◆室田昇一
室田昇一は階段を一段一段ゆっくりと登っていく。その動きは同じ20代男性の倍は遅くまるで足が弱った年老いた老人のようだ、そして動きもそうだが活気や生命力と呼べるようなエネルギーもまるで感じられない。
階段で5階ほど上がり自宅に辿り着くとノロノロとした動きでカバンから鍵を取り出すと鍵穴に差し込み解錠し家の中に入る。
中に入るとそこは暗闇だった。家の電気は全て消してあり、外の明かりもカーテンを閉めているので部屋に入らない完全な暗闇、半年前まではこんな光景はあり得なかった。
多少遅くなっても妻が出迎えてくれ、残業が深夜に及び眠ってしまったとしても万が一躓いて怪我をしたらマズいと玄関周りの電気はつけてくれていた。だが今はこの暗闇が日常になっていた。
手探りで玄関周りのライトのスイッチを探し照明をつけ視界を確保し体を引きずるようにしてリビングに向かい、冷蔵庫から酒を取り出しテーブルに座る。
明日も仕事があり万全とはいかなくてもできる限りコンディションを整える為にも風呂に入って早目に寝なければならない。
だがそんな事をしてもどうせ眠れない。それならば酒を飲んで未だに体に渦巻いている悲しみを鈍化させ自然に意識を手放すのに任せたほうがマシだ。
酒は仕事の付き合いで飲むが家で自主的に飲まなかった。中には仕事の鬱憤をアルコールの力で発散するために飲むという同僚も居たが少し前までは理解できなかった。ストレスなら鬱憤なら運動するなりと別の方法で発散すればいい。そもそもアルコールの力で解消しようという発想が極論で言えばドラッグで現実逃避しているのと変わらず、態度が出ないように注意しながらも軽蔑していた。
しかし今なら十二分に同僚の気持ちが分かる。ストレスや鬱憤を晴らそうにも体を動かす気にもならず、したとしても発散できない。アルコールの力が必要なのだ。
「うっ……つばめ……」
昇一は嗚咽をもらしながら今は無き妻の名を呟きながら酒を飲んだ。
半年前、妻の室田つばめとそのお腹に宿した命を失った。
警察から一報が入った時は全く信じられなかった。妻が死んだ?何の冗談だ?だが電話越しに聞こえる警察の声が冗談ではなく事実であることを否が応でも突きつけてくる。
そして病院に行き妻の遺体と向き合う。その顔はまるで眠っているように穏やかだった。その死に顔は動揺と悲しみをほんの僅かに癒してくれた。だが警察から死因を聞き僅かに癒された心は一気に悲しみと動揺を呼び起こす。
死因は失血死、肩口から胸まで深々と斬りつけられていたらしく、刀のような大きな刃物で斬られたのではないかという事らしい。
江戸時代じゃあるまいし現代において斬殺なんてまずあり得ない。何故妻がそんな惨い死に方をしなければならない。警察は遺体が発見されたのがビルの屋上で刀で斬りつけた事から怨恨による殺害と推測し、何か心当たりがないかと訊かれた際は激昂した。
つばめは確かに学生時代は所謂不良少女と呼ばれるカテゴリーだった。だが性格は明るく人当たりもよく、不良と言ってもバイクに乗ってスピード違反するぐらいでカツアゲもせず不良以外にも手を上げてはないと言っていた。決して刀で斬り殺されるような恨みを買う人物ではないのは妻という贔屓目なしで保証する。
そして数日後に妻と子供の通夜と葬儀を行った。葬儀にはつばめの死を悼み多くの人が訪れた。学校時代の友人、走り屋チームのメンバー、バイト先の総菜屋の夫妻、己が愛した妻はこんなにも愛されていたのだと誇らしく嬉しくもあった。
それからは忌引きで10日ほど休み市役所の広報課での職務を再開した。正直言えば妻と子供を失った悲しみは全くと言っていいほどに癒えていなかった。それでも仕事を休めば周りに迷惑がかかってしまうし、つばめが落ち込んでいる姿を見たら「何しょげてんだ」と発破をかけられそうだと何とか気力を振り絞り働いた。
そして広報課の勤務の合間でつばめを殺した犯人捜しをした。日本の警察は優秀ですぐに犯人を見つけてくれると信じていた。一週間が経ち一カ月が経っても犯人を見つけられなかった。それに付随するように全国各地で警察の不祥事が次々と発覚した。
警察に対する信頼は一気に失せた。このままでは一生経っても犯人を見つけられない、自分の手で見つけなければ。
それからは自分なりに情報を集め聞き込みをした。だがズブの素人がやったとしても成果が挙げられず徒労だけが積み重なっていく。それでも歯を食いしばり日々の職務を全うし犯人捜しを続けた。
突き動かす原動力は復讐心だった。本当ならこの手で犯人をこの世に生まれたことを後悔するほど痛めつけて惨たらしく殺したい。
だがそれは現代の司法や倫理観、何より自他ともに堅物と認める気質がそれを許さない。犯人を見つけ司法の手によって裁かれることで復讐は完了する。
そんな日々が半年ほど続き、休日での犯人捜しをしなくなった。復讐心が無くなったわけではない、今でも犯人に対する怒りはくすぶり続けている。それ怒り以上につばめを失った悲しみが大きくなり、身体を動かす気力を奪っていく。
つばめが亡くなった当初は悲しみに耐えられると思っていた。日々の経過が良い意味で心を整理してくれる。それに多くの人々が同じような境遇でも歯を食いしばり日々を過ごしている。自分も同じように全うに過ごせるという自負があった。だが結果は膨れ上がる悲しみに押しつぶされようとされている。このままでは普通の人のように生活できない
今まで堕落をせず悪事もしないで世間に胸を張っていられるように生きていた。人は弱いから道を踏み外す。逆に言えば強ければ道を踏み外さない。自分は強い人間であると思っていたがそれは思い込みに過ぎなかった。
◆◆◆
「すみません、体調が優れないので休ませていただきます」
昇一はあのまま酒を飲み干して気が付けば机に突っ伏し寝ていた。そして目が覚めると手探りでスマホを探し、液晶に写る時刻を確認するとスマホを操作し職場に連絡を入れた。
酒は残っているが仕事を休むほどではなかった。しかし気が付けば職場に連絡を入れて休みを申請していた。小中高から社会人になっても仮病で休まなかった。そして生まれて初めて仮病で休んだ。
目が覚め時刻を確認し仕事に行かなければと体を動かそうとする。だがつばめを失った悲しみが押し寄せ纏わりつき体を動かす体力と気力を根こそぎ奪っていく。職場に連絡したのは残っていたのは堅物としての最後の良心や責任感を振り絞ったにすぎない。もう何もしたくない。
それからは只管酒を飲み続け気が付けば時刻は17時を回っていた。重い体を叱咤し散らかった床のゴミを踏まないようにしながら玄関に向かう。冷蔵庫にはもう酒が無い。この悲しみを一時的に紛らわせるには酒の力を借りるしかない。
千鳥足で歩きながら今後を考える。もう仕事をする気力は無い、このまま無断欠勤で依願退職、その後は悲しみを忘れるために酒を浴びるように飲み続ける日々だろう。だが今後の予想はつばめを失った悲しみで塗りつぶされる。
エレベーターでマンションの玄関まで降りて近場のコンビニ向かう。数分程歩きコンビニの入り口に着くと道を塞ぐように目の前に誰か2人が立っていた。1人はセミロングでクセッ毛の無造作ヘアーの男、1人はポニーテールの女性、両者制服を着て背格好や容姿からして高校生ぐらいだろう。すると男と女がこちらに近づいてくる。
「はじめて……じゃねえな。アタシは生島花奈、つばめの従妹だ。それでこっちが
◆殺島飛露鬼
放課後に花奈と2人でハイエンプレスの
そいつは20代ぐらいで酔っ払いのようにフラフラと歩いている。フリーターか何かだろう。そしてその目には既視感があった。目の光を失い淀み切った目、あれは困難の日々に心が折れた『大人』の目だ。
「知り合いか?」
「まあな、アタシが前に居た
「ああ、
「そのリーダーだったつばめの夫だ。一度乗り込んだ時に見た顔だ」
「よく覚えてんな」
「真っ当に生きろって説教かましてきたんだよ。忘れるかよ」
花奈は悪態をつきながら唾を吐く。当時は相当にムカついたのだろう。しかし荒れている時の花奈に説教するとは
すると花奈はついてこいと言うと肩で風を切らしながら男の元に向かい、慌てて着いていき男の目の前で止まる。
「はじめて……じゃねえな。アタシは生島花奈、つばめの従妹だ。それでこっちが
「どうもっす。殺島です」
男はつばめという単語にピクリと体を動かすがそれ以外は反応せず、ぼうっと目の前を見ている。その態度と酒臭さが癪に障ったのか花奈は明らかに苛立ちを募らせる。
「お前確か働いてるよな?それなのにこんな時間から酒なんて良い御身分だな。アタシより不良じゃねえか」
花奈は挑発的な声色で相手を煽る。しかし相手は全く反応を見せずそれがさらに花奈を苛立たせる。
「赤ちゃんを守れなかった
「つばめをバカにするな!」
男の目に怒りが宿り花奈に掴みかかろうとする。その前に左手で男の手首を掴み、右手で花奈の右手首を掴んだ。
「
男に謝りながら花奈を諭す。男は怒りに身を任せ襟首を掴もうとした。だが放っておけば花奈が掴みかかろうとする指を掴みへし折っていた。
男は自分ではなく妻を侮辱されたことに怒りを示した。それだけ妻を愛していたのだろう。それに愛する者を侮辱された怒りは多少なり理解できる。これは花奈に非がある。
「つばめは最高の女性だった!俺の全てだった!これからずっと幸せな日々を3人で歩むつもりだった!なのに何で死んだんだよ!俺を1人にしないでくれよ!」
男は堰を切ったように泣き叫ぶ。その異様な姿に行きかう人々は目を逸らし、コンビニ店員も一度様子を見て関わりたくないと顔を顰めながら店内に戻る。
「んだよ……、つばめの奴、赤ちゃん守れねえどころか、男すら悲しませやがって……どんだけ
花奈は頭をガシガシと搔きむしる。過去に慕っていた女性が現在進行形で周りを不幸にしている。それに腹立てているのが手に取るように分かる。
「おい、あんた!うちのチームに入れ!
花奈は唐突にチームに勧誘する。その唐突さと動揺した様子は幼子が泣いているのでやり方は分からないがとりあえず宥めようとしている親戚の大人のようだ。
普通の大人なら玩具やお菓子で子供をなだめようとするが、花奈にとって暴走がそれだった。確かに多くの人を勧誘し、暴走の楽しさに目覚めさせ抱えている悲しみや辛さを癒した実績はある。しかし言葉がダメだ。
「そんなもんでつばめが死んだ悲しみが癒えるか!」
「そんなもんだ!?てめえ
男は妻を軽んじられた事に怒り、花奈は暴走を軽んじられた事に怒る。このままではお互いがお互いの怒りを注ぎ合い、花奈が男をボコボコにする未来がありありと見える。それは良くない。
「お兄さん、家すぐそこ?」
花奈を宥めながら男の肩に手を回し友好的に語り掛ける。男は戸惑いながらすぐ近くと答える。
「会ったことねえけどさ、お兄さんの妻が
この提案に両者は驚きと困惑の表情を浮かべる。男は動揺し花奈は何言ってんだと声を荒げる。それを宥めながら男に交渉する。
男への憐みかつばめの尻ぬぐいか、理由は分からないが花奈はこの男を暴走によって救いたいと思っている。しかし今の花奈には無理だ。
この男は大人の生活に折れた。その辛さや苦しみや退屈さは大人にならなければ分からず、大人ではない花奈には永遠に分からない。この場で分かるのは折れた大人である自分だけだ。
まずは打ち解けてから提案する。打ち解けるには男の妻について話を聞くのが効果的だろう。暫くすると男は分かったと言いながらコンビニに入り大量の酒を買いこみ、来た方向の逆を歩いていく。
殺島は男の後についていき、花奈も渋々といった様子で後についていく。