「……お、お兄ちゃん…大丈夫……?」
「…………むりぽ」
「お兄ちゃーーーーん!!!」
―――
心地よい揺れにゆっくりと目が覚める。
冷たい床の感触を頬に感じ、そこで初めて自分が気を失っていたことに気が付いた。
最後に記憶に残っているのは今まさに自分へと迫りくる壁だが、あれは壁が迫っていたのではなく自分自身が床へと倒れ込んでいたんだろうと今になって理解した。
俺を揺り起こしてくれた桃子は間近で顔を覗き込み今にも泣きだしそうな表情を見せるので、ようやく状況を把握できた俺としては情けなくてこのまま二度寝をしてしまいたい気分だ。
「大おやぶんはたまきの歌で気絶するくらい感動したんだっ!くふふ~♪」
げに恐ろしきはBOUNCING♪SMILE!
―――歌詞が胸に響き過ぎて脳がこれ以上聴き続けるのは危険と判断したんだろう……
平塚先生とか聴いたら滂沱の涙を流すんじゃね?
なんなら俺も肩を組んで一緒に泣いちゃうわ。
「お兄ちゃん…なんでまた泣いてるの…?」
「ももこ、そんなのも分かんないんだー?たまきはすぐわかっちゃったぞ♪」
平塚先生と二人で泣きながら飲んでるところ想像したらまた泣けてきたなんて言えそうにもなかった。
「む、じゃあどうゆうことなのか桃子に教えてよっ!」
「それはねー、まじめにやってきたからだぞっ♪」
「アリさんマークの引越社みたいなこと言わないでっ!」
先ほど見たものを思い出す。観客もいないレッスンルームにもかかわらず大神のパフォーマンスは弾けるほどのエネルギーが籠められており、これがステージ上で発揮される時が来たなら、きっと客席には涙を流す大人たちが溢れるだろう。
ややもすれば子供に何が分かるんだ、と思われるかもしれないほど能天気ともいえる歌詞だが、それを純真無垢のど真ん中を走る大神が全身全霊で楽しさを表現しているのだからこちらとしては涙とともに心にへばりつく澱みを流すしかない。
「シアターの本番見ちゃったらお兄ちゃん死んじゃうんじゃない?」
「……今のうちに慣れておくわ」
マジで娘の結婚式とかそんなレベルで泣いちゃいそうだわ。
「大丈夫だぞ、大おやぶん!まだ残機が99万9999残ってるぞっ!」
「お兄ちゃんを勝手に100万回いきたねこにしないでっ!」
ふと猫という言葉を聞いて絵本を雪ノ下が読んだらどうなるんだろうかと想像してみるが見たこともないはずの号泣する姿がなぜか鮮明に想像できてしまった。
今度プレゼントしてやろうかな。
―――いや、陽乃さんあたりがとっくにプレゼントしてそうだしやめておこう。
「大おやぶんにとっての白い猫はたまきだもんねー♪」
「たしかにお兄ちゃんは100万回いきたねこみたいに歪んだ自己愛を持ってるけど、その猫に本当の愛を教える白い猫は桃子だもんっ!」
「桃子、俺のことそんな風に思ってたのか…?」
大人に膝をつかせる歌のショックからようやく立ち直ってきたと思ったら、予期せぬ方向から再びダメージを喰らう。
大神は外で遊ぶタイプかと思ったら絵本とかも読むのか。今度読み聞かせでもしてやろう。とか和んじゃってる場合じゃなかったし、今日は桃子がツッコミなのか?とか感心してる場合でもなかった。
「あ…、それはちがくて…桃子が言いたかったのは……えと……お兄ちゃん、初対面で人より自分を下に置くことで、相手が本当のお兄ちゃんを知った時のそのギャップに面喰ってるのを見て気持ちよくなるタイプの変態だってことで…」
「ぜんぜんフォローになってませーーーん」
「たまきもそれは最初に気付いたぞ?この人は好意を素直に受け取らず“一過性の感情の揺れを好意と勘違いしているだけだから”とか言い出しそうだなーってすぐ分かったもんね♪」
「事実無根ですーーーー」
「でもたまきはそんな大おやぶんのことが大好きだぞ♪くふふ~♪」
「俺も大好きだよーーーーー!!」
ノータイムで気持ち悪い鳴き声を上げてしまった。
それよりも高校生のころから見たらだいぶましになったであろう性分も、無垢な瞳を通してみればまだまだ成長が足りてなかったらしい。大げさにリアクションして見せたものの、こいつらがこの若さで人を見る目をしっかり養えていることの方が俺にとっては驚きだった。
すりすりと俺のお腹に頭をこすりつける大神を撫でながら、これくらいの年齢の時の自分はどうだっただろうかと思い出す。まあ少なくともこいつらの方がしっかりしていることは比べるまでもない。
「ちょっ!も、桃子もお兄ちゃんの事ずっと……ずっと」
「くふふ~♪大おやぶんのなでなで気持ちいいし、このままお家に着いて帰っちゃおかなー♪」
「はっはっはー、今日だけは特別だぞー?」
陥落寸前のロリコンだった。
「お、おにおに、お兄ちゃんのこと…ずっと」
「おにおん?玉ねぎの話でもしたいのか桃子?すまんが俺はそっちには精通してなくてな…」
「えっ!大おやぶんまだ精通してないの!?たまきはもう初潮が来てるから赤ちゃんを産める身体なんだぞっ♪」
よし。この言葉は二度とつかわないでおこう。生々しすぎるわ。
……つーか、こいつに1日署長の仕事とか来たらどうすんだ?現場の空気が凍るぞ。もうとっくに初潮は来ている署長ですとか高垣さんでも言わないレベルのダジャレだぞ。
そして何かを言おうとして真っ赤になっていた桃子は赤を通り越して白かった。
赤い炎より白い炎の方が温度が高いとかそういうのではなく白い目で俺を見ていた。
「お兄ちゃん最低」
「……客観的に見てどうだ?今の俺が悪いっぽいか?」
「客観的にも何も、お兄ちゃんとっくに精通なんかしてるのにまだ精通してないって嘘ついてまだ子供ができる心配はないから今日は着けなくてもいいって言いたかったんでしょ」
「うん、全然違うよ?」
この子、俺の事なんだと思ってるの?
「桃子が泊って同じベッドで寝たあの日の朝に、こっそり夢精したパンツ洗ってたの知ってるんだからね!!」
それに関してはできれば一生黙っててほしかった!
つーかあの虚しさってなんだろうな。夢の内容は自分で操ることできねえからうっかりちひろさんの夢で夢精した日はマジで死にたくなったわ。そしてそのパンツを自分で洗ってる時にもう一度死にたくなるし、事務所で実際に会った時も死にたくなる。ひと粒で三度おいしい。アーモンドグリコ越えおめでとうございます。
「なー親分、夢精ってなんだ??」
「精通と初潮は知ってるのに夢精を知らねえわけがねえだろ!」
「チャップリンのことかー?」
「それは無声映画でしょっ!とにかく今日は桃子も泊りに行くんだからねっ!!」
力強く宣言する桃子の頬には赤みが戻り瞳には何かを決意したような光が灯っていた。
「―――今日は戸塚が泊りに来るからむりぽ……」
まあ今日だけは無理なんだけどね
「そうだっ!育もさそってみよっか!!」
「んー、お兄ちゃんのベッドそんなに大きくないからなー…そうだ!amazonのお急ぎ便でキングサイズのベッド買えばいいんだ!」
「あれ!?聞こえてらっしゃらない!?無声か?無声なのか!?」