賛否両論あるかも。
凄惨な場となった酒場を抜け、ミズ・シチリアを追うようにしてペンギン急便のメンバー達は龍門の車輪街を歩く。
安魂夜に浮かれ、煌びやかで騒がしい街。辺りを眺めているペンギン急便達とは違い、この場に相応しくない顔をモスティマは見せていた。
「何故シュテンが酒呑童子と呼ばれるのか、貴方達は知っているのかしら?」
ふわりとスカートを靡かせながら、ミズ・シチリアは薄い笑みを浮かべて振り返る。何を考えているかなど少しも悟らせない赤い眼。まるでペンギン急便を見定めるかのようにその視線を向けていた。
「私が教えたよ。シュテンの求めていた理想に近づく為にね」
「ふふ、健気ね。でもその位の方が都合が良いわ」
嘲笑する姿は宛ら人造の絡繰人形。端正過ぎる顔立ちが余りに人外染みており、ソラとクロワッサン、そしてバイソンの背筋に悪寒が走る。
「傍若無人の権化。酒呑童子はまさにそんな男
「……まるで見てきたような言い方だな。シュテンですら三桁の時を生きていると言うのに」
さも酒呑童子を知人のように語るミズ・シチリアの様子に、テキサスは訝しんだ表情を見せて言葉を返した。
しかし、その後に放たれた言葉には、モスティマでさえ驚愕せずにはいられない。
「何の因果か生まれた特異点。つまりね、私も酒呑童子も同じ存在なのよ。……尤も、あんなに品と知性の無い存在とは分かり合えないのだけれども。それでもあの強さには一目置いていたわ」
何処か落胆するような表情を見せるミズ・シチリア。達者な口振りに反して見た目が少女と言う時点で年齢不詳と言わざるを得ないものの、シュテンを超える年齢だと言うのは想定の遥か上を行っていた。
それどころかシュテンが酒呑童子と呼ばれるその存在──それすらも認識していたとなれば、如何に人を超越した存在であるのかは、ソラでさえ否応にも理解してしまう。
「──でも殺された。怨みを買う生き方では長生きしないものね。それだけ夥しい程の屍の上に彼の血は成り立っているのよ」
「……だからこそシュテンが生まれたんでしょ? そりゃ生い立ちや過去の話は確かに凄惨だったかもしれないけど、それでもあたし達は出会えた事に感謝してる」
「──ふふ。良いわ。凄く良い反応」
悪徳非道を極めた酒呑童子の呪縛。その血の呪いはシュテンにも絶大な影響を与えており、時折見せる暴力性と残虐性がその事実を表していた。
だがエクシアは苦虫を噛み潰したような表情で反論する。喩えそのような事実があろうともシュテンはシュテンであり、彼個人だからこそ救われてきた過去があるのだから。
そしてミズ・シチリアは再び笑みを浮かべた。その言葉が聞きたかったと言わんばかりの満足そうな笑みを。
「でもそんだけシュテンはんの事を知ってるのに、悲劇だのなんだのって──」
「──知っているからこそ、断言出来るものがあるのよ。逆に聞くわ。あの酒呑童子すら殺された。その手法は知ってるかしら?」
「えーっと……毒で弱っている所を嬲り殺されたくらいにしか」
シュテンの強さを知るからこそ、ムキになって反論するクロワッサンであったが、ミズ・シチリアはそれを一蹴。
更に返した言葉に対し、ソラが過去を思い起こしながら言葉を紡いだ。
その返答は凡庸だったのだろう。少しばかり嘆息しながらミズ・シチリアは語り出す。
「それでは正解とは言えないわね。正確には毒と酒によって無抵抗な状態のまま、心の臓を短刀で貫かれて死んだのよ」
疑惑と警戒の眼差しを浴びながら、ミズ・シチリアは愉快そうに言葉を続ける。
「尤も、短刀の切れ味が悪いのも相俟って、まともに刺さらなかったようだけれども。何度も何度も何度も突き刺して──仕留めたらしいわ」
その言葉が意図する事は、モスティマ以外の者が察知する事は無い。
「果たしてその方法が酒呑童子に有効であったのかしら──そう問われれば否としか言い様が無いわね」
首を振り、自らの言葉を否定するミズ・シチリア。
彼女の意図を理解しているモスティマだけが、小さく息を呑んで緊張からか拳に力が入る。
──確証など無い、身元不明の女が語る妄言。
だがその底知れぬ異様さだからこそ、納得させるだけの力が言葉に籠っていた。
「だけど因果律と逆因果律。原因が結果を生むはずなのに、結果が原因を作り出す矛盾。その矛盾が前提をひっくり返してしまうのよ。本能、細胞、そして血が覚えてるのかしら。まるでウルフハンターに怯えるループスのようにね」
そこまで語られて漸く、テキサスとエクシアの二人は勘付く事が出来た。
長々と語る説明への合点。そしてシュテンを相手にして尚、これ程までの自信を備えている根拠に。
「さて、着いたわよ。私の仮説が正しいかどうか──直に理解出来るわ」
ミズ・シチリアを追うままに辿り着いた廃墟の立ち並ぶ路地裏。
未だ鳴り止まぬ破砕音が、シュテンと鼠王の存在を彼女達に報せた。
静寂に静まる中、緊張を緩めない鼠王が地上へと降り立つ。
僅か一撃を受けただけ。それだけの筈なのに内臓が悲鳴を上げており、今にも座り込みたい衝動にすら駆られる。
だが弱音を吐いている暇など無い。アーツによる索敵範囲を広げてシュテンの姿を探し続けた。
本当に逃げた訳ではあるまい──そう内心で呟きながら、破砕された壁と出入り口を見つめる。
紛う事無き戦闘狂。血肉沸き立つ闘いを誰よりも好む男が、この状況下で逃亡する筈が無いと断言する。
そして一分、二分と時が過ぎる中、全神経を研ぎ澄ました最中であった。
突如として索敵内の空間が歪む。シュテン──では無い、無機質な何か。
相当な大きさであるにも関わらず、弾丸の如き速さを以て接近している事を、鼠王は認知した。
「──」
呼吸を止め、ほんの数センチだけ身体をズラすと、直後に削られる空間と鳴り響く金属の轟音。
罅の入った障壁の先へと視線を向ければ──そこにはへし折れた道路標識が突き刺さっていた。
「やはり当たらんか。過去会った奴等の中でも、頭一つ抜けた空間把握能力だな」
ザクザクと大地を踏み鳴らし、片手にもう一つの道路標識を携えたまま、気配を隠そうともしないシュテンが出入口の扉から姿を現す。
それも何故か、赤く燃えるような紅色の映える和服へと着替えた姿であった。
「……随分と嘗められておるな」
「嘗めてなどいない。ただウチの娘共が此処に来る可能性を考慮する以上、裸同然の姿で居る訳にもいかんだろう?」
「それを嘗めていると言うのじゃよ!」
痛む腹痛から滲む脂汗。それでも尚、アーツの精度は未だ変わらずに刹那の時間で砂の槍を作りあげた。
より強く、貫通性能を持たせんとばかりに螺旋状に捻れた穂先。シュテンの心臓に目掛けて高速で射出されれば、空気を切り裂く甲高い音が鳴る。
後手に回るシュテン。だが目にも止まらぬ動作から道路標識が投擲され、砂の槍と真正面からぶつかり、大爆発と共に霧散する。
「嘗めてなどいない。お前の未来視にも成り代わるアーツだからこそ、俺は小賢しい手段でしか打ち破れなかった。……だが悲しい哉。俺は正真正銘の人外であり、お前はザラックの域を超えられない。──たった一撃。それだけでその差は一目瞭然だ」
そう。ただ着替えただけでは無い。至る所の皮膚と肉が裂けて流れ出ている血。それらは全て拭い去ったのだろうが、注目するべき部分はそこでは無かった。
既に血の滴る様子は無い。それどころか、完治とまだは行かずとも生傷らしい傷さえ見当たらなかった。
鼠王の背筋の凍る。どれだけ重傷を与えどもそれは致命とも言えず、この化け物相手に一撃で仕留める技量を持たねば、まともに立ち向かえない事に。
──それでも、だ。
「ワシは止まらぬよ。否、止まる事など出来ぬ。血に塗られた道を今更棄て、引き返す事など出来る筈も無かろう」
「だろうな。そう思っていた。──奥の手があるのだろう? ……早く見せろよ!」
されど闘いは続く。最早この二人を止める術も理由も存在はしない。
最速最短で駆け抜けたシュテンが拳を溜める。弧を描く左腕から繰り出されるフック。大きく回避せねば避けられない一撃が鼠王へと牙を向いた。
「くっ──」
捻る身体。走る激痛に顔を歪め、鼠王の動きが僅かに鈍る。
避けられない──そう判断した鼠王は即座に障壁を定点に展開した。より緻密で精巧な、極集中型のバリアである。
その全てを踏まえ、理解した上で──シュテンは拳を止めなかった。
ミシミシと骨が軋み上げる程に膨張する筋肉。獰猛な笑みを浮かべて、真正面から対抗する。
耳を劈く破壊音と共に障壁に亀裂が走った。
同時に小柄な鼠王の体が宙へと浮かぶ。凄まじい力故にまるでボールのように吹き飛ばされた。
そして壁にぶつかる直前に、後方へと障壁を展開。コンクリートで造られている外壁を砕きながら遥か彼方へと──
「行かせると思うか?」
追撃。
音速を超えた移動術が鼠王とシュテンの距離を無へと縮める。極限まで地に伏せた姿勢から繰り出されたのは、定点の障壁に対しての蹴り上げだった。
修復もままならぬ状態からの二撃。ボロボロと障壁が崩壊を始めて行く。
そして吹き飛ばされていた衝撃を打ち消す程の、強烈な脚撃。鼠王の身体は遥か上空へと運ばれるように飛ばされて、天井を貫いていく。
情報処理の最中に行われる追撃。脳へと過負荷を掛け続けようとも、軋む身体が最適解を拒んでいた。
だがその時間も束の間である。音速を超えた衝撃波と共に現れたシュテンが既に屋根の上で待機しており、鼠王の姿が見えたと同時に再度追撃を放った。
三撃。
鼠王の定点の障壁を敢えて狙い叩き込む打撃。力尽くで叩き潰すと言わんばかりの不遜な行動であるも、シュテンの狂気たる笑みは深みを増していた。
そしてその表情を裏付けるかのように──鼠王の障壁が完全に砕け散る事となる。
障壁を突き破っても尚、止まる事の無い拳が鼠王へと炸裂した。
胸元へと振り下ろすように放たれた一撃は肋骨を容易くへし折り、その身を地上へと突き落とす。建物など意に介さない強烈な一撃から想像するに、鼠王への身体的負傷は著しいものであった。
シュテンからの追撃は──訪れない。だが同時に鼠王もまた、地に伏せたまま。
吹き抜けとなった建物から飛び降りたシュテンは、ボロボロになった鼠王の姿を見下ろす。
愛用の外套どころか衣服すらもズタズタに破れており、それでも離さなかった杖は手元からへし折れている。
目、鼻、口何れも出血が見られ、内臓を痛めていた事は容易に想像が着くだろう。
「──あら、鼠王。随分な様になったわね」
ミズ・シチリア率いるペンギン急便の社員達が、荒れ果てた戦場に辿り着く。
圧倒的回復力で無傷にも等しいシュテンと満身創痍の鼠王。見るからに勝者と敗者が分かれる様子にミズ・シチリアは落胆を、そしてペンギン急便の全員は安堵の様子を見せていた。
「貴方はここで死ぬのかしら。……あぁ、それも良いわね。スラムの王である鼠王を殺したシュテン。龍門が沈黙に徹しようとも、その脅威を排除するべく動き出した炎国との戦争──なんて結末を迎えるのも楽しそうだわ。多くの血が流れて国が滅んでいく様を見られるわね。色々と手回しは必要だけれど不可能ではないもの。……尤も、スラム街は火の海に包まれるかもしれないけれども」
「……黙って見ておれ。ワシの意志は揺るがぬ」
「そ、なら良いわ。……一つ教えてあげるわ。もうすぐよ」
理解の及ばぬ程に非現実的な発言をするミズ・シチリア。大国を動かすと言う不穏な言葉を吐きつつも、嬉々とした表情を見せている。
だが鼠王の決意は確固たるものであった。未だ揺るがずに強い瞳のまま、シュテンを見つめる。
今にも崩れ落ちそうな震える身体を起こし、砂のアーツの応用にて、ガラスのナイフを作り上げた鼠王。卓越した手捌きでナイフを自在に操る。その滑らかで淀みの無い動きはまるで手足のようであった。
娘であるリン・ユーシャは近接格闘術において言えばテキサスさえ超越している。それが鼠王直伝によるものとしたら、彼自身もまた、並外れたものであろう。
だが負傷に次ぐ負傷。歩く姿でさえ、今は年老いた姿が相応しいほどに力が無い。
静寂の空間の中で響く鼠王の足音。眼前に立つシュテンでさえ見下ろしたまま動こうとしなかった。
「リン。何がそこまでお前を掻き立てさせる? 死に体になってでも、ミズ・シチリアの甘言に縋る何かがあるのか?」
「……シュテンよ。お主は間違い無く最強じゃ。肉体的にも、そして揺るがぬ精神も。だからこそ理解の及ばない世界もある」
シュテンの問い掛けには答えようともせず、鼠王は言葉を続ける。
「……じゃがお互い変わったのう。こうして血迷った行動をするワシも、即座に殺そうとしないお主も。──ハリボテの家族ごっこで得られた愛はあったのかのう」
「…………。
その一言はシュテンの琴線に触れる。
何故鼠王が家族に拘る事実を認知しているかなど、最早些細な問題であった。今宵の中でも圧倒的なまでに膨らむ怒気と威圧感。モスティマやミズ・シチリアでさえ、本能が逃亡を選択したくなる程の恐怖。
当の本人であり、目の前の鼠王に掛かる負荷は比では無い。かつてない手足の震え。反射的にナイフを切りつけてしまうも、集中力の切れたアーツでは肌を切り裂くことさえ不可能なまま砕け散る。
炎のような双眼が鼠王の瞳を捉えた。たったそれだけで、金縛りにあったように全身が硬直してしまう。
「──死ね」
小さく吐き捨てた言葉と共に、シュテンの剛腕が鼠王の首を掴みあげる。反応すら出来ない速度。両足は瞬時に宙へと浮く。
反論も反撃も許さず。気道も声帯も圧迫された鼠王に為す術は無い。
──この空間に囚われていない者が現れなければ。
「シ、シュテンさん! 待って下さい!」
ミシミシと音を立てて首がへし折れるその瞬間──大きな声を上げて建物へと侵入してきた者がいた。
現状を把握出来ていないが故の無謀。だが彼女だからこそ、唯一異議を唱える権利を持っている。
紫と黒色を基調とした服に身を包んだザラック族の女性──鼠王の娘、リン・ユーシャであった。
「…………」
力を込めていた筈のシュテンの動きがピタリと止まる。ユーシャとシュテンの視線が交錯する中、掛ける言葉がある訳でも無い。
だがシュテンは理解していた。ユーシャのその想いを。
そしてユーシャも理解していた。目を合わすだけで理解出来るシュテンの聡明さを。
不安、憤怒、悲哀──感情の入り混じる視線を受けて、シュテンは確信する。ユーシャは鼠王の計画とは無関係であったと。
喩え鼠王の口から説明されようとも、元を辿ればユーシャからの手紙があったが故に、後手に回った事実がある。そこを楽観視出来る程、シュテンはお人好しでは無い。
そして同時に、鼠王と無関係と判断した上で反芻してしまった手紙の内容。頭の回転が早すぎた故に脳内を過ぎらざるを得なかった。
父とミズ・シチリアが安魂夜に何かしでかすようです。スラムの安寧の為には仕方の無い事、そう言っておりましたが、シュテンさんを巻き込む大事のようでした。どうか父を止める為にも助けて下さい──と。
父を想う娘の手紙。愛し、愛されて育ったのを知っているシュテンだからこそ、尊さを感じてしまう親子の愛。
それはシュテンの望んでいた夢でもあった。
だからこそ──だからこそ、シュテンはユーシャを慮る。
ここで鼠王を殺すと言う選択肢が、ユーシャと言う愛娘に対しての影響力を。
猛っていた筈の血が淀む。
力んでいた力が緩む。
憤怒に染まる瞳が揺れる。
喧騒が静寂へと変わるような──まさにそんな瞬間だった。
この時、この瞬間
「──三たび思いて
ユーシャと言う劇薬が投げ込まれた事による、鼠王への意識と警戒の抜け落ち──その事に気が付いたのは、鼠王が炎国に伝わりし言葉を紡いだ後だった。
「シュテン!」
「お父さん!」
慟哭にも似た悲痛な叫び。モスティマとユーシャが声を上げるも、その意味する所は似て非なるものだった。
鼠王が大地へと危なげに降り立つ。そして更に一振──手にしていた鈍く血に染まる短刀でシュテンの右太腿を深く切り裂いた。
まるで乙女の柔肌のように、容易く。
「──ッ!」
シュテンが見せる驚愕、困惑、そして焦燥。
その切れ味に対してもであるが、そもそもの話、鼠王から手を離した記憶など何処にも無いのだから。
筋肉が切断されて、多量の出血と共に脚から力を失う。地へとしゃがみ込む体勢を立て直そうと、右手を地面へと向けたその時だった。
モスティマが叫んだその意味が漸く理解出来た。
痛みを覚えない程に綺麗な断面で、手首から先が切り飛ばされていたのだから。
「ただこの瞬間だけを目指し、繰り返し描いてきたのじゃ。逃がさんよ」
「て、めえ──」
血反吐を吐きながらも殺意に目をギラつかせる鼠王に、最早迷いなど無い。
想定を遥かに超える窮地。だがシュテンは獰猛な笑みを消しはしない。
鼠王の狙うはただ一点、心臓のみ。愚直なまでに真っ直ぐな、腰構えの姿勢で鼠王は踏み込んだ。
右足、右腕が共に使い物にならない。とめどなく溢れ出る血が辺りを鮮血に染める。治癒する様子の無い傷口に大きな違和感を感じながら、シュテンは短刀を凝視した。
古く錆びた切れそうにもない短刀。禍々しい色を帯びているのは塗られていた毒と血が混じり合った結果なのだろう。
そして本能が強く警鐘を鳴らす。これこそが鼠王の奥の手であり、酒呑童子にとっての鬼門なのだと。
逃げ出す事は叶わぬ身体では迎え撃つしか方法は無い。迫る刃を跳ね返すには素手で不可能だろうと判断したシュテンは、懐から鉄扇を取り出す。
喩え戦闘技術で劣ると言えど、健在する左腕は容易く鼠王を吹き飛ばす一撃を放てるのだから。
短刀を弾き飛ばす狙いの元、交差するようにして放つ一撃。仕切り直す手段さえあれば、まだ挽回する手立ては幾つもあった。
だが──聞き覚えのある銃声が鳴り響く。
超人的な聴力を持つシュテンだからこそ、突如聞こえてきた銃声。この音でさえも鼠王の策略の内ならば非常に危険だと判断するも、最早打つ手など無い。
視線を即座に送れば迫り来る弾丸。
そして刻一刻と近付いてくる鼠王の短刀。
笑みを絶やさず浮かべていたシュテンは一つの決断を下した。
「ここまでか」
ピーターズの執事を始末しておけば──そう、今更後悔しながら、流れに身を任せる。
弾丸が鉄扇と手の甲を撃ち抜き、獲物を手放す。
迫り来る刃を止める為、強引に左手で払うも、返す刃で腕ごと切り捨てられた。
力無く宙に舞う左腕。三度吹き出た鮮血。
四肢の内、二箇所も切り落とされたシュテンに出来る事など無い。頼みのモスティマに視線を向けても──狂気の笑みを浮かべているミズ・シチリアによって全てを阻まれている。
「ハッ──リン、お前の勝ちだ」
シュテンがポツリと言葉を零した瞬間、鼠王の短刀が心臓を貫いた。
ドス黒い、夥しい
誰ものかも分からない阿鼻叫喚の──慟哭にも等しい叫びが響き渡る。
「……ミズ・シチリアの……おかげ、か」
「……お主の『家族』への妄執を知り、そしてこの短刀と毒──酒呑童子を殺したと言う曰く付きの代物を渡されたのじゃよ」
「だから、か。ペンギン急便を襲い、俺の想いを試したのは……」
「左様。全てはスラム街を守る為に、のう」
息も絶え絶えのシュテンへと、まるで贖罪のように鼠王は語り出す。
感染者組織、レユニオン・ムーブメント。
感染者にも権利を、と言う聞こえは良い目標を掲げているも、実態は排他的な過激派組織である。
だが感染者と言うだけで虐げられ続けていた現実の亀裂は、世界を二分化してしまう程に巨大化していたのも事実であった。
そしてその魔の手は龍門にも及んでいる。誰しもがスラムのような劣悪な環境を望んでいる筈も無く、生まれながら、そして感染者であるが故に身を置かねばならない者もいた。
そんな彼ら、彼女らの乾いた心を潤すような甘露は容易く染み渡ってしまう。
親から子へ、友人から知人へ、他人から他人へ──波紋のように広がっていたのだ。
それは最早鼠王には止められない負の連鎖。自身の幸福と安寧を求める声が龍門の毒へと変わっていくのも時間の問題であった。
そんな時に現れたのが、ミズ・シチリアを名乗る
スラム街の至る所に存在する鼠王の目をすり抜けて、突如として現れた男は雄弁に語る。
スラム街に蔓延るレユニオンの芽を摘む代わりに手を貸して欲しいと。
だが初対面で戯言にも等しい言葉は鼠王の心に届く事は無い。
そして月日の経ったある日の事。鼠王の元に、レユニオン中枢への内通者が捕まったとの報告が来る。
その者は鼠王の古き知人であったと同時に──ミズ・シチリアから忠告を受けていた人物そのものであった。
ミズ・シチリアを語る本人がレユニオンと通じている可能性があるのかもしれない。だがそれでも彼が残した爪痕が鼠王にとって希望の光になるのは、必然だったのかもしれない。
多くの情報により裏付けと確信を得られた後、鼠王はミズ・シチリアに協力する旨を伝えた。そしてニヤリとほくそ笑む彼から告げられた依頼はただ一つ。
シュテンを殺害し、ペンギン急便に絶望を与える事。
その言葉を聞いた時、鼠王は困惑を隠せないでいた。共に龍門を築き上げてきた者として、そして何よりシュテンの強さを知る者として言葉に詰まる。
幾度の夜を越えても葛藤の繰り返す日々。だが決断をせねばならぬのが王の責務。喩えそれが非道たる結果で最善で無くとも、他人に委ねられないのだ。
鼠王は深い意識の中で思いに耽ける。
仮にもし、龍門に危機が迫るとしたらウェイ・イェンウーならばどうするか、と。
彼ならば苦悩の末、龍門の為ならばスラム街すらも焼き払うだろう。その結果失脚する事になってでも。
仮にもし、ペンギン急便に危機が迫るとしたらシュテンならばどうするか、と。
彼なれば即決即断の元、龍門すら敵に回してでも戦うだろう。敵とみなせば死をばら撒く事さえ躊躇しないのだから。
ならばスラムの王として鼠王の取るべき行動は一つしか無い。
そして色良い返事を聞いたミズ・シチリアは満面の笑みを浮かべる。安魂夜に起こるマフィアのいざこざについて説明し終えた後、首元にナイフを当ててこう言った。
──計画については任せるわ。安魂夜でまた会いましょう。
まるで証拠を隠滅するかのように、女の口調で喋りながら男は自決した。
そして一人では到底勝てないと判断した鼠王はウェイ、そしてピーターズと協力関係になる契約を結ぶ事となる。
一人は社内で転覆を計画する癌──マフィアと提携して息子を脅かす存在の露呈。そして息子の成長の為に。
一人はシュテンと戦う事は無謀だと嘲笑いながらも、スラムの抱える闇の解決と──後継者となり得る少女の成長の為に。
そして首謀者は──スラム街の安寧の為に。
ペンギン急便、そしてシュテンを前にして全てを語り尽くした鼠王がポツリと呟く。
「──お主は負けるべくして負けた。ここまでの流れに何一つ計画の狂いは無かった。……強いて言うなら、マフィア共の使い物のならなさ、くらいかの」
苦しそうに息を繰り返すシュテンへと、重い表情をしたまま語る鼠王。全てが思惑通りに言ったにも関わらず、鼠王の纏う空気にシュテンは悪態を吐いた。
「──ハッ。長々と、説明すれば……死んでも仕方ないと、思うのか? 軽くなるのはお前の心、だけ、だろ?」
「……決してそう言う──」
「冗談だ。だが勝者なら……少しは胸を張れ」
鼠王にとってこの結末は本意では無かった。幾度と別の道を探そうとも、ミズ・シチリアは妥協を辞さない。
だが多くの屍の上に作られたこのスラム街。その故郷や家族を見捨てられる筈も無く。
その葛藤はシュテンも理解出来たのだろう。何処か諦めたような、達観した様子で呟いていた。
「お主の居なくなったペンギン急便の身の安全は儂が保証しよう。それがせめてもの償いじゃ」
「そう、か……ガ、ハッ」
ホッと安心したような一息と共にシュテンが吐血する。いくら内臓が過負荷で働き続けようとも、塞がらない傷口から溢れ出る出血の方が遥かに多かった。
残る命も僅かと判断したシュテンが近付いてくるペンギン急便達へと首を向けて声を掛ける。
「ソラ、悪いが煙管を……咥えさせてくれ」
「え……ぁ……そ、そんな事より、早く治さないと……」
「悪かったな……。テキサスと肩を並べられる……トランスポーターにしてやる話だった……のに」
ソラの手助けもあり、紫煙を口から吐き出しながらシュテンは一服する。死期が近いにも関わらず落ち着いた様子を見せている姿。
救いようの無い自身よりもソラを思う言葉には、彼女は涙ぐみながら言葉通りに動かざるを得なかった。
「クロワッサン」
「……はいな」
「お前好みの提携出来そうな良い店を、見つけておいた。……交渉は出来ないが、お前なら何とかなるだろう。……テーブルの上にある筈だ」
「──ウチの事よりももっと大事な事があるやろ!」
怒号にも近い叫び。
何処までもペンギン急便の事だけを考えている思考。快活を売りをしているクロワッサンでさえ、涙目に怒りを顕にするしか無かった。
だがシュテンに返す言葉は無い。想定以上に弱まる身体に時間が無い事を理解していたのだから。
「エクシア」
「……うん」
「生意気な餓鬼だったお前が……今や一人前のトランスポーターだ。……お前なら俺のサポートが無くても大丈夫だろう」
「──ッ。ダ、ダメだよ。あたしはシュテンがいないと……」
「謙遜するな、大丈夫だ」
「ち、ちが……そうじゃなくて……」
溢れる感情で、エクシアの思考がグチャグチャに掻き乱される。言葉にならない嗚咽。慕うと言う点で言えば、誰よりもシュテンを慕っていたと言っても過言では無い。
血に塗れてもお構い無しに抱き着くエクシア。だがシュテンに返す言葉も返せる行動も無い。手が無ければ頭を撫でる事さえ叶わないのだから。
「テキサス、幸せは……見つかったか?」
「……あぁ。一生を共に過ごすと決めた幸せが、私の前にいる」
「相変わらずだな……」
「……相変わらず……だと?」
真っ赤に目を腫らしながらテキサスは憤怒を見せた。感情の起伏の無い彼女が見せる怒り。それすら稀有にも関わらず、相手がシュテンとなれば、モスティマでさえ見た事が無い。
艶美な黒髪を乱雑に払いながらシュテンの胸ぐらを掴みあげる。抑えようも無い激情が、彼女を奮い立たせていた。
「ここまで私を変えたのはお前だ! お前に──シュテンに会わなければ……私は幸せなんて……考えないでいられた! だから……だから……! 最後まで責任を取ってくれ……!」
「…………」
「お願いだから……一人にしない、で……」
家を失い、家族を失い、堕ちる所まで堕ちた彼女は絶望と復讐に囚われて生きていた。そんな中で出会ったシュテンはまさに光だった。
全てを照らし出す大陽のような存在。そんな彼に惹かれ、依存するのも必然だったのだ。
血溜まりの中で啜り泣く姿を、ただ見つめる事しかシュテンには出来ない。
そして彼を掴んでいたテキサスの手が解かれる。立ちはだかるように割り込んだのはモスティマ。
徐々に薄れていく思考の中、モスティマの姿だけはハッキリと見えていた。
「すまん……約束は……守れそうに、ない……」
「ダメだよ」
「……は、そうだな。……鼠王相手に……気を抜い、た……俺が駄目だった」
「うん。だから──またやり直さないと」
「また無茶、を……」
最早、煙管すらも吸う気力は無い。全身に走る激痛さえも何処か遠い出来事のように意識が薄れていく。
涙も、感情も無いモスティマの視線がシュテンを貫いた。
何処か達観したような──諦めにも似た覚悟を見せて。
「悪いが、もう……眠たくてな……少し寝させて……もらうよ……」
──咥えていただけの煙管がカランと音を立てて落ちる。
静かに瞳を閉じたシュテンへと驚愕の表情を見せる中、エクシアが慌ただしく彼の胸元へと手を当てる。
そこに感じる筈の鼓動は、微塵も感じられない。
「……ははっ」
乾いたエクシアの笑い声が響く。見開いた目から零れる雫は止めどなく溢れて、シュテンの血溜まりへと混ざっていた。
崩れ落ちるように倒れ込んで泣き出すテキサスとその場に立ち尽くして啜り泣くソラとクロワッサンの姿。
そんな彼女達の姿を、鼠王はただ静かに見つめていた。心が押しつぶされないように発露した悲嘆、哀傷を全て受け止めるように。
仮にもし、スラムが滅びるような運命にあるとしたら、今よりも遥かに多い悲劇を生む事になる──そんな慰めにもならない
だがただ一人。自身の願望が叶った事に狂気の笑みを浮かべた女がいる。全身を小刻みに震わす程、歓喜を露わにしており、淫靡なまでに蕩けさせた顔を見せていた。
「アハハハハッ──最ッ高だわ! 生まれながらにして不幸の積み重ね! そんな彼が唯一見つけた幸福を前にして未練のまま死んでいくだなんて──なんて救いようのない悲劇なのかしら!」
声高く叫びながら嘲笑を繰り返すミズ・シチリアであった。無邪気なまでの邪悪な悪意。ただこの瞬間、人の死に行く悲劇のみが彼女の生きる原動力だった。まるで映画を見る観客のように、この世界に起こる出来事が全て物語に過ぎない。
そんな人の不幸を嘲笑い、果ては自らが引き起こす悪意を許す筈も無い。
「お前さえいなければ──!」
牙を剥き、刃を立てたテキサスが怒りのままに
だがその結果は意味も無く霧散する事となる。微動だにしないミズ・シチリアを庇うように立ちはだかるのは死に体の鼠王。対となる砂の槍が瞬時に生成、射出されて全ての剣を撃ち落とした。
「やらせぬ。シュテンの死を無駄にさせない為にものう」
「シュテンを殺した本人が──そんな事を言わないでよ!」
叫ぶエクシアから撃ち出された銃弾が鼠王へと殺到。その眼に憤怒を宿し、射殺さんとばかりに放たれた弾丸は、同様にして鼠王の砂によって阻まれた。
怒り狂おうとも待ち人は帰らない。
それでも尚、受け止め切れない悲しみを怒りに変える事でしか正気を保てない。
数多の滂沱の涙が空間を悲壮に染めた。
ただ一人、時が止まったままの少女を残して。
「……ねぇ、シュテン」
モスティマの呟きは届く事無く、喧騒に溢れた空間に溶けていく。
「戦争でも天災でも──喩え心臓を貫かれても死ななかったシュテン……ううん、貴方が、あんなちっぽけな短刀で死ぬ筈ないよね」
不老不死に最も近い存在──そんなシュテンがこんな簡単に死ぬ筈が無いとモスティマは語る。──が、答える者はいない。
「自信家で頭もキレるのに、幼児かと思っちゃうくらいの非常識で。……初めてのドライブの事覚えてるかな? 自信満々で運転出来るなんて言ってたのに、いざ車が発進したらアクセル全開で反対車線を走り、建物に直撃だったよね。……アーツが間に合って無ければ私は死んでたんだよ? それなのに貴方は脳と心臓を建物の鉄筋に貫かれても『見るのとやるのは全然違うな』だなんて言って。……心配を通り越して笑っちゃったよね」
しゃがみ込んだモスティマがコツンとシュテンの横顔を小突く。
力の無い彼の首は、抵抗の無いまま反対方向へと振り向いた。
「女性には優しくしろなんて教えたら、私以外の女の子にまで優しくして……どんどん身内を増やしちゃうし。凝ってる料理だって礼儀正しい作法だって、全部私が教えたんだよ?」
モスティマとエンペラーしか知り得ない遠い過去の話に想いを馳せる。目を瞑ったまま動かないシュテンの頬に手を添えて、まるで語りかけるようにして呟いた。
モスティマには必ず成さねばならぬ使命がある。その為、特定の所在を持たずに国際的トランスポーターとして世界を巡る必要があった。
共にシュテンと過ごした時間で言えば、テキサスよりも短いのかもしれない。だがその密度は唯一無二。他の追随を許さない程である。
シュテンが居たからこそ今のモスティマがあり、モスティマが居たからこそ今のシュテンがある──そう、胸を張って言えるくらいの自負心。
モスティマにとってシュテンは半身とも言える存在だった。
だから、許せる筈も無かった。
「は、はは──」
乾いた笑いが響く。
冷たい雫が頬を伝う。
──駄目だ。
──駄目なんだよ。
対となる杖を手に握り締めてモスティマは立ち上がる。無重力を感じさせるような浮遊感を纏っているのか、青く染まる髪の毛が沸き立っていた。
「シュテンが死ぬのだけは──駄目だよ」
殺伐とした世界を共に生き抜く決めたあの日。
許される決別はモスティマが天寿を全うしたその瞬間のみ。
髪に触れるあの優しい掌を。
慈愛に満ちて真っ直ぐに見つめるあの瞳を。
全てを委ねたくなる逞しい体を。
愚直なまでに
──私から奪う事だけは許さない。
「ごめんね──」
それは誰に向けての言葉なのかは分からない。
此処には居ない最高の戦友に向けてなのか。
遠方から見てる最高の戦友に向けてなのか。
既に死したシュテンに向けてなのか。
そしてモスティマは、