気付いた時、一樹は先程、あの砂漠に入り込む前に居た場所に戻っていた。
まさに狐に摘ままれた気分。白昼夢でも見ていたのかと思ったが、久々に走った事による激しい息切れ、そしてあちこちにある擦り傷がその考えを否定した。
スマホを見れば、記憶にあるよりもいくらか時間が経っていた。あの謎空間に居た時間を考えればそれくらいだろうか。
「……ん? 何だこれ」
スマホの画面に覚えの無いアプリが表示されている。妙に気味の悪いアイコンだ。誤ってダウンロードしてしまったのか。
不意に、ドロっとした不快感に襲われる。
何事かと思えば、一樹は自分が尋常ではない汗をかいている事に気が付いた。
無理もない。あんな不思議体験をした挙げ句に砂漠を走らされたのだから。そう納得しながら一樹はスマホを閉じて、夏場は常備しているタオルで体を拭く。
汗ダラダラの巨体は人の目を引く。一樹は少しでも目立たぬよう縮こまった。
今日は涼しい喫茶店か何処かでのんびりとネットの小説を読むつもりだったが、その気も失せてしまった。
折角よさげな喫茶店を見つけて、四軒茶屋まで来たのに……、とぶつくさ心中で文句を言いながら、一樹は家に帰るべく駅へ向かった。
■
驚くべき事に、新島からは2、3日経っても未だに連絡が来ない。
忙しくて連絡が取れないのか、単純に忘れて去られているのか。はたまたあの不思議な空間で皆死んでしまったのか……。
一樹は夜も眠れぬほどモヤモヤして過ごし、新島に連絡してみようかとも思ったが彼女の連絡先を知らない。
クラスメートなら知っているかもしれないが、一樹はクラスグループにメッセージを送っても(全員分の既読が付いても)無視される身。
聞いてみても可笑しな噂を立てられるだけだろう。
そう思いせめて彼らの正体を掴めないものかとネットを漁っていると──
「怪盗団……? まさかなぁ」
聞き覚えのある単語がヒットした。
流行にすら疎い一樹も知っているその名を見れば、5月頭にあの鴨志田が自分の悪行を泣きながら懺悔した光景が今でも思い描ける。
噂では、あの騒ぎを起こした張本人こそが怪盗団であり、悪人を改心させる力を持っていて、それを正義の為に使っているとか。
今では凄腕ハッカーのメジエドとやらと闘っているらしい。
そんな良く分からんグループの噂は兎も角、そんなグループに
確かにあの不思議な空間にしても、『人の心を操る』とか言う怪盗団なら関係が有りそうだ。だがあの優等生気質にて融通の利かない女が、怪盗団などと言う合法とは思えないグループに入るだろうか。
そこだけが唯一、一樹に引っ掛かった。
結局、新島から連絡が来たのはそこから更に数日経ってからだった。
『もしもし住吉君? ……うん。その話。明日の午後空いてる? じゃあ四軒茶屋の"ルブラン"って喫茶店に来てくれる? 場所は…、知ってるの? じゃあ、待ってるから』
ピッ、と新島は言いたい事だけ言って電話を切ってしまった。
え、連絡遅れてごめん とかないの? 俺、一週間待たされてんだけど。てか、わざわざ俺が行かなきゃいけないの? などなど言いたい事は多々有ったが、一樹は電話が切れるまで肯定の意のみを示し続けた。
「……大丈夫。俺は大丈夫。──ってまーた入ってるな……」
通話が終わり、スマホを閉じようとした一樹は、何度もアンインストールしたアプリが再びダウンロードされている事に気が付いた。
二度目、三度目の時は見つけるたびに恐怖したが、流石にもう慣れてきた。一樹はもうアプリを消去することを諦めた。
ネットで調べてもなんの情報もヒットしないため、少なくともウイルスではなさそうだ。恐らく、スマホのバグか何かだろう。
そうは言っても一樹にはそのアプリを開く勇気は無い。せめて目に入らないようそれをアプリ一覧にしまった。
(──さて、どうしようかな。)
明日ようやくあの砂漠やら何やらの説明がされる。
そう思えば心のもやもやが嘘の様に晴れていく。こうなれば最近身の入らなかった勉強や読書をするのも良い。それとも久々にゲームでもやろうか。一樹の頭に色々とアイデアが浮かんでくる。
ふと、例の『心の怪盗団』について調べようかとも思ったが、怪盗団は最近闘ってたメジエドとやらを倒したらしく、ファンサイトの『怪チャン』はお祭り騒ぎになっていた。
そんなんではロクな情報は手に入らないだろう。一樹はそう推測して止める。
結局、一樹は自分のベッドに横になってのんびりと好きなネット小説を読んでその日を過ごすのだった。
■
(──ここ……だよな?)
約束の日。
場所は四軒茶屋の純喫茶『ルブラン』前。
新島が待ち合わせ場所に選んだのは、奇しくもあの日一樹が訪れようとしていた喫茶店。前回は道に迷って民家しか無い通りをうろうろしてしまったが、今回はすぐにたどり着くことができた。
以前通った時と同じく、やたらとコーヒーの良い香りがする店だ。
しまったな。と、一樹は心の中で舌打ちをする。
もしまた迷ったり遅刻したら不味いからと、下手に家を早く出たのは失敗だった。昼過ぎの待ち合わせで午前中に着いてしまった。流石にまだ来ていないだろう。
それに、お昼近くとあって腹も減った。新島たちに会ってから食べれるかも分からないし、今の内に食べておきたい。
だが土地勘も無いこの辺りをさ迷って、手頃なチェーン店を見つけられるだろうか。
そう店の前で悩んでいると、一樹の目に"ルブラン特製カレー"の文字が映った。値段もそんなに高くないし、なにより美味しそうだ。此処で食べながら、のんびりコーヒーを飲んで待とうか。
素晴らしいアイデアが浮かび、一樹は意気揚々と扉を開けた。
カランカラン。と鈴の音が響く。
「……いらっしゃい」
喫茶店の中は、いかにも路地裏の喫茶店らしい内装であり、マスターすらいかにもな見た目であった。
──謎の被り物をした女以外は。
「………」
「ヒッ」
気味の悪い着ぐるみの頭部らしき物を被った女は、思考停止して固まった一樹をギロリと睨んだ。
いや。着ぐるみのおっかない目の部分がそう見せているだけかもしれない。よく見れば、女の方もプルプル振るえていた。
一樹は動けない。女も動けない。妙な硬直が起こる。
当然、一樹は店に入った事を後悔している。こんな訳の分からない女がメンバーなのだとしたら、新島は本当に非合法のグループに所属しているのかもしれない。
「ああ……、その子は気にしないで座ってくれ。悪いな」
マスターが声をかけてくる。それを聞いて女が引いていき、硬直の解けた一樹はなんなんだと怯えながらも扉の見えるテーブル席に座った。
昼前の中途半端な時間の為か、一樹以外に客はいない。
着ぐるみの女は厨房で黒髪の若い男店員と何か話している。メガネを掛けた男の方を、一樹は何処かで見た気がした。そしてその近くに黒猫もいる。話に合わせて頷いている様に見える。
よく慣らされた猫だ。ルブランのマスコットなのだろうか?
しかしそれにしても、どうやって注文するんだろう。
もしかして自分から伝えに行くタイプのシステムだったか。 と一樹が立ち上がろうと手足に力を入れた瞬間。
「ご注文は?」
メガネの黒髪店員に注文を聞かれた。先程見た時にはカウンターの向こうに居たメガネの黒髪店員は、いつの間にかテーブルの横に来ていた。
いつの間に。何の音もしなかったのに。接客技術なんだろうか。自分が飲食店でバイトをした時には教わらなかったが、と一樹は驚く。
いや、教わったのに自分が覚えられなかっただけかもしれない。一樹は自分自身が一番信用できない。
「じゃ、じゃあコーヒーとカレーを」
メニューを見るでもなく黙っていた一樹は店員に不審そうに見られている事に気がつき、慌てて注文した。それを聞いたメガネの黒髪店員は肯首してカウンターに戻っていく。
「──っ?!」
不意に、一樹は黒髪の男を何処で見たのかを思い出した。
間違い無い。
高校で黒い噂の絶えない転校生。そして……あの日あの砂漠で、一樹の肩を掴み釘を刺してきた男。
格好が違えど、あのパーマと威圧するような眼光を、一樹は覚えていた。
(──もしかして此処、怪盗団のアジト…なのか?)
なら、此処に呼び出されたのは、口封じに何かするためなのでは……?暗殺。洗脳。拷問。一樹の頭に、とんでもない予想がよぎった。