──エイブラハム・リンカーン
春──それは始まりの季節。
特に学生である自分には特別な季節である。
即ち……進級、進学。
特に中学を卒業し、初めて義務教育の垣根を越えて得た高校生という立場は全ての学生にとって特別な意味を持つと言って良いだろう。
一変する環境に一変する立場。
学生にとって恐らくは人生で初と言って良いだろう自ら勝ち取った成果によって進む道だ。
人によっては数年単位に及ぶ過酷な受験競争の成果を前にすれば、誰だって落ち着いていられるはずも無く。
それが例え日本屈指の名門校であっても例外では無い。
桜舞い散る中、赤色の制服を纏った高度育成高等学校の本年度新入生。
彼ら彼女らは皆が皆、緊張と期待に胸を躍らせている。
ある者は、着慣れぬ制服に落ち着きなさげに。
ある者は、登校中に知り合った者同士楽しげに。
またある者は、興味深げに新たな環境を吟味し──。
何れにせよ、高校生活という新たな人生の一ページを前に、殆どの者がソワソワとしていた。
とはいえ、当然例外もある。
新たな環境になろうとも、やることは変わるまい──。
そんな冷めた所感で、入学する者も当然居る。
そして少なくとも。
「うーわ、校舎おっきい」
バカみたいに見たまんまの感想を口に出す俺は、別に周囲ほど新たな環境に対して感動も期待も持っていなかった。
いや、正確には持っていたがすぐに消えたと言って良い。
──勘違いしないで欲しいのだが、別に俺は感情的に冷めた人間でも無ければ、変に格好付けたり、或いは周囲の逆を行くような偏屈とした性格をしているわけではない。
俺だって新高校一年生という立場を得るに至っては、多少の期待やドキドキワクワクに胸を躍らせていたりした。素直に喜んでいたと言って良い。
だが、朝はいつも通り変わらず母に対していってきますと良い、公共機関での移動中は変わらずボウッと行き交う人々を眺め、特に新しい出会いも無くドラマも無く順当に高校まで辿り着いてしまったため当初の期待感は掻き消えてしまったのだ。
別に物語チックに行き急ぐ美少女とぶつかったり、これから送る学生生活の中で凌ぎを削るような重要なライバル的な奴に出会ったりとそんな展開を望んでいたわけでは無いが……新たな環境、新たな身分に、非日常感を求めていたのは確かだ。
出会いに限らなくても良いが。
もっとこう……
だからこそいつも通り過ぎる始まりは既に俺から期待を始めとした感動の類いを根こそぎ一切、奪ってしまったのだ。
「電車は人多くて疲れるし、バスも人多くて疲れるだけだし、春にしては日差しが強くて歩くのも疲れるし……中学の時と変わらないなコレ」
寧ろ、これから学校だという感覚がやる気という奴を奪い去っていく。
毎日毎日、行って授業を受けて帰るというルーチンワーク。
最近の春休みで忘れ去っていた感覚が蘇ってきた。
「ハァ……なんかこう、あれば良かったんだけどな。例えば、バスの中でお年寄りに席を譲らない強情な生徒とのトラブルとか、そこで出会う美少女の話とか」
まるでライトノベルの導入みたいな馬鹿な話をしながらブツブツ呟き歩く俺。
そこには既に新生活への期待感は皆無。
妄想を拗らせ、ぼやきながら、入学式が行われる体育館を目指す。
そんな感じで入学早々、何処か肩透かしを食らった感じで前も注視せずに歩いていたからだろう。ドンと、不意に誰かにぶつかる。
「あ、すいませ──」
と、本日初めて起きた
「──あぁ?」
上げた先にあったのは美少女でも好敵手的なイケメンの顔でも無く、ただただ極めて威圧的な口調を繰り出す、大変人相の悪い人物の顔が合った。
加えて受ける印象は暴力的でしかも狡猾といった感じの。
おおよそ不良の中にあって、さらに質が悪そうな不良だ。
(……うおい)
なんでだよ、高度育成高等学校。
此処は普通、今後フラグが立つ美少女とかクールなイケメンライバルとの出会いとかそういうのが鉄板だろうが。
何で名門校の初日に出会う生徒が不良の類いなんだよオイ。
思わず俺は、あるかどうかも分からない運命とやらに文句を付ける。
そしてそんな馬鹿みたいな内心が相手に伝わるはずも無く。
「──……フン、ただの雑魚か。とっとと失せろ」
「あ、はい」
黙り混んでいたのがビビってると取られたのか、格下を眺める見下げた視線と共に罵倒を受ける俺氏。
反射的に返す言葉には罵倒に対する憤りも気の利いた返しも無く、ただ呆然とした肯定の言葉、それで真実、相手の関心を奪ったのだろう。
不良は暴力を振るうでも罵倒を重ねるでもなく去って行く。
「…………ハァ」
俺の気分は、完全に萎えきった。
………
………………。
──その後の展開も特に語るべき場面は無い。
予期せぬ人物の再会も無く、恙なく進行する初日の学校。
つまらない入学の挨拶に、長ったらしい校長のお話。
高校生活の始まりが不良による罵倒というあんまりな始まりだったためか、上の空で祝い事を捌く俺の時間経過感覚は早く、気づけばあっという間にこれから学生生活を過ごす教室にて、自分の席に着席していた。
周囲では早くも新たな人間環境を形成せんとする者たちが雑談に耽っている。よくもまあ初対面の相手とそんなに気軽に会話出来るなと感心しながら、俺は自分の席から参列跨いだ席の向こう、窓の外へと視線を投げる。
聞かずとも耳に飛び込んで入学式の話題。
入れて良かったねとか、うちの高校は進学率が最高とか。
何が好きで何が嫌いか、どこどこ中学にいたとか。
私は安藤、アイツは浜口、僕は快速柴田マン……と。
よくもまあ。
(元気で、明るくて、みんなコミュ力高いことで)
流石は名門校と言うべきか。どいつもコイツも優秀そうだ。
順応するのが早く、戸惑いはしても物怖じはしない。
この学校に入学している事実から学力にしても運動能力にしても、優秀であろう筈だから正に隙なしというべきだろう。
……お陰で俺を含む、一人で静かにしている生徒は普段の数倍増しで存在感が薄く見えてくる。
既に何となく自分が辿る未来の姿を幻視した気がする。
こう、少人数で小さく寂しく日々を諸行無常とぼやく……みたいな?
「ね、君。どうかしたの?」
「うん?」
集団に混ざれない哀しき独り身の宿痾に、早くも灰色の高校生活を予感していた時だった。
机に肘建ててボウッとしている俺に視線を合わせるよう、膝を曲げて俺に声かける物好きな生徒が一人、いつの間にか目の前に居た。
霞んでいた焦点を合わせて、相手の顔を見る。
すると初めて本当の意味で見た目前の人物は……大層な美人さんだった。
端正な顔立ちに、腰まで伸びる綺麗なブロンドピンクの髪。
女子高校生の平均を上回る抜群のプロポーション。
問答無用に、美少女である。分類するなら可愛い系の。
興味深げに俺を眺める目は何処か人懐っこい猫のような視線を受けた日には、女子慣れしていない男子であれば一撃で
そんな、彼女の名前は確か──。
「一之瀬……帆波だったか? 確か」
「あれ? 何で知ってるの?」
自己紹介してなかったよね? 確かと小首を傾げる一之瀬。
かわゆい。……じゃなくて。
「他の奴と話しているのが聞こえたんだよ。別に盗み聞きするつもりは無いが、ぼうっとしているとな」
普段から独り身の奴には他者のコミュニケーションを
噂話に鋭くなると言うか、悪口に対して過敏になるというか。
ちょっとした雑談でも何となく耳に入ってきてしまう。
そのため、俺は未だ誰とも会話をしていないのに我がBクラスの生徒たちの名前を八割方覚えてしまったのだ。何て虚しい話だろうか。
だが相手方はその悲哀を素直に受け取ったらしく。
「へえ、君は耳が良いんだね。それとも私の声が大きすぎたかな?」
「……別に五月蠅かった訳じゃ無いぞ? 気分を害したなら謝る」
「あ、違う違う。別に君を責めたわけじゃ無いよ? 単にそう思っただけで……と、コホン」
と、一之瀬はわざとらしく咳払いを一つして。
「改めて、初めまして。もう知っているみたいだけど私は一之瀬帆波。同じBクラスの生徒としてこれからよろしくね? えっと……」
「渋沢、渋沢清澄。よろしくな、一之瀬さん」
「一之瀬で良いよ。同級生なんだし」
「そうか、じゃあ宜しく頼む一之瀬」
「うん」
そうしてファーストコンタクトを交わす俺たち。
初対面の会話に相応しい当たり障りの無いものだが。
「それで、どうかしたのか?」
「うん?」
「いや、何か気になることがある見たいに話しかけてきたからな。それで向こうの会話も切り上げてきたみたいだし」
俺を傍目に先ほど一之瀬が会話をしていた女子生徒の方を見やる。
確か、あっちは白波といったか。
初対面の割りに仲よさげに話していたのが聞こえていた。
態々、向こうとの会話を切り上げて一人ポツンとしている俺に話しかけてきたのだ。何かしら俺に対して気になる所があると察することは容易だ。
最初の質問に質問を返す形で俺が問うと一之瀬は頬を指先で軽く掻きながら何でも無いことのように言葉を紡ぐ。
「や、大したことじゃないよ。ただこっちを見ているようだったから何かなー、って少し気になってね」
「……あー」
その言葉に俺は、己の不覚を悟った。
どうやら適当に投げていた視線は窓際で話していた彼女に当たっていたらしい。
何となく外を見るように、適当に見ていたが、聞き耳を立てている内に彼女自身を見ていたのだろう。悪いことをしてしまった。
「手持ち無沙汰でな、外を見ていたんだ。すまん」
「あ、ううん。良いよ良いよ。誤解しちゃったのは私の方だから」
真実、大して気にしていないのだろう。
微苦笑する一之瀬の顔に不快感に類する感情の色は無い。
「君……渋沢君って呼んで良い?」
「ん、問題ない」
「ありがと。それで、せっかくだから私と話さない? 先生が来るまでまだ時間があるみたいだから自己紹介も兼ねてね」
「俺は構わないが……面白い話は出来ないぞ?」
「全然。新しい学校だからね、私が勝手にみんなのことを知りたくて聞いて回っているだけだし、そんなに気負わないで良いよ」
「ま、そういうことなら遠慮無く」
単に自己紹介も兼ねて、という事だろう。
俺自身、特に紹介するべきはものは無いのだが……。
振られたからには拒否する理由も無し。
俺は取り立てて面白みのない会話を一之瀬とする。
何処の学校出身とか希望動機はとか、趣味はとか。
本当に平々凡々極まる面白みの無い話だったが、それでも一之瀬はつまらなさげになるわけでも無く、微笑を浮かべて楽しげに話す。
時折、質問したり、合いの手を入れたり。
……新入生らしい会話で何かいいな、これ。
ちょっと嬉しかった。
「はーい、みんな静粛に。これから出席を取りまーす」
「──っと、先生来ちゃったか。残念、もうちょっと話したかったんだけどね」
スッと引き戸が開く音に反応して視線を投げれば、そこには黒い出席簿らしきものを両手に抱えた女性教諭が満遍の笑顔で以て告げる。
彼女がウチの担任教師という事だろう。
一之瀬の言う通り、残念ながら自己紹介タイムは終わりだ。
「また、いつでも話せるさ。同じクラスなんだし」
「それもそうだね。じゃあまた後でね渋沢君」
「ああ」
会話を切り上げ、席に戻っていく一之瀬にひらひらと手を振って応じる。
兎にも角にも、初日から話せる友人が出来たのは幸先が良い。
お陰で登校中に多少落ち込んだ、気分も少しだけ晴れたと言える。
「ま、今のところは無難にやっていけそう、だな」
正直な所、俺は此処に来るまで肩透かしを食らっていた。
いや、やや俺が期待しすぎていたというべきだろう。
俺の、“無価値”であるはずの俺を評価した学校。
試験が振るったわけでは無いだろうに。
面接で目立ったわけでは無いだろうに。
それでも、俺に「合格」させる“価値”を見いだした学校。
どんなものかと期待した。
どうなるものかと期待した。
その結果、変わらぬ出だしに些か気を削がれたものの……。
まだ、全ては始まったばかりなのだ。
「決めつけるのはまだまだ早い。せいぜい見極めさせて貰おう」
──そして、願わくば。
この胸に、熱を。
俺が手にしている“価値”を振るう、意味を。
偉人は言った。
『少年よ、大志を抱け』と。
俺はそれを持っていない、描くことが出来ない。
生きる他に、人生の意義とやらを見いだせない。
もし、この学校がそれを見いだすきっかけになるのなら。
その時は──俺も本気で歩み出せるのだろうか。
大望を胸に描き、目指し突き進むことが──。