喫茶店の中は冷房が効いて涼しい筈ながら、一樹は自分の背中にタラリと粘着質な汗が流れているのが分かった。
勿論、あの黒髪の男が怪盗だと確証付ける証拠は無い。それによしんば怪盗だったとしても、彼らは正義の味方らしい。まさか殺される事はないだろう。
そうは思っても怖い物は怖い。
出来るなら今すぐこの喫茶店から出ていきたい。が、もう注文は済ませてしまったし、あの厨房の様子だと後数分もしないでカレーも出てきそうだ。
自分で注文して用意された物を受け取らずに、「やっぱ無しで」と言う根性は一樹にはない。
「……カレーとコーヒー。お待ち」
「ありがとうござ……い、ます?」
給仕に来たのは、見覚えのない赤く長い髪をした少女だった。
誰だこいつは。と一樹は思ったが、服装を見れば恐らく先程の着ぐるみ女だろうことが分かった。
その少女は美少女と言って過言は無く、別段コンプレックスになりそうな顔ではない。なら何故わざわざ隠していたんだろう。
一樹は少し気になったが、目の前のカレーを見ればそんな事はどうでもよくなった。
なんと素晴らしい香り。匂いだけでこのカレーが大当たりだと確信させてくれる。
一樹はガツガツと一気に皿を空にした。
(──うん。旨かった。)
先走って逃げ帰らなくて良かったと、一樹は先程までの不安を忘れて満足気に頷く。
「にいちゃん。ここは飯屋じゃねえんだから、そんなかっこむなよ。まあ、旨かったならいいんだけどよ」
「えっ。あ……すいま、せん」
「ああいや、別に怒ってる訳じゃねぇんだが」
いきなりマスターに話かけられ、チェーン店のマニュアル的対応に慣れすぎた一樹はマスターの真意を察せずに謝ってしまう。
気不味さを紛らわすべく、一樹はコーヒーを一口、ゴクリと飲んだ。
「……旨い」
つい、呟いてしまった。流石だ。900mlで108円の安いコーヒーに慣れ親しんだ一樹の舌には衝撃の味だった。
「そうかい。ありがとよ」
流石は渋い喫茶店のマスターだ。ニヒルと言うか、ダンディズムと言うか。
どうやったらこんな大人に成れるのだろう。一樹がそんなことを考えていると、カランカランと扉のベルが激しく鳴った。
「いらっしゃ……ああ。お前たちか」
「ちわーす。おっ、今日は着ぐるみ脱いでんじゃん」
「……不本意ながら」
「ふ、そっちの方が良かろうさ」
入って来たのは、金髪の不良っぽい男と、青っぽい髪のキザったらしい男だった。男二人は少女店員と知り合いらしく、立ち話を始めた。マスター公認なのか、マスターは気にする素振りを見せない。
(──あいつら、『怪盗団』の奴らでは?)
あの砂漠では顔半分が仮面で隠れていたし、服装も違うが、雰囲気はまるでそっくりだ。
しまった。早めに逃げるべきだったか。一樹は再び後悔した。
よくよく考えれば、メンバーである黒髪店員が働いている店に呼び出した時点で、生徒会長も黒だったのだ。
あの時勇気を振り絞って注文を却下し、すぐ店から出ていれば……とカレーをガツガツかっこんでいた事を忘れて一樹は自分の不甲斐なさを嘆いた。
いや、と一樹は一つの可能性を思い付く。どうやら、黒髪店員もメンバー二人もまだ自分には気が付いていないらしい。
それはショックと言えばショックだが、今は好都合だ。何も関係無いふりをして帰ってしまおう。
約束を破ったことで新島は怒るだろうが、このまま此処に残った方が確実に、どんな意味にせよ酷い目に合う気がする。一樹は金髪のチンピラに良い思い出が無かった。
なら、逃げ帰ってしまおう。
一樹が決断し、席を立ち上がった丁度その瞬間、カランカラン、と再びドアベルが鳴った。
(──ああクソ。遅かったか。)
入ってくる女の姿を認識し、一樹は諦めて席に座りなおす。
「こんにちはマスター。皆おはよう……てっ、住吉君。もう来てたんだ」
憎き新島の一言で、己に回りの視線が集中したことが、一樹には分かった。
「ああ、うん。えっと……、おはよう」
一樹は諦めて、何時も通りの歪な笑顔を浮かべた。
■
「マスター、お邪魔します」
「ああ。いらっしゃい」
新島はマスターと2、3言話して(どうやら見る限り、マスターは少なくとも怪盗団のメンバーではないようだ)一樹の元へとやって来た。
「ゴメン待たせた……ってまだ15分も前だけど。随分早く来てたのね?」
「えっと、あ、うん。昼、ここで食ってたから……」
「ああそうなの? 美味しいわよね、ここのカレー」
やっぱり変わらないな。こいつも。
一樹は胸に、黒くモヤモヤしたナニかが溜まっていく。
相変わらず、「いいえ」と言われる事を想定していない喋り方をする奴だ。どうせ無意識なのだろうが、他人を見下していなければ出来ない話し方だろうと、一樹は思う。
「じゃあ、取り敢えず上に来てくれるかしら?」
「……上に? いいのか?」
一樹はてっきり、此処で話すものだと思っていた。
「ええ。2階は、彼の部屋だから」
「へぇ……」
新島の視線の先には、あのメガネを掛けた黒髪店員が居た。住み込みとは。一樹は珍しい物を見た気分になった。
だがそれよりも、人気のない喫茶店の2階とは。一樹はさっきの妄想が現実味を帯びた気がして少し青ざめた。
新島と、その他の仲間(少女店員も!)はゾロゾロと店の脇から上へ上がっていく。
一樹は慌ててマスターに料金を払い、彼らに着いていった。
■
メガネを駆けた黒髪店員の部屋は、物の少ない質素な場所だった。男はマスターの家族でも無さそうだし、何か深い事情が有るのだろうか。
一樹は少し気になったが、今の彼の心情にそんなことを掘り下げる余裕は無い。
ようやくあの珍妙な砂漠について知れる興奮は当然ある。
(──止めろ。"その目"で俺を見ないでくれ……)
しかし彼の心を占めていたのは、屈辱感や劣等感、その他多くのマイナス感情であった。
その原因は彼らから向けられる、敵か味方か、無能か有能か、それを見極めるべく一樹を観察する視線にある。
一樹は、見られることが、評価されることが大の苦手だ。そんな事をされる時はえてして、緊張のせいか何時もはやらないような大失態をやらかすのだ。
そしてその結果、落胆や失笑と共に低評価を下されてきた。
故に彼は見られたがらない。己が観察されれば余計に軽蔑されるのだと、理解しているから。
一樹は今日暑いからとマスクを持ってこなかったことをひどく後悔した。マスクさえ着けていれば少なくとも、気味悪く歪んだ表情は見られずにすんだのに、と。
そんな一樹の葛藤などいざ知らず、椅子に座っている新島は何から話そうかと悩んでいるし、金髪のチンピラや青髪の青年などは持ち込んだ菓子を開いている。
一樹は遠慮がちに、階段近くの机に軽く寄りかかった。もしもの時はすぐに階段を駆け下りて逃げれる様にと、一応の警戒心が働いた為である。
一樹の前にいる新島の仲間は、彼女に今回の話を任せているのか一樹を観察するだけで何も話しかけてこない。
一樹も何も言うことはなく、気持ちの悪い沈黙が部屋に流れる。
「……よし。じゃあ住吉君」
「あっ、お、おう……」
ようやく、アゴに手を当てて思考していた新島が喋りだした。
「貴方は、最近ニュースにもなってる『怪盗団』って物を知ってる?」
「えっと、うん、まァ……」
新島は一樹の返答に頷いて言葉を続ける。
「じゃあ、あなたの知っている『怪盗団』について話してくれるかしら?」
「……怪盗団。人の心を盗んで改心させる義賊…、だって話だよな」
何で俺が尋問されてんだ。不満を抱えつつも一樹は新島に問われた事に答える。
「そうね。他には?」
「他? えっと……、最初の犠牲者はうちの鴨志田先生。その後に大物芸術家だの渋谷の犯罪者だか半グレだかを狙って、最近はハッカー集団のメジエドとやらと戦い見事勝利した……、だっけ?」
「その通りだけど、随分と詳しいのね。ファンなの?」
「えっ、いや…、そうでもない。たっ、ただあれから一週間も有ったからさ。色々それっぽい事は調べてたんだ」
一樹には皮肉のつもりたったが、新島には効いていないようだ。新島はまた少し考え、それでも悩みながら言葉を紡いだ。
「そこまで分かってるなら、もう──
──私たちの正体も分かってるんじゃない?」
「ッ!!やっぱり、新島たちが、『怪盗団』……なのか?」
新島は肯首をもって一樹の言葉に答える。
それは、一樹にとって予想のついたこと。だがしかし、それでも衝撃の告白であった。