縮して肉の潰れた音が響き渡る。
延々と流れ出る血液がそのダメージを物語っている。先程まで獰猛さを見せていた状況とは裏腹に、最早シュテンからの動きは感じられなかった。
「……思ったより呆気ない結末じゃの」
砂から伝う情報を探っても、心音はあれど呼吸をしている様子は無い。
自身の中でシュテンと言う偶像が余りに巨大だった事に対する落胆か。鼠王は何処か拍子抜けた、覇気の無い言葉を漏らした。
だが鬼の始祖たる酒呑童子。
その不死性は鼠王の想定を上回る。
「──ハ、ハハハハハッ!」
豪腕を振り回して血で凝固した砂を吹き飛ばす。
全身の皮膚が裂け、一部の肉が削がれ、余すこと無く鮮血に染まる身体であろうとも、シュテンは豪快に笑って姿を現した。
鼠王の知る中でシュテンを追い詰めた者が存在しない以上、その耐久力を、生命力を正しく測る事など出来なかった。
故にこの分岐点において、鼠王は選択を誤ったのだ。
「リン、誇って良いぞ! 俺と殺し合いが出来る相手など、この混沌の世でも数える程だからな!」
と、同時に振り抜かれる右拳。変わらぬ神速を誇る打撃が未だ撃てる事に、鼠王は驚く余裕すら無い。思考をフル回転させ、体勢を崩しながらも何とか避け切る。だがその衝撃を逃がし切れなかったようで、障壁に僅かにだが罅が入った。
そして備えるべき追撃。左腕は使えない物として、両脚からの蹴りのみに注視。僅かな動きすらも見落とさぬ集中力と冷静さを即座に取り戻す。
そしてシュテンから、最速のみを特化させた一撃が振り抜かれた。
動かない筈の左腕から。
「──が、はっ!」
亀裂の入った障壁見逃す事無く、貫かれた拳は鼠王の腹部を捉えた。内臓を全て抉り出すような一撃に、鼠王の肺から一気に吐息が吐き出される。
小柄なザラック族故に、その身は容易く空中へと浮かび上がった。吐瀉物を撒き散らしながら見せる苦悶の表情。均衡は一瞬にして崩れ去った。
アーツを駆使して鼠王は空中で体勢を整える。緻密な操作の元、宙に浮きながら周囲を確認する──が、目を離していた僅かな時間。既にシュテンの姿は消えている。
ここに来て漸く、鼠王はシュテンと言う個体の強さの本質を理解する事が出来た。
腕力でも知力でも耐久力でも無く、真に対策しなければならないのはその圧倒的な回復力。
ならば全身に重傷を負った今こそがチャンスなのだと理解する。追撃の手を休める事無く、傷を負わせ続けるべきなのだ、と。
しかし幾ら砂塵の範囲を広げようとも、その姿を認知する事は出来なかった。それどころか、廃墟となったこの建物中を探せど生物の姿は無い。
と、なれば残るは開け放たれた扉から出て行った可能性のみ。
「逃がす訳にはいかぬ」
──後一つの欠片を待つのみなのだから。