「へえ。フィアンセ殿が?」
「うん……。昨日、いきなり電話で結婚の契約書は嘘だって謝られて……。当然婚約は破棄、オクムラ・フーズにも謝罪を入れるからって」
放課後、屋上のプランターに水やりをしながら、一樹と春は会話する。野菜の世話をしながら雑談を交わすのが、最近の2人の日課だった。
そして話を聞く限り、元フィアンセであるスギムラの改心は無事成功したようだが、一樹は春に詳しい話をするつもりはない。
「そりゃ良かったじゃねぇか。会社にも事実を告げるってなら、もう無理やり結婚させられなくて済むんだろ? 」
「でも、今までの横暴な態度が嘘みたい……。まるで……」
「まっ、何にせよもうソイツと会うことはないんだろうし、気にしなくて良いだろ。そんな事より……、今日が前々から言ってた高蔵サンとの話し合いだろ? そろそろ行こうぜ」
「あっ! もうこんな時間……」
何とか誤魔化せたようだと一樹は心の中でホッと息を吐くが、専務であり現在実質的にオクムラ・フーズを管理している高蔵との対談がこの後に待っているのは事実である。
経緯はどうあれ、オクムラ・フーズがブラック企業であると世間に認識されてしまった。一度貼られたレッテルはそう簡単に剥がせない。故に今後の経営方針について話し合う必要があるのだと、春はいう。
奥村社長はまだ生きているのだから、株主でない春には何の権限はなく、同時に何の責任も無い。だが奥村家の娘として育てられた以上、春はオクムラ・フーズの問題を放っておけないらしい。
「春の育てたコーヒー豆を使った、心を込めたコーヒーを淹れて高蔵サンを説得するってのは分かったが、その場に俺がいていいのか?」
「うん。出来ればで良いんだけど……、一樹君にも同席して欲しいの」
「そっちが良いってなら構わねえよ。……何でも協力するって言ったしな」
「ありがとう! 私、あなたが一緒ならきっと想いを伝えられると思う!」
そう笑う春の姿を見ながら、一樹は何処か救われた様子で微笑み返すのだった。
■
「これを、私に飲んでほしいと?」
「はい。高級な豆ではないですし、素人が淹れたものですが」
奥村家で行われる対談で、春はそう高蔵専務に切り出した。職場から直接やって来たらしいスーツ姿の高蔵は特に躊躇う事なく、淹れられたコーヒーを飲む。
「この香り……、ふむ、成る程ね。それで、折り入って私に話とはなんだね? 会社の事かな?」
春が心を込めて淹れたコーヒーを飲んで何か感じ取ったのか、高蔵はそう一樹の横で座る春に尋ねる。
「……お父さまが倒れて以来、私は会社の方々を、誰一人として信用していませんでした。……高蔵さんの事もです」
「それは、手厳しいな……」
「すみません。あの、それで今日お話ししたいのは……」
「春、深呼吸をしろ。俺が隣にいてやる」
「一樹君……。ありがとう」
緊張と不安で震えていた春の瞳が、しっかりと高蔵の目を見据える。そこには物怖じの色は見えず、隣に座るだけの一樹すらも頼もしさを覚えるほどだ。
「高蔵さん。そのコーヒー、いかがだったでしょうか? 私が育てた豆で、私が淹れたコーヒーなんです」
「なんだって……?」
「心を込めて育ててきた豆たちです。それを、高蔵さんに飲んでいただきたかったんです」
そう言われて、高蔵専務は再びコーヒーを飲み直す。
「……お爺さんのお店のコーヒーに良く似ているね」
「え…?」
「私ね、お爺さんの喫茶店の常連だったんだ。オクムラ・フーズに入ったのも、その縁があってだ。実は新事業のコーヒーチェーンには、お爺さんの喫茶店の名前を使おうかと使おうかとも考えていてね」
一樹の記憶にもあるあの喫茶店のように、客にも従業員にも愛される店を作りたいのだと、高蔵専務は語る。
その表情は何処までも真剣で、若い春を騙くらかす為に適当な事を言っているようには思えない。
「そうだったん…、ですか……」
「春ちゃんの私たちへの不信は当然の事だと思うよ。私や社内の人間なら、社長を止められたはずだ…」
オクムラ・フーズはその規模に反して、奥村社長のワンマン経営であった。だが社員へのパワハラや労働法基準法違反が奥村社長だけの罪とは言えず、重役が奥村社長に加担してしまったのは事実である。
だが被害者には真摯な態度で対応しているという高蔵専務の言葉にも嘘は見えず、春は尚更動揺する。
「そんな、私……。すみません、失礼な事ばかり……」
「ハハ、君の立場からすれば仕方ないさ。実は私も社内では敵が多くてね。『社長がいなくなって喜んでる』なんてデマまで流されて……、参ったよ」
「あっ……」
そういえばと、一樹は高蔵専務と病院で何度も遭遇した事を思い出す。
それは何時も一樹と春が奥村社長のお見舞いで訪れたタイミングであり……、他の重役とは、奥村社長が車にはねられたあの日以来、会った覚えはない。
「すみません私……、高蔵さんの事を誤解していたみたいです」
「構わないさ。それに……、私も1つ誤解していたみたいだね」
ガラリと雰囲気を変えて、高蔵専務は頭を下げる。
「えっ?! 何を……?」
「杉村君の事だ。昨日彼から連絡があってね。偽りの契約書を騙って結婚を迫っていた、と。てっきり、君は彼の事を好いているのだと……」
頭を下げたまま、高蔵専務は言葉を続ける。
「だからこそ杉村君に君のことを支えてほしくて結婚を急かしてしまったが……、まさか婚約の契約書などと騙していたとは……。本当に申し訳ない」
重役として引き入れる為にスギムラと春の結婚を目論んでいたオクムラ・フーズの一派閥が、スギムラに入れ知恵していたのが真相であるらしい。
「……いえ、私は…」
スギムラの事を許す気にはなれないが、高蔵専務の事を責める気にはならない。春はそんな気持ちらしい。高蔵専務が頭を上げて、もう一度謝罪する。
「君のことを何も見抜けずに申し訳なかった。……本当は、隣の彼なんだろう?」
「えっ!? あの、ええっ!?」
スギムラの事は何も気にしなくていい。そう告げた高蔵専務は春の淹れたコーヒーを飲み干して帰って行った。
これでオクムラ・フーズの今後の事も、春の婚約関係の問題も解決である。だが残された一樹と春は万々歳とはいかず、何処か気まずい空気が流れている。
「その……。高蔵さん、変なこと言ってたよね? と、ととと隣の彼が、とか……」
高蔵専務が帰ってからも、一樹と春は席を動いていない。動くタイミングを逃して、2人はずっと隣同士に座っている。
「あっ、あの! 私──!!」
「待ってくれ、春」
真っ赤な顔で何かを決意した春を、一樹が止めた。その顔は、春に劣らず真っ赤に染まっていた。
「一樹君……?」
「……俺から言うって、リーダーにも約束しちまったからな。あー、だから、その……、俺が言っていいか?」
「……うん!」
その返答を聞いた一樹は、大きく息を吸って、吐き、しかしそれでも足りず、残っていたコーヒーを一口で飲み干して、ようやく腹をくくる。
「春。俺は、お前がいたから、ここにいる。……違うな。春といたいから、俺はこんな所まで来られたんだ」
一樹は思い出す。春が以前、自分には特技がないと悩んでいた事を。だがそれは一樹も同じ事。自分だけの特別など存在せず、自分がいても何の役にも立たないようにすら思える。
だがそれでも、一樹は仲間の……、春の隣に立ちたかった。
「俺は俺が嫌いだ。何も出来ない、愚図で、要領が悪くて、空気も読めない俺が嫌いだ。好きになる気は無い。それで良いと思っている」
でも一樹は、何者にもなれない自分の事を、自身で嫌うのと同じだけ誰かに受け入れて欲しかった。それで良いと、何者でも、狂人でもない自分を肯定して欲しかった。
「そんな拗らせた感情を抱えて、離脱したり裏切ったり…、そんな面倒くせぇ俺を初めて受け入れてくれたのは……
──春、君だった」
だからここは、狂気の出番ではない。一樹は大嫌いで、同じだけ誰かに認めてほしかった自分の
「舞台に登る勇気は無く、でも劇場から出る事も出来ない。そんな哀れな傍観者でしかなかった俺を、君は救ってくれた」
一樹は思い出す。春との出会いから、今に至るまでの道のりを。
『──もしかして……一樹、君?』
『…………………は? な、なんで…?』
『……クソ。なんで俺を助けた……。俺はもう、仲間じゃ……』
『──私、一樹君の事、ずっと仲間だと思ってるから』
『春。俺は、お前を許す。だから……』
『──私も……一樹君を許すわ』
『高くないコーヒーでも、貴方と一緒に飲めば美味しいよ』
春は以前、一樹に甘えていると言ってくれていた。いつも助けられているとも。だが、逆なのだ。
こうして隣でコーヒーを飲んでくれるだけで、誰にも尊重される事のなかった傍観者の一樹は救われていたのだから。
だから……
「──春、君のことが好きです。俺と……、付き合ってください」
ようやく絞り出したこの言葉は何処までも心髄な、紛う事なき一樹の本音だった。顔を真っ赤にして、一樹は春の言葉を待つ。しかし春もまた、顔を赤く染めて言葉に詰まっている。
「……私はきっと、これからも一樹君にいっぱい迷惑をかけるわ」
「前にも言ったろ? 頼られない事に悩む事よりも、頼られて一緒に悩んだ方が良いって」
「そんな事を言われたら、……私、貴方にいっぱいワガママを言うと思う」
「それこそ最高だな。惚れた女に甘えられて嫌になる男がどこにいるよ?」
キザったらしい、何時もの一樹には到底言えない台詞。しかし熱に浮かされた一樹は当然のようにそれを口にして、また同じく熱に浮かされた春は顔を更に赤くして受け入れる。
「わたッ、私も……、一樹君が──、好きです」
「ッ!! ありがとう……」
春のその言葉に耐えきれず、一樹は春に顔を寄せる。一樹の求めている事に気付き、春は周囲の目を気にして恥ずかしがる。だが、本気で嫌がる素振りは見せない。
「あっ、やだ、こんなところで……。お手伝いさん、まだいるのに……」
「春。……頼む」
「……うん。いいよ」
少しだけ迷う春。だが目の前にある一樹の顔は本気で、春はついに目を閉じた。
──2人の影が、一瞬だけ重なった。
「私……、胸がいっぱいで、もうコーヒー、飲めないや」
特別な関係になった2人はこうして、ゆっくりとした時間を過ごした……。
■
──白く、清潔で、大きな病室。
「綺麗なプリザーブドフラワー……。高蔵さんもいらっしゃってたのね」
そんな病室で1人、春の父親である奥村社長は眠っていた。
明智と獅童の手引きによって引き起こされた交通事故以降、いつ目覚めても、いつ
「……今日、高蔵さんとお話したの。お爺さんのお店の常連さんだったなんて、初めて聞いたわ。会社の事、お父様は何も教えてくれなかったんだもの」
一樹はいま、春と一緒にそんな奥村社長のお見舞いに訪れていた。奥村社長のお見舞いはこれが初めてではないが、一樹はいつも、奥村社長に話し掛ける春の姿を、後ろからこうして見守っていた。
「私はずっと、奥村家の令嬢として会社の利益のために利用されているんだって思ってた。でも、私はお父様に守られてもいたんだって、最近は思うようになったわ」
奥村社長が意識不明の重体になってすぐに、奥村社長を切り捨てて春に擦り寄ってきた重役を見て、そう思ったのだと春は語る。
だがやはり、目を閉じた奥村社長は何も答えない。
(──こんなんじゃ、まるで、この病室で眠るために社員や自分の身を滅ぼしてまで働いてきたみてーじゃねえか。)
そんな事を、眠り続ける奥村社長と語る春の姿を見て、一樹は思った。
「……お父様。私……今日、一樹君とこっ、恋人になったわ。誰かに言われたからじゃない。私の意志で、そう決めたの」
後ろで聞いているだけの一樹も赤くなる。話している春は、もっと赤い。だが、春は止まらない。春はこれを話すために、この病室までやってきたのだから。
「私はもう、お父様の言いなりになるロボットじゃない。オクムラ・フーズの上層部の方々も、ブラック企業のレッテルを剥がすために動き出したわ。お父様がいなくなったとしても、もう大丈夫だって信じてる。だから──…
──だから、お父様も生きて、罪を償って……ッ!!」
涙すら流して訴える春に眠る奥村社長が返すのはやはり、残酷なまでの沈黙だけだった。
「ッ!!」
今の言葉は春にとって、これまで言いなりだった自分との決別だ。奥村社長が聞いていなくたって構わない。そうは思っていても、流れ出した春の涙は止まらない。
そしてそんな“弱さ”を、春は恋人となった一樹に見せたくはなかった。一樹がそれを受け入れてくれれば、春はもう2度と怪盗団の一員として立てなくなるから。
「先に……、受付まで戻ってるわ」
「……おう。まあ、なんだ。トイレにでも行って、購買でコーヒーか何か買ってから俺は戻るから」
「ごめんね、一樹君。……ありがとう」
一樹もそれを分かっているから、涙を流す春を見送る。病室を出て行く春の足音が完全に聞こえなくなってから、一樹はポツリと呟いた。
「……身売り同然の政略結婚を強いた父親に対して涙を流すなんて、健気でいじらしい娘じゃあないですか。ねえ社長?」
社長に話し掛けているようで、これはただの独り言だ。涙ぐむ恋人を慰めてやれない鬱憤を、ここで愚痴っているだけにすぎない。
「……正直に言えば、俺は社長が『交通事故』で意識不明の重体
黒幕である獅童と下手人である明智は怪盗団の信頼を失墜させ、更には精神暴走や廃人化の濡れ衣を着せる為に、奥村社長を交通事故に遭わせた。
廃人化ビジネスの利用者だった奥村社長の口封じも兼ねているのだろうが、その計画は成功して怪盗団の世間からの信頼は地に落ちたと言っていい。
「でも、不自然だ。何で明智は社長を直接殺さず、トラックの運転手を精神暴走させてまで交通事故を装う必要があったと思います?
──社長、アンタが改心したからだ」
明智は認知の歪んだ人間……、つまりは認知世界にシャドウのいる人間しか廃人化や精神暴走の対象にできないのではないかと、真は推測していた。
であれば怪盗団がオクムラ・パレスで奥村社長のシャドウと闘っていた時、明智はパレスにいたのだ。怪盗団がオタカラを盗んだあとに、奥村社長のシャドウを殺すために。
「でも、そうはならなかった。……春が、自分の身を売り払おうとしたアンタを助けるために、足を止めたからだ」
核であるオタカラを盗まれて徐々に崩壊するパレスの中で、春は父親の身を心配した。でなければ一樹が、春を手助けして奥村社長のシャドウに肩を貸す事は無かっただろう。
春の献身に絆されたらしい奥村社長のシャドウが心へと帰って行った事で、明智は奥村社長を廃人化させる事は出来なくなった。
「社長は親孝行な娘のお陰で死ななかったんだ。そんな娘が泣いてんのに、アンタ何時まで寝てる気だ? アンタも人の親なら……、泣いてる我が子の肩を抱きしめてやれよ」
言いたい事だけを言って、一樹は病室を出る。オッサンの顔は見飽きた。見るなら、可愛らしい恋人の顔がいい。一樹は扉を開けて、最後に振り返る。
「でなきゃ……、俺が勝手に抱きしめちゃいますよ」
やはり、奥村社長は何も答えなかった。