皇帝とオニと愉快な仲間たち   作:山田の大蛇

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EX.喧騒の掟 Ⅷ

 

 ──世界の時を刻む音が聞こえる。

 

 そう、認識出来たのはミズ・シチリアと鼠王だけであった。

 

 まるで空間だけが切り取られたように街の喧騒が静寂へと切り替わる。時計の針が進む音だけが響き渡る不可思議な空間。

 その変化にペンギン急便の者達が気が付いたのは、やや遅れてからだった。

 

「……その姿は──」

 

 ふと笑いを潜めたミズ・シチリアが見つめる先にはモスティマの姿がある。──が、その変容にはエクシアも驚きを隠せないでいた。

 

 くすんだ色を見せていた光輪は漆黒に染め上げられ、禍々しい形へと変化。本来であれば赤い筈の口元から見える舌──それは青く染まっており、まるで悪魔のような異様。

 

 モスティマの背後に浮び上がる幾何学的文様と時刻を映し出す時辰儀。そして何より──時空を裂くように、罅割れた空間から覗く異形の目であった。

 

「は、あははははは! そう、そうなの! 貴方はその化け物を解き放つだけじゃなくて従えてるのね! 驚いたわ。人の身を遥かに超えた、シュテンと並ぶ程の化け物じゃないの! ──もしかしてその角はただのサルカズとの混血じゃないのかしら? それこそ、古代──ううん、もっと古の──」

「黙りなよ」

 

 ──鈴のような音が鳴り響いた。

 

 興奮気味で語っていた筈のミズ・シチリア。だがモスティマがただ静かに杖を振るうと同時に背景の時計が止まったと思えば──ミズ・シチリアの時すらも静止する。

 世界へと干渉する、常識を覆すような力。時を自在に操る事がモスティマの本来の力であった。

 

 だが幼少期をモスティマと共に過ごしてきたエクシア。彼女の知っているモスティマのアーツとは余りに掛け離れていた。

 

 敵の動きを拘束して止め、動く速度を僅かに遅くし、時を巻き戻すように吹き飛ばす──卓越したアーツであれど、常識の範囲でしか無い。

 

 だが今のモスティマが見せた力は──明らかに人智を超えた物であった。

 

 誰もが刮目する中、モスティマの姿が消滅する。音も気配も無く、鼠王の索敵にすら捉える事は出来ないまま、彼女はミズ・シチリアの眼前に現れた。

 そして動かぬミズ・シチリアに対してモスティマがもう一つの杖を振るう。出現した数多の不可視のアーツの弾丸。目前に殺到するも、ミズ・シチリアに避ける術は無い。

 一発、二発、三発──数え切れない攻撃が直撃するが、時が止まるミズ・シチリアはその衝撃にすら微動だにしなかった。

 

 再び、鈴のような音が鳴り響く。

 

「サル、がっ──!」

 

 停止していた映像が再生されるように、ミズ・シチリアが動き出した。

 その直後、停止していた間に受けていた衝撃が全身へと突き刺さる。まるでシュテンからの一撃を受けたかのように、ミズ・シチリアの身体は建物を突き破って遥か彼方へと吹き飛ばされた。

 

「……ねえ、お爺さん」

 

 感情の無い瞳が鼠王を貫く。普段の彼女とは正反対の、光の灯らない陰鬱とした雰囲気。

 だがその纏う雰囲気は絶対的強者そのもの。一介の小娘には出せる筈も無い代物であった。

 

「なんでシュテンの優しさを裏切ったのかな?」

 

 鼠王の額に冷や汗が伝う。

 本来であれば鼠王にとって、力で押し通す素手のシュテンと言うのは非常に相性の良い相手である。その差すらも覆す程の強さを持つシュテン故、苦戦を強いられた。

 だが今は違う。間違い無く目の前の少女は自身の天敵だと確信する。

 

 満身創痍の身体では──否、万全の状態であっても絶望的な程に。

 

「口ではあぁ言ってても、最後の瞬間まで本当は殺意なんて無かったんだよ。鼠王を殺す結果が生み出す多くの敵──スラムや龍門からペンギン急便を守りながら戦い抜くのは、シュテンとて不可能だからさ」

「ほう。では本気では無かったと申すのか?」

「だって貴方が死んでいないもの」

 

 偶像崇拝にも近い、盲信的なまでの信頼。会話を続けながら策を練ろうとする鼠王であるも、その狂気に当てられて僅かな困惑を見せていた。

 

「喩え不意打ちだったとは言え、貴方の苦悩を理解していたからこそ、シュテンは敗北と死を受け入れた。……本当は和解出来る妥協案を模索していた筈なのにね」

「……だとしてもじゃ。終止符は打ち終えた筈じゃよ」

「ううん、駄目だよ。喩えシュテンや仲間が納得していたとしても、私が許しはしないから」

 

 パキパキと空間が音を立てて亀裂を伸ばしていく。モスティマの背後に現れていた謎の化け物。広くなった時空の狭間から鱗に覆われた巨大な腕が伸びて出てくる。

 鼠王の理解が及ばぬ程の異形。ただ一つ。彼奴が暴れ出せばこの場が塵に還ると言う事だけ──それだけは直感で理解出来てしまった。

 

「だから私は──もう一度、やり直すよ」

 

 甲高い金属音と共に、モスティマの背後から巨腕が鼠王へと振るわれた。

 ミズ・シチリアのように静止はしない身体。何か条件、若しくは化け物の影響でもあるのかと思考の渦に囚われながら、鼠王は砂の槍を創り出す。

 

 そう、創り出す筈だったのだ。

 

「──な」

 

 指先の如く繊細な操作すら可能とする砂が、まるで押し潰されているかのように動く事が出来ない。初めての経験に戸惑いを見せつつも、迫る巨腕。全身の痛みに耐えながらも鼠王は地に伏せて回避しようとする。

 

 再び、鈴のような音が鳴り響く。

 

 自身の上方を通過する筈の腕。何故か鳴り響いた音と共に姿を消したかと思えば、眼前へと迫っていた。

 

 肉の潰れる音と共に、鼠王の身体が吹き飛ぶ。

 

 相手の源石術(オリジニウムアーツ)さえ干渉を可能とし、静止、加速を自在に操る。まるで平行世界の結果を引き出すような、常識を逸した妙技。

 

 だがその代償は余りにも大きいのだろう。普段は涼しい顔をしているモスティマが、額に汗を浮かべていたのだから。

 

「……エクシア、テキサス」

 

 目を真っ赤に腫らし、狼狽する様子を見せていた二人に対し、モスティマは声を掛ける。

 今から告白する初心な少女の決心のように、覚悟を決めた表情を見せるモスティマ。その決意を見た瞬間、動揺していた彼女達も自然と冷静さを取り戻した。

 

「──シュテンの時間を戻すよ」

 

 その言葉はまさに青天の霹靂だった。

 

 テキサスが、エクシアが、ソラが、クロワッサンが、瞳に生気と希望を取り戻してモスティマを見つめる。バイソンとユーシャさえもその顔を驚愕に染めていた。

 

 だがそれは人の死すらも巻き戻してしまうと言う事実。倫理を度外視した禁忌にも等しい奇跡である。

 その言葉の重みを理解したのは、他の誰でもないラテラーノ出身のエクシアであった。

 その表情を読み取ったのだろう。モスティマはエクシアへと視線を向けながら、言葉を続ける。

 

「エクシアの思ってる通りだよ。死者を蘇らせる──本国に知られたら、それこそ逃亡生活をしなければならなくなるかもね。ただでさえ監視が必要なくらいだからさ。……そもそもこの術が人に対して成功した事が無い。もしかしたらシュテンの存在が無くなるまで時が戻ってしまうかもしれないし、時の中で囚われてしまうかもしれない」

 

 ──だとしても、モスティマの瞳と決意は決して揺れ動かない。

 

「でも、シュテンのいない世界なんて──死んでしまった方がマシさ。万が一でもシュテンが生き返る可能性があるなら、その手段を取るよ。……テキサスも分かるでしょ?」

「……不本意だが、今ばかりはモスティマに同意する」

「じゃあ死ぬ気で護ってもらおうかな。……鼠王は間違い無く阻止しに来るからね。術式が乱されれば──シュテンの命は助からないと思って欲しい」

 

 誰一人、モスティマに対して意義を唱える事は無かった。命を賭してでも守りたいものがある──それはモスティマとテキサスだけでは無いと言う事を示している。

 

 そしてモスティマが視線を外へと向けた。他の誰でもない、この場では異物とも言えるユーシャに対してである。

 

「君は私達の敵なのか否か──見定めたい所なんだけど」

「…………」

 

 邪魔なのであれば強制的に退去を願わねばならない──そんな強い意志を宿した視線を向けるも、ユーシャの答えは無言であった。

 聡明な彼女であればある程度の現状は理解出来る──が、その現実を即座に受け入れられる程、冷徹で経験が豊富な訳でも無い。

 

 毒にも薬にもならないと判断したモスティマは視線を外して、動かないままのシュテンへと杖を向けた。

 

 チクタクと時を刻む音が止まる。

 

 モスティマの背後に浮かび上がった時計が反対回りに動き出すと共に、再び時を刻む音が響き渡った。

 

「────」

 

 まるで全てを無かったかのように時が巻き戻っていく。

 辺り一面に広がる夥しい量の血が、シュテンへと集まって行く。切り離された両腕、切り裂かせた太腿、穴の空いた心臓でさえ、異様とも言える光景の中で蠢き始めた。

 

 ──誰よりも愛おしい人が目の前にいる。

 

 こんな目に合わせた奴等を生かせておける筈も無い。だが同時にシュテンがそのような行為を許す筈も無い。

 

 家族(なかま)を光の中で楽しませる為に、ペンギン急便の裏方──闇の部分を担うのがシュテンの役目なのだから。

 

 だからモスティマに殺人をさせる筈も無く、許す筈も無い。

 

 故に彼女は自制したのだ。自身の復讐よりも、シュテンの意志を尊重する為に。

 

 周囲からの情報を遮断し、モスティマはただひたすらにアーツへと集中した。

 

 喩えラテラーノの追われようとも、アーツの暴走で自分の命が散ろうとも──必ずシュテンは生き返らせる一心で。

 

 

 

 

 

 本日何回目か分からない経験。瓦礫に埋もれながら鼠王は空を眺めて思案していた。

 

 シュテンの言っていたモスティマの実力を認める発言。常識の範囲内での依怙贔屓なのだろうと思っていた鼠王に取って、大きな誤算であった。

 だが身の丈を超えた力と言うのは大きな代償が求められる。現に奥の手と言わんばかりのタイミングで切られたのは詰まる所、そういう事なのだろう、と。

 

 同時に、時を操るとなれば時を戻す──即ち、シュテンを復活させられるのも同義であるのを鼠王は見抜いていた。

 そしてミズ・シチリアと鼠王を吹き飛ばしたとなれば、相応の集中力を求められるアーツなのである事さえも。

 

「…………」

 

 ──ほんのわずか一瞬、それで良いとさえも思ってしまった。

 

 目的を達成した鼠王に去来したのは、空虚にも似た喪失感。平和と幸せの中で過ごしていた者共を不幸のどん底へと突き落としたと言う事実。

 大人と呼ぶにはまだ幼い少女達が、泣き、喚き、怒りを顕にしなければならない程の大切な者。それをこの手で奪ったのだから当然とも言えた。

 

 そして既に満身創痍なこの身体。シュテンを相手取ってここまで戦い、あまつさえ命にまで届いたのは、過去の自分が知れば天晴と褒め讃える程である。

 

「──ッ!」

 

 だがそれでは駄目なのだと瞬時に否定する。脳裏に過ぎるのは、多くの命と同胞を引き換えにして創り上げたスラム街──その掛け替えの無い世界が崩壊していく姿であった。

 

 スラムが無くなる事──それは即ち、龍門の終焉が訪れると言う事。どんな犠牲を払っても、それだけは避けなければならない。

 

 だが鼠王は指先を動かせど、立ち上がる余力すらも無い程の疲労と負傷。継戦を望むには絶望的な状況であった。

 だが卓越したアーツは容易く人の想像を超えていく。動かぬ身体に砂を纏い、まるで全身を補助するかのように──操り人形の要領で動き始めた。

 

「終わらぬ──終わらせぬよ」

 

 砂に運ばれるがまま、鼠王は移動する。まるで風に運ばれるように駆け抜けて戻ってきた鼠王の目に映ったのは、光に包まれていたシュテンの姿であった。

 対面するモスティマは鼠王を見向きもせず、ただ目の前のシュテンに集中している。その結果だけで、如何に難易度の高い技を発動しているのかを、鼠王は理解した。

 

 彼女が敵に回らないのであれば、この場を支配するのは容易──そう、思っていた。

 だがその認識は間違っていたと直ぐに理解する。彼女達にもまた、命を賭してでも守りたいものがあるのだから。

 

 

 

 心を躍らせるような、心地良いソラの歌声が響き渡る。それは仲間のみを対象とした、身体能力を向上させるアーツだった。

 そんなソラを守るように立ちはだかるのはバイソン。客人であると同時にシュテンとの関わりも薄い彼が何故こうも関わるのか──それは、バイソン自身の中にある正義、そしてペンギン急便への恩義故なのだろう。

 

 そんな中、最速最短で駆け抜けたのはテキサスだった。受けた傷など構いはしない胆力。死力を尽くすと覚悟を決めたテキサスは、かつて無い程の底力を生み出している。

 源石剣の刀身が弧を描く。迫る凶刃を視認した鼠王は、紙一重に避けられる位置へと一歩退いた。

 

 満身創痍の身体を操るアーツと並行しながら、先読みの技術を使う余裕は無い。だが鼠王にとってこの程度の攻撃を避けるのは、朝飯前だと言えよう。

 

 だが眼前へと剣先が迫った瞬間、その刀身が伸長する。甲高い音と共に、砂の障壁とアーツの刃が火花を散らした。

 叩き潰さんとばかり表情を険しくしたテキサスであるも、鼠王の障壁を貫くには程遠い。

 

「──ッ! エクシア!」

 

 テキサスの叫びと共に、エクシアが動き出す。大きくスライディングをしながら、守護銃から撃ち放った多数の弾丸。鼠王の両目を狙い、一つ足りとも狂う事無く命中させ切るも、鼠王がダメージを負う事は無い。精々弾丸が放った閃光が視界を明滅させる程度であった。

 だが塞がる視界は、スピードに難のあるクロワッサンにとって好都合である。

 

「今だよ、クロワッサン!」

 

 大盾を捨てて身を低くし、存在感を消したクロワッサンが、鼠王の背後から現れた。

 片手槌を両手に握り締めると、機械式のハンマーが唸りを上げてエンジン音を上げた。瞬間、鼠王はクロワッサンの存在に気が付いたものの、その不意には後手に回らざるを得ない。

 大振りで振るわれた一撃。破壊力と言う一点ならば、人体を破壊しうる程の代物であった。

 

 衝撃音共に鼠王の身体に伝わる威力。必然的に鼠王の身体は前方へと突き動かされる事となる。

 だが正面には刃を以て競り合うテキサスの姿。

 

 成るべくして為った挟撃であった。

 

「フッ──!」

 

 クロワッサンの放った一撃は間違い無く、鼠王の障壁を亀裂を入れる代物だった。しかしながら、身軽な鼠王の身体は容易く吹き飛んで衝撃を緩和する。──そうなってしまえば、この挟撃も然して意味を為さない。

 

 テキサスの両手に伝わる衝撃が、鼠王を完全に捉え切ったのだと確信する。それと同時に、テキサスでは障壁を破壊し切れないと鼠王も確信していた。

 

 だが源石剣の刃は実体の持たない特殊な物。使い手によって大きく性能が変わるのが特徴であり、精神状態にも大きく影響される。

 

 強い信念を持つ折れぬ意志とは、喩え命が散ろうとも揺らぎはしない。

 それは、シュテンを救おうとするテキサスの意志も同様であった。

 

 両腕がへし折れようとも決して両腕を放しはしない覚悟。真っ向から受け止めて斬らねばならないと、紙のように薄く、それでいて鋼よりも強靭な刃へと昇華させていく。

 

 ──ならばその刃が鼠王に届くのも、必然だったのだろう。

 

 確かな手応えと共に剣を振り抜いたテキサス。硝子の割れるような音が響くと同時に、鮮血が舞った。

 

「ぐっ……!」

 

 苦悶の表情を見せて体勢を整えた鼠王。だがテキサスの与えた傷は決して浅くはなかった。

 

 横一文字に切り裂かれた胸元から溢れ出る血を、強引に砂で塞き止める。だがその隙も許さないテキサスの追撃。怒涛の剣撃の嵐だった。

 

 切れ味の増したテキサスの剣撃。その数が増す毎に鼠王に刻まれる傷は増えていく。空を切り、障壁を切り、皮を切り、そして肉を斬るに至る。

 

 シュテンに口約束をした手前、制圧を目的とした手段を講じていた鼠王。だが認識を改めなければならなかった。

 シュテンの命と言う起爆剤によって、敵と称さねばならぬ程の強さに変化しつつある事に。

 

 故に鼠王のアーツは激化していく。混濁しつつある思考を奮い立たせながら、命を削る前提で。

 

 対集団戦に於いて必殺と呼べる切り裂く砂嵐を鼠王は掌で生成する──が、酷く小さな渦のまま消え去る事となった。

 

「……もう止めようよ、お父さん」

 

 毅然とした態度を崩した一人の娘として、リン・ユーシャが同様のアーツを対として放った結果である。

 

「……よもやスラム街の窮地を分からぬ訳ではあるまい。シュテンへの情の方が強いとでも言うのか?」

「違うよ、私だって今の立場を理解しているつもり。……でも無関係な人達を巻き込んで殺して良い程に守るべきものなんて無いと思うの。お父さんが……ううん、私達の力が足りなかったから。その代償を彼女達に押し付けるのは、間違ってるよ」

 

 ユーシャの口から放たれた言葉は、何処までも真っ直ぐな正論だった。

 清く正しくで生きてきた訳では無い。スラムの抱える混沌を理解した上での綺麗事(はつげん)。それは生まれながらにして凛とした良心を持っている証左であった。

 

 鼠王にしてみれば実に喜ばしい事だろう。その心の様で王になればスラム街も安泰と呼べる──が、まだ駄目なのだ。

 成長期である龍門は不安定そのもの。故に如何なる犠牲を払ってでも御する精神の元で無ければ、何時でも崩壊しうるのだから。

 

「ならば糧となり死んで行った同胞達にどう説明するつもりじゃ? スラム無くして龍門は成り立たぬ。築き上げてきた全てが無に帰すのじゃぞ」

「……ウェイさんやシュテンさんと触れ合うから分からなくなるのかもしれないけれど、お父さんが思うより、人は弱い生き物なの。一人で創る事も出来なければ、壊す事も出来ない。だけど──」

 

 ユーシャは強い眼差しで鼠王を見つめて言葉を続ける。

 

「龍門を愛している気持ちは本物だと思う。喩え今と姿や形が変わっても、龍門が無くなる事なんて絶対に無い。……それが龍門と名乗らなくても、お父さん達が創り上げたスラム街、そして龍門があったからこそなんだから」

 

 ユーシャの言葉に鼠王が答える事は無い。──否、答える術を持ち得なかったと言うべきか。

 心に突き刺さる言葉が信念を揺らがせる。言葉にならない複雑な感情が、揺らぐ瞳に映し出されていた。

 

 その直後であった。

 耳を劈く獣の遠吠えが響き渡る。

 

 何事かと全員が視線を向けると、そこにはモスティマの背後に現れていた怪物が上半身まで姿を現していた。

 獰猛な爪と牙。尋常では無い巨躯。伝承にも聞かぬ化け物の姿が血に染まっており、その口元には──半身に裂けたシュテンがいた。

 

 頭の中が真っ白になる程の衝撃。モスティマのアーツが失敗に終わった──と、誰もが認識した時である。

 その姿が偽りの物である事にペンギン急便のメンバーは気が付く。実体の無い、まるで映像でも見せられているかのような幻視。

 

 時を戻すと言う事は即ち、生じた出来事を無に帰すと言う事。

 時を司る生物が亡くなったシュテンを喰らう──鼠王がその意味を理解出来たのは、次に聞こえてきた声が誰によるものなのか把握したその後だった。

 

「俺と殺し合う覚悟を持つ反面、自分の娘に諭される意志とは。中々面白い光景じゃないか」

 

 化け物の姿が消えていくと同時に光に包まれ──そこに現れたのは、消耗し切ったモスティマを支える、傷一つ無い完全復活を果たしたシュテンの姿があった。

 

 

 

 

 シュテンの生還。それは奇跡とも言えるアーツの産物。

 待望の存在に歓喜の表情を見せるペンギン急便であったが、近寄るのをシュテンが手で制する。

 

「傲慢な態度で大言を吐いた末、無様に殺されるのは……まぁなんだ、死に際の言葉と言い、流石の俺でも羞恥心はある」

 

 目を逸らして頬に薄く血気をみせる姿は、稀有と称するに相応の姿だった。息を荒くして見つめる者がいたものの、シュテンは小さく息を吐いて平静を取り戻す。

 

「ユーシャの言う事は正論だろうな。過去の屍が無駄になる事は無い。だがその過程で多くの血が流れる事になる。──それさえも許容出来ぬ程老いたからこそ、俺を殺すと決したのだろう? 喩えそれがスラム街の引き起こした自業自得であっても」

「……左様。老いたからこそ、湧いてしまった情がある。積み上げてきた友の亡骸を無碍にする事は無くとも、今を生きる家族(感染者)を切り捨てるだけで身を削られるような想いなのじゃよ」

「嗚呼、痛い程に気持ちは分かるよ。得難き物を手に入れた同士な。命を賭しても尚、守りたいのだろう?」

 

 コツコツと地面を鳴らして歩を進めるシュテンに対し、血に塗れて震えながらも古びた短刀を構え直す鼠王。

 争えば結果は一目瞭然だろう。だが戦いに是非など無い。

 

「十全にリンの悲痛を理解出来たからこそ──負けた暁には死んでも良いとさえ思えた。血溜まりに産まれ落ちたこの命。不可解だった感情を教えてくれた家族(仲間)がこの龍門の元で幸せに生きられるなら、捧げられる覚悟はあった」

 

 シュテンは瞳を閉じて思案した後、破損して吹き抜けた天井から夜空を見上げた。瞬時の逡巡を越えて瞳に決意を宿し、周囲にいたペンギン急便達の仲間へと視線を送る。

 

「だが死に際にあいつらの顔を見た時──その行為が如何に独り善がりだったのか気付いてしまった。……俺にとっての生き甲斐がそうであるように、ペンギン急便にとっても俺は必要不可欠な存在らしい」

 

 ユーシャの肩へと手を添えて場所を入れ替わり、半身を鼠王へと向けて、シュテンは拳を構えた。

 

「死ねない理由が出来た。元より何が正しいとか間違っているなどと言うつもりは無い──が、この世界であるテラに生きる以上、積み上げてきた歴史は常に勝者によるものだ」

「……根本は変わらんのう。お主もワシも。そしてこの世界も」

「嗚呼。……仕切り直しだ──行くぞ」

 

 何かしらの違和感を覚えつつも、鼠王は文字通りに身を削りながら対応していく。霞む視界の中でアーツによる先読み。迫る拳に対して曰く付きの刃を向けるも、直前でシュテンの動きが静止した。

 ──と、同時に筋肉の動作から寸止めを読み切っていた鼠王が力無く前傾へと倒れて行く。糸の切れた人形みたく沈んでいく様は、力尽きたように人々の目には映った。

 だが、シュテンは冷静に判断を下して半歩後ろへと下がる。その直後、落下の勢いを利用した鼠王の短刀が、シュテンの太腿のあった位置を通り過ぎて行った。

 

 その鈍く光る短刀を見るだけで血が凍る──そんな文字通りの事象に苦笑しつつ、シュテンが口を開く。

 

「酒呑童子の命を奪ったと言うのは事実なのだろうな。血が冷めていき、本能的に全身が震えるのを感じる程だ」

「ほう、お主にも弱点に対する恐怖はあるのか」

「俺もそう思ったよ。──だがその認識にこそ、誤りがあった」

 

 アーツによって呼応した砂塵が鼠王の背中を押し上げる。届かぬ僅か一歩を強引に潰し、射抜かんとばかりにナイフを突き出した。

 まるで恐怖など無いように掌を突き出したシュテン。短刀が容易くその皮膚と肉を突き破り、血に染まる。その刃を振り抜けば、手指はいとも簡単に切り飛ぶ──そう、思い描いていた鼠王は力を込めた、その筈だった。

 

「俺はシュテンであって酒呑童子では無いと言葉にしつつも、その力の本質は酒呑童子でしか無かった。御しているつもりでやはり完全とは言えなかったのだろうな」

 

 満身創痍とは言え、鼠王の全身全霊の薙ぎ払いが一寸足りとも動く様子は無い。先迄とは余りに相違のある事実に困惑せざるを得なかった。

 それと同時に、鼠王は違和感の原因に逸早く気付く。

 

 酒呑童子として力を振るう際に見られる狂気にも似た威圧。それが微塵足りとも感じられなかったのだ。

 

「だがその忌み嫌う血は、過去の因縁を乗り越えて生き返った俺に対して畏怖を抱いたらしい。こればかり(・・・・・)は思わぬ収穫だった。リンよ、感謝するぞ。俺はシュテン(オレ)のまま、強くなれた」

 

 今し方の死を切っ掛けに、酒呑童子はシュテンへと至る。

 

 故にシュテンがシュテンで在り続けるが為に、酒呑童子の致命とも言える特性を活かしきれていないと判断した鼠王は、抜けはしない短刀を手放す──事は叶わなかった。

 深々と掌を突き刺したシュテンによって、短刀の柄と手を掴まれていたのだから。

 

 シュテンは空いた利き手を振り上げて拳を構える。酒呑童子の血が騒いでいた時の殺意も暴威も感じられない、ただただ構えられた拳骨。

 だが長年の経験から鼠王は理解出来ていた。命を容易く奪い取る暴力がそこには秘められている、と。

 

「リン、これは敬意だ。正真正銘の全力を見せてやる」

 

 拳に力を込めて握る──ただその動作だけで、大気が収縮して震える程の錯覚を覚える。腰と重心を僅かに落とし、両脚を開いたシュテンの姿勢は、間違いなく理に適った一撃が放たれるだろう。

 

 死の予感を全身に浴びた鼠王の思考が活性化され、時が止まったかのように時間が間延びされる。走馬灯のように脳内に流れていくのは龍門での数々の思い出。

 

 ウェイ、シュテンとの会遇。

 死に逝く仲間と作り上げたスラム街。

 そして今を生きるこの世界と愛娘だった。

 

 だが反撃も回避も叶わない。それでも尚、死だけは避けねばならぬと、淀む意識の中で度重なるアーツが展開される。

 

 何重にも及ぶ定点の障壁。そして背後には柔軟に対応し切れる耐衝撃の障壁を。

 

 シュテンの拳が消えたと同時に、重ねた障壁が砕け散る。拮抗と言う言葉が余りにも遠く感じる事象。鼠王は全身に突き刺さるであろう衝撃に耐える為、強く歯を食い縛る。

  死に体ながらも万全を尽くした鼠王へと訪れた一撃は──過去に類を見ない衝撃だった。

 

 腹部へと突き刺さった拳が鼠王の全身を浮かび上がらせる。内臓と骨が悲鳴を上げ、上半身が千切れ飛ばそうな感覚。

 だがその力を逃がす術も避ける術も持ち合わせてなどいない。身体が吹き飛ぼうともシュテンの掴む握力は尋常では無く、僅かでも離れる様子は無かった。

 関節そして靭帯が伸びてギチギチと悲鳴を上げる。全身が引き裂ける程の激痛。それこそ、腕を切り落とす覚悟を決めていた方が懸命だったと感じてしまう程に。

 

 だがその苦痛が永遠に続く事は無い。一秒にも満たぬ時間の中で、間延びした時間を極限の鼠王が感じただけに過ぎないのだから。

 

 最初に綻び始めたのは鼠王の身体では無く、奇しくも古びた短刀だった。

 歪み、罅割れ、そして砕け散っていく刃と共に、シュテンが掴んでいた掌を開くと、鼠王の身体は弾丸の如く建物を貫いて吹き飛んでいく。

 繰り返し響く破砕音が、その小柄な体を如何に遠くまで吹き飛ばしたのかを物語っていた。

 

 一分か二分か。大地が揺れるかのような衝撃が収まれば、辺り一面が静寂に包まれる。

 

 待てども貧民窟の鼠王が戻ってくる事は無かった。

 

 これで全てが解決した──そう、ペンギン急便の緊張が緩和する中でシュテンが振り向き、ユーシャの肩へと手を置いた。

 

「ユーシャ、俺を恨むか?」

「……いえ、父の独断による暴走を止めて欲しいとお願いしたのは私ですから。どのような結果であっても恨むような事は決して。……元々、スラム内で解決すべき問題なので」

 

 敬愛する父を殺し得る一撃を叩き込んだシュテンに対して、心中に去来する思いは好感触と呼べる筈も無い。

 だがユーシャは全てを飲み込み、個としての感情を微塵も見せずに語る。年齢に分不相応な達観した振舞い。シュテンも何処か満足そうな笑みを浮かべて答えた。

 

「なら父の元に急ぐと良い。手当さえすれば命は助かる筈だ」

「……ですが──」

「大丈夫だ、後は俺に任せておけ」

「……はい。ありがとうございます」

 

 歩みを進めてすれ違いざまに背中を押したシュテンに対して、頭を下げて礼を述べたユーシャは鼠王の吹き飛んだ先を駆け足で走っていく。

 

 残る姿がシュテンだけとなった瞬間に、最初に駆け抜けてきたのはテキサスだった。誰よりも感情の起伏の薄い彼女が、激情を露わにして飛び込むようにして抱きつく。

 

「……バカ」

「悪かったな」

「シュテンが死ぬなら私も死ぬからな」

「……そうか、それは責任重大だな」

 

 テキサスから零れ落ちたのは言葉と涙。シュテンは優しく背中へと片手を回し、彼女を抱きしめた。

 だが短刀に貫かれた片手は未だに血が滴っており、足元に血溜まりを作りつつある。そんな彼の手を取り、手当てを始めた少女がいた。

 目を真っ赤に腫らせた心優しい少女、ソラである。

 

「こんな事は二度としないで下さいね」

「……そんな約束は出来な──」

「良いですね?」

「あ、あぁ……」

 

 有無を言わせないソラの威圧に、シュテンは思わずたじろいでしまう。感情を込めた真っ直ぐな視線。そこまで我を通そうとするソラの姿が如何に珍しいのかは、彼の反応を見れば一目瞭然であった。

 

 その直後である。突如として響いた銃声。吐き出された弾丸はシュテンの額の中心を正確に撃った。

 だがその弾丸は、シュテン相手では実用性の伴わないゴム製の弾丸。そんな手段を用いる人物は一人しかいない。

 

 不機嫌な顔を隠そうともしないエクシアだった。

 

「……なんだ突然」

「……まだ……えてない事……から……でよ……」

「は?」

「──ッ! まだ伝えてない事あるんだから! 勝手に死なないでよ!」

 

 必死に思いを押さえ込もうとする表情をするも、溢れ出る激情がエクシアの言葉を荒らげさせる。

 涙が零れそうな瞳を見せながら貫く視線を、シュテンは真っ直ぐ見つめ返していた。

 

「そう言うのはホンマにアカンで。シュテンはんがおらんかったらペンギン急便が成り立たへん。そこをちゃんと理解して貰わな」

「……そうだよ。シュテンの生き甲斐が私達であるように、私達もまた、どうしようも無い程に依存してるんだからね。……ふふっ。命を助けたお礼、楽しみにしてるよ」

 

 苦しそうな表情を浮かべるモスティマと、彼女に肩を貸しているクロワッサンの両者が苦言を呈しながら近付いてくる。

 

 全てはシュテン、そしてペンギン急便の為。

 

 誰もが自身の願いを口にしながらも、その思いは決して揺らぎはしない。だからこそ──シュテンもまた、一つの決心を下さねばならなかった。

 

「見ているんだろう? ミズ・シチリア」

 

 シュテンは虚空へと視線を送ったまま声を発するも、返って来る言葉は無い。だが確認にも似た直感故、その視線がブレる事は無かった。

 

「あら、良く分かったわね」

 

 集中力が僅かに散漫する瞬間。二拍程タイミングをズラした所でミズ・シチリアが姿を現す。

 妖艶な笑みを消して詰まらなさそうな表情を浮かべる姿は、見た目相応の少女そのものであった。

 

「お前は鼠王と違い、龍門にとって劇薬にしかならん。──どういう意味か分かるな?」

「ええ。真正面から貴方に勝てる要素は無いもの。今宵の敗北に免じて、聞きたい事があれば答えてあげるわ」

 

 シュテンにとってペンギン急便とは掛け替えの無い存在。そしてその存在が生きていく上で龍門もまた、無くてはならない必要な存在である。

 だがこの時点に於けるミズ・シチリアとは、毒を孕む不純物に過ぎない。ならばシュテンにとって、その命を奪う事に何の躊躇いも持つ筈も無かった。

 

 故にミズ・シチリアは両手を上げて降参のポーズを見せる。策は既に破られた手前、褒美とばかりに協力的な態度を示した。

 

「本当にお前にはスラム街の問題を解決する手立てがあるのか?」

「ええ。簡単に、とは行かないのでしょうけど。だけどレユニオン如きに遅れをとるつもりは無いわ。これでもマフィアの蔓延るシラクーザを纏めてきたのよ? 有象無象の感染者の集団。情報で手玉に取るくらいなんて事無いわ」

 

 それはシラクーザの執政者としての矜恃なのだろう。永きに渡って創り上げられた歴史が裏付けるように、その能力を疑う余地は無い。

 揺らがぬ自信が視線となり、シュテンを射抜く。

 

「……もう一つだけ確認させて貰う。何故コイツらじゃなくて俺を狙った? お前の目的が真に俺達の悲哀──いや、特異性を考えれば俺なんだろう。ならば命よりも大切にしていると理解しているコイツらの存在を狙うべきだ」

「……理由やサブプラン、話せば長くなるけれども……そうね、明確な要因を語るのであれば貴方だから、としか言い様が無いわ。──仮にもし、その子達を殺しでもすれば、貴方は人の皮を剥いだ怪物に成り得る。鼠王を殺すだけで収まる筈も無い怒り。炎国とシラクーザをも巻き込む戦火となる最高の馳走なんでしょうけど──私も殺されるのは不本意だもの」

 

 コツコツと足音を立てながら語り、ミズ・シチリアは背後に手を回しながらシュテンへと近付く。好奇心に満ちた視線を向けつつ、彼女は言葉を続けた。

 

「つまりね、この作戦自体が妥協案に過ぎなかったのよ。……さて、全て理解出来た筈よ。──それで貴方は私に何を提案してくれるのかしら?」

 

 圧倒的な人心掌握術を所持するミズ・シチリアは確信している。シュテンと言う男は合理主義であり、害を成せば不要と即座に切り捨てられる思考を持つのは、少ない会話の中でも把握できる程。

 ならばこの状況に持ち込んだのは、今後を左右する選択の提案をする他成らないのだと。

 

 ミズ・シチリアでなければ成り立たない交渉。故に一瞬で優位にさえ立てる確信。ミズ・シチリアは一言一句──その言葉の真意さえ決して逃すものかと脳を活性化させる。

 

 僅かでも隙を見せる懇願であれば地獄の深淵だと感じる程に使い潰し、自己犠牲を伴う交渉であれば骨の髄まで捧げる代償を要求──それ程までにミズ・シチリアの思考は悪意に澱み切っていた。

 

 だがシュテンの瞳には弱気や迷いは一切映りはしない。愚直なまでに前を──将来を見据えたまま、彼は語った。

 

「ペンギン急便の──この俺の生涯を見届ける権利をくれてやる。家族が老いて死んでいく俺の悲痛と苦悩を存分に楽しむと良い。その為にも──今の龍門を徹底して維持しろ」

 

 傲慢で不遜。徹底した命令口調で有無を言わさない程の圧力。頼む立場でありながらも提案とは思わせない言葉遣いは流石と称するべきだろう。

 

 何一つ失う事無く利を得ようとする言葉には、ミズ・シチリアでさえ驚きの余りに目を見開いていた。

 それでも尚、シュテンは語る。この血と欲に塗れた世界で日常こそが珠玉の時間。その日常の最中で円熟された幸福からの転落こそ、真の不幸なのである、と。

 

 余りにも魅力的な提案にミズ・シチリアの思考は停止する。だがそれと同時に一つの思惑もまた生まれ始めていた。

 

「でも私が手伝わないと言ったらどうなるのかしら? 龍門が戦火に巻き込まれようとも他所で生き延びるでしょうし。傍観者であるのは協力者で無くとも出来るわよ?」

「飽くまで最善手として言っただけの話だ。鼠王とウェイへの義理。ただそれだけで不用意に龍門と拘るつもりは無い。そもそも、だ。それを死に行く者に説明しても仕方ないだろう?」

「あら、私が逃げ去る──いえ、そもそも本物の私はここに居ないのかもしれないと考えないのかしら?」

「眼前の敵を逃がす程耄碌していない。それに喩え本物で無くともお前から感知出来る気配は常軌を逸する。今迄の傀儡とは違い、何かしらの情報が出てくるだろう。……嗚呼、安心しろ。これでも尋問は得意な方だ。一晩もあれば洗いざらい吐きたくもなる。そしたらシラクーザに赴いてやるから楽しみにすると良い」

 

 常識では測り切れない内と外を割り切れる精神力。足枷となれば龍門でさえ切り捨てる冷徹さと、仲間(家族)の為ならば人生すらも見世物にする自己犠牲。

 狂気と言う言葉さえ、シュテンを称するには物足りない。それを実現しうる能力さえ兼ね備えているのだから。

 

「は、あはっ──あははははッッ!」

 

 だからこそミズ・シチリアは高々と笑う。嗤う。狂ったように笑い続ける。まるで壊れた人形のように腹を抱えながら、高らかに声を吐き出した。

 緩んだ涙腺から溢れた雫を拭いながら彼女は言葉を続ける。

 

「そんな慈悲の無い冷徹さを持ちながらも、彼女達の為なら命を投げ出せるんだから狂ってるわね! 私が可愛く見える程の異常者じゃないの!」

 

 ──だからこそ、魅力的に見えてしまう。

筋肉だけの馬鹿(酒呑童子)とは違い、知性の中で見せる確固たる強き意志。

 見届けるのも悪くないと本気で思ってしまったのだ。

 

「──良いわ。貴方達が龍門で過ごせるよう、万全を尽くして上げる。元々レユニオンが気に入らないのも事実だもの」

「そうか」

「でも一つだけ。私の求める物は遥か未来の事。保証となる担保が欲しいわ。私に誠意を示す為の何か──それは、貴方が決めて」

「……ならこれをくれてやる」

 

 約束を反故にする男では無いと理解していても、全幅の信頼を寄せるほど関係を築けている筈も無い。

 その事を理解したのだろう、一言呟いてシュテンが投げ渡したのは、いつも手にしている古びた煙管だった。

 

「俺が俺である証そのものだ。どうせ詳細は把握しているのだろう」

 

 被検体が酒呑童子からシュテンとして旅を始めた根源であり形見。シュテンがシュテンであり続ける為、そして永き時の中で忘れぬように、と持ち続けていた代物だった。

 だがそれも今となっては過去の遺物。それ以上に守るべきものがあり、そして掛け替えの無い家族(あかし)がここにあるのだから。

 

「──。……ええ、十分よ。貴方の誠意は確かに伝わったわ。これからは共に未来を創って行きましょ」

 

 笑顔を見せたミズ・シチリアから差し出された掌。それは今までと違い、悪意と戦意の無い友好を示す行為だった。

 何らいつも通りの様子であるシュテンもその手を取り、握り返す。

 

 先までの喧騒が嘘であったかのように、こうして安魂夜の争いは幕を閉じたのだった。

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