・市内、某所。
既に時刻は夕方に近く、すっかり黄金色に染まった大通り一帯は、日没後に向けての転換期とも言える賑わいを見せていた。
定時から少し時間が経っている事もあるだろうか、勤務明けのサラリーマンが夕食の時間に間に合おうと歩道をせわしく歩いていく。
その横を買い物帰りらしい主婦が連れている子供が逸れない様に心配そうにしながら通り過ぎていく。
寄り道をしているらしい中高生等が通りに影を伸ばし、お互いに手を振って帰路に着いていく。
車通りも一団と増し、通り沿いのレストランも次第に賑わいを見せ始めて列が生まれ始めていた。
誰もが今日も平凡な毎日、他愛ない日々の一つとしか思わず、列を待つ人の為に設置されたテレビが二日前の隣町の倉庫街のリポートを流しても余り気にした様子は見られないようだ。
口煩そうな老婦人が画面を睨み、「政治が荒れるから治安も悪くなるのよ」とやらと呟くが、誰も相手になどしていない。
そもそもそのリポート自体も大した情報を示してないし、ましてそれが生物兵器による騒動などと気付けるような勘の良い人間も居ない。
とは言え、仮に気付いて騒いだとしても、まず陰謀論好きなお騒がせだと軽蔑されるのが落ちだし、他人事だと黙っているのが大多数の行動だろう。
“雉も鳴かずば撃たれまい”というやつである。
そんな風な人間ばかりだからだろう、レストランの向かいの小さなビルの屋上に突然奇妙な人影が生まれても、誰もそれに気付く様子はなかった。
「鹿目さんによれば美樹さんはまだ家に居ないみたいだし、本当に何処に行ったのかしら……」
黄色をモチーフとしたオペラの衣装めいたフワフワの服を纏い、頭のベレー帽を片手で押さえる少女、巴マミは現在日課のパトロール中である。
宛ら“中世の女銃士”に見えなくもない魔法少女の奇抜な姿を隠す事もなく屋上に佇み、少しだけ結び方が変化した髪を風に靡かせながら彼女は周囲を隈なく見渡す。
そして、少し離れたビルの上へ一気に跳躍、降り立った後に再び周囲を走査してまた移動する。
後輩のまどかと別れてから、ずっと彼女はこれを繰り返していた。
とは言え、普段のパトロールならソウルジェム片手に普通に歩き回っていれば良いのである。
この道ではベテランである彼女が、態々貴重な魔力を使ってまでこのような事をしているのは、つい昨日突然魔法少女の契約をし、直後に消息を絶ったさやかの捜索の為であった。
“「ごめんなさい、マミさん。あたし、暫く勝手に動きます」”
その言葉を最後に、昨日さやかはマミ達の前から姿を消した。
今思い返しても、強い意志が篭った言葉だったと彼女は記憶している。
――魔法少女の危険性は伝えた筈だし、だから本当は応援してあげるのが「先輩」なのだろうけど……、暁美さんの件もあるし、此処で一人で居られるのは不味いのよね――
此処での「件」とは勿論、ほむらの遭遇した異分子、“エーワックス”の事である。
マミから見ても相当な実力者であるほむらを何の抵抗もさせずに無力化した存在と、万が一にもさやかが出くわそうものなら、戦闘暦の浅い彼女にはまず勝機は無い。
まだ未熟な後輩の身を守るのもまた「先輩」の務め、ならば今マミがすべきは速やかに彼女を見つけて保護する事だ、というのが今の彼女の考えだった。
だが、彼女にはどうしても捜索に集中し切れない要因があった。
建物の上を次々と跳び回りながら、彼女は悩ましそうに唇を歪める。
――暁美さんには話せなかったけど、「彼女」が原因なら寧ろ……でも、この事ならまだしも私たちの事に巻き込ませる訳にはいかないし……――
実は、マミはほむらにも、そして竜二にも言っていない秘密があった。
美樹さやかの失踪、その「原因」についてならある程度「心当たり」が彼女にはあったのだ。
それが正しければ、その「人物」の元にさやかが居るなら、マミとしては寧ろ心強い状況となるのだ。
何故なら、「彼女」もまた「彼」と同じ道の「先輩」だからだ。
――まあ、確信が持てない以上は何とも言えないし、まずは美樹さんにあって事情を聞かないと……――
そんな事を思っていた時だった。
跳び回っていた彼女の視界に、下の小道を歩く“懐かしい人物”の姿が入り込んできた。
「あら?」
余りに予想外過ぎて、思わず驚きの声を上げる。
それを聞いたか否か、相手の方も此方を直ぐに此方を見上げ、「うげ」という言葉が聞こえてきそうな程露骨に表情が不快そうに変わる。
マミも向こうも足を止め、建物の上と下で対峙する。
〈久しぶりね、もう一年ぶりかしら〉
テレパシーで相手に伝える、その口調はかなり威圧感の篭ったものだ。
それも当然、知り合いとは言え目の前の人物は「ほむら」並みに警戒すべき存在なのだから。
対して、相手の方は暫くじっと此方を見上げていた後、不意にこう返してきた。
〈そこで待ってろ。話したい事がある〉
随分と上から目線な言い方だったが、マミとしては寧ろ、話をしたいという彼女の態度が気になった。
てっきり「縄張り荒らし」にでも来たのかと思ったが、どうも向こうに争う気はない様である。
ひょっとして、彼女の方も何かあったのかもしれない。
一瞬躊躇した彼女だったが、一先ずパトロールを中断して話を聞く事にした。
了解の意を伝えると、相手は一旦建物の脇の路地に入り込み、直後に彼女と同じ建物の上、対峙する様な位置に跳び上がってきた。
その姿は先程下に居た時とは全く異なる、だがマミと系統の似たコスチュームに変化していた。
それを見て、飽くまで威圧は解かないままマミは口を開く。
「さて、話を聞かせてくれるかしら。言って置くけど、余り時間は取れないから」
「“消えた後輩”がそんなに心配かい? ま、大事な戦力が居なくなるのは一大事だからな」
「……何でそれを貴方が知っているの」
口調が更に張り詰めた物へと変わる。
対して、相手の方は大して動じた素振りを見せず、「ハッ」と嘲る様に嗤って続けた。
「言っとくけど、あたしはアイツの行き先なんか全然知らないぜ。興味も無いしな。……んな事より、アンタに言っときたい事があるんだよ」
マミが鋭く彼女を睨みつけた。
怒りと疑念が今にも漏れ出しそうなその様子を明らかに感じながら、だが相手は余裕のようなものすら醸し出していた。
「何、大した事じゃない……あたしの獲物がコッチに逃げ込んじまってね。アンタも、アンタの可愛い後輩も、あたしの邪魔すんなよって言いたかっただけさ」
「……他人の縄張りに勝手に踏み込んでおいて、失礼にも程があるんじゃないの」
「だったらやるかい? 別にあたしはそれでも良いけど。ケンカなら何時でも買うぜ?」
そう言うや、彼女は右手を一振りし――信じられない事に、自身の倍以上の長さの槍を虚空から呼び出してその手に構える。
それに反応して反射的に身構えたマミだったが、直後に構えを解いて無防備になった。
「……一つだけ聞いて良いかしら」
「何さ?」
「その獲物を仕留めたら、貴方はどうする気なの?」
「……さあね。特に考えてないけど、此処は面倒そうだし別のヤツの所にでも行くかねぇ?」
「……そう」
返答を聞くや、マミは彼女に背中を向けてしまう。
いぶかしむ様な表情を見せる彼女を余所に、マミは淡々と続ける。
「なら、その獲物とやらは好きにして良いわ。あの子達にも伝えておく」
「ふぅん? 随分とアッサリ引くもんだね」
「それと、一応警告しておくわね」
そこで、マミは顔だけ彼女の方に振り向く。
その表情の有無を言わさぬ迫力に、流石の彼女も息を呑んだ。
「この街に長く留まるのは止した方が良いわ。近々“大事”が起こるかもしれない」
「あん? ……大事だぁ?」
「そう、大事よ。だから貴方に構っている時間は無いから。なるべく早く出てって」
「んだぁ? 威嚇のつもり……って、おい!?」
彼女が慌てて引きとめようとするのを無視して、言いたい事を言ったマミは背を向けてその場を去ってしまう。
その場に一人取り残された彼女は、苦々しそうな表情で足を鳴らし舌打ちを打った。
『もうチョット構って欲しかったケド、予想以上に釣れなくて残念、って言った所かなぁ?』
「ッあ!?」
いきなり至近距離で響いた声に驚いて、彼女が反射的に身構えて周囲を見渡す。
と、その声の主は直ぐに見付かった。
『やっほ、純情少女の佐倉杏子ちゃん。びっくりさせちゃってゴメンネ~』
「……何だテメェは?」
思わずそう呟いた彼女――佐倉杏子は、驚愕の様子で彼女の顔を見据えた後、ゆっくりとその視線を“上げていく”。
それに従って、その視界は白髪碧眼の少女の可憐な顔から、薄い青色のワンピースを纏う未成熟な胸、腹、華奢な腰、そして素足のままの足先へと“順を追って”捉えていく。
『貴方には名乗ってあげる……、私の名前は“ユイ”。覚えておいてね』
そう言うや、少女はその場でグルリと「180度回転」し、杏子を見下ろす形で「静止」する。
その足の下には杏子が上ってきた路地裏がある――つまり、足場になる物は何も無い。
少女は宙に浮いていた。
異様な状況に本能的な危険を感じた杏子は、何時でも突きを繰り出せるように槍を両手で構える。
「……ケンカ売ってる気なら買うぞ。あたしは機嫌が悪いんだ」
『イヤ~コワいコワい、折角寂しそうな構ってちゃんをマミちゃんの代わりに私が構ってあげようと思ったのに~。……少しは嬉しい顔して良いのよ?』
「殺す!!」
ユイの挑発じみた言動が逆鱗に触れたのか、彼女の胴の中心目掛けて杏子は素早く突きを繰り出す。
魔法少女としてもかなりのパワー型である彼女のそれは、最早弾丸並みの速さで鉄塊が飛んでくるのと大差ない。
だが、一方のユイはまるで慌てた様子も無く、素早くその穂先を片指で指した。
すると、一般人なら下手すれば胴体が千切れ飛ぶかもしれないその怒りの一撃は、だが彼女に届く直前でまるで縫い止められたかの様にピタリと静止してしまった。
「なッ!?」
『アブないアブない。いきなり刺し殺そうとするなんて酷いよ~』
慌てた杏子が槍を引き戻そうとするも、今度は一ミリも戻っていかない。
それどころか、本当にその場から槍は少しも動かなくなってしまっていた。
焦った杏子は槍を動かそうと虚しい努力を一頻り続けた後、そこで漸く槍全体がほんのり“青色”に光っているのに気付く。
前を見上げると、日が落ちた事によって周囲が暗くなったお陰で、ユイの周囲一帯全てが本の僅かに青い光を放っているのに気付いた。
「……何をしやがった」
『企業秘密です。ってまあ、そんな事は置いといて』
適当に返したユイは、穂先に向けた指を真上にクイッと上げる。
すると、それに合わせて槍がユイの頭上まで素早く移動しようとする。
杏子も抵抗しようとしたが、堪えるどころか逆に持ち上がった槍に吊り下げられてしまった。
と、今度は杏子の周囲に青い光が集結し出し、宙に浮いたその身体に素早く纏わりついた。
身を捩って振り払おうとするが、今度は身体自体が全く動かない。
まるで土中に埋められたかのような、凄まじい拘束力だった。
『あの子はあんな釣れない態度をしてたケド、私は興味あるんだよねぇ』
抵抗が無駄だと悟ったのか、ぶら下がったまま此方を激しく睨む杏子の様子を腕を組んで眺めながら言う、ユイの表情は相変わらずの涼しい物だ。
杏子としては今すぐにでもその余裕ぶった顔に一撃を叩き込んでやりたかったが、現状では相手の力がまるで読めない以上、下手な真似はできない。
まあ、どうせ分かっていたとしても今の現状では指一本動かせないのだが。
強い敵意を込めた視線を送りながら、杏子は続きを即した。
「……何にだよ」
『貴方の追ってきた「獲物」って奴だよ。私はそれが知りたいの』
「お前には関係ねぇだろ。教える義理も無い」
『でもあの子達には教えたかったよね? 本当は』
その言葉に一瞬きょとんとした表情を作った杏子は、直後に吹き出して笑い出す。
そして、明らかに嫌味を込めた言い方で答えた。
「さっきのやり取り聞いといて、一体何処からそんな言葉が想像出来るんだよ。妄想も大概に――『本当に、貴方がその獲物を狩りたいならさ』――あん?」
『本当に狩りたいなら、あの子達を“ぶつけて”から漁夫の利狙えば良いじゃん。貴方ほどのベテランがてこずる相手なんでしょ? だったらそうした方が得策じゃない?』
「……、」
不快そうに杏子は少し俯いて押し黙る。
ユイの方もその反応に気付きつつも、特に反応を見せずに淡々と続ける。
『まあ、「私の獲物に手を出すなー」って事なら別なんだろうケド……、とすると最後の態度が気になるしなぁ。……アレかな、「あの子」が勝手に下手打って犠牲になるのがイヤだったのかな?』
「根も葉もねぇ事を勝手にほざいてんじゃねぇよ。単にウザイのにチョロチョロされるのが鬱陶しかっただけだ」
『ふーん、ま、そんな事は如何でも良いけどね』
やれやれと言った風に頭を振ると、ユイは改めて杏子の方を見る。
『さてと、じゃ、聞かせて欲しいのだけど――「……さっきからさぁ」』
ここで、杏子はユイの言葉を鋭く遮った。
彼女は顔をゆっくり上げると、きょとんとしたユイを激しく睨みつける。
「随分とあたし等の事知った様にペラペラ話してるけどさ……、その割にさぁオマエ、一つ大事な事を忘れてねぇか?」
『……はて?』
首を傾げて心底から不思議そうな表情を作るユイ。
全く心辺りがございません、とでも言うかの様な態度に神経を逆撫でされ、杏子ははち切れんばかりの怒りを堪えるかの様に歯軋りをする。
だがその表情は、無理やりにでも笑みを作ろうとしている異様に気迫の篭ったものだった。
「あたしが「魔法少女」の大ベテランって事知ってるんだったらさぁ……」
此処で漸く、杏子の態度が単なるブラフじゃない事を悟ったのか、ユイの表情が僅かに引き締まった。
何処を見ているのか分からないその碧い瞳が、周囲を走査するかの様に動き回る。
『……槍の変形機構で不意打ちでも狙ってるつもりかな?』
「ほー、そこまでは知ってんのか。だけど甘いねぇ」
そう言い返すと同時に、と言う事は今の動きは周囲の地形でも探っていたのか、と杏子はユイの意図を予想する。
大方、水のタンクでも破壊して怯ませてくるのをユイは予想していたのだろうが、彼女の反撃は全く異なる物だった。
「本当に……あたしをナメ過ぎなんだよテメェはァァ!!」
杏子が怒りに任せて咆哮すると同時、彼女がぶら下がる槍の柄の方に変化が起きた。
全く予兆も無くそこから赤色の鎖のような物が複数出現すると、蛇の様に撓ってユイの方へと素早く伸びて行く。
それをユイが自覚した頃には既に遅く、鎖は彼女の肢体に絡み付いてその動きを硬く封じ込めた。
『ぴゃぁッ!?』
想定外だったらしい攻撃にユイが悲鳴を上げて拘束を解こうともがくが、彼女の反撃はそこで終わらない。
その鎖から銀色の小さな突起が次々と生じ始めたのを見て、何かを悟ったユイの顔が等々蒼白になった。
『……えっと、まさかの米帝方式ですか?』
「知るか」
現実逃避とも思えるユイのうわ言をばっさりと切り捨て、杏子は己の
直後、銀色の突起は急激に伸び始め、杏子の持つ槍と全く同じ形となって更に伸張する。
その鋭い穂先の先には、拘束されたユイの華奢な胴体があった。
避けられる筈が無く、そもそも避けられる様な余地を彼女が残す訳が無い。
複数の槍はユイの胴体を目掛けて殺到し、一斉に貫き、抉り、脇の辺りで上下に二分してしまう。
悲鳴は上がらなかったし、上げる暇も無かった。
断面から赤い液体を大量に噴出しながら、拘束が解けたユイの身体が路地裏に落ちていく。
その呆けた様な表情が妙に鮮明に杏子の目に写り、それが酷く滑稽に思えた。
同時に、彼女を戒めていた奇怪な力が嘘の様に消え失せ、そのまま屋上にスタリと着地する。
「……ざまぁみろ」
軽く腕を鳴らして調子を確かめながら、路地裏を見下ろして彼女は呟く。
もう大分日が落ちてしまったからか、その位置からは其処に転がっているだろう少女の遺体は確認できない。
というか、本当にあれは何だったのだろうか。
マミの相棒が失踪したというのも、何か関連があるのだろうか。
――アレがアイツが言ってたイレギュラーとやらなのか? だが、アイツは同じ魔法少女だと言ってたし、魔力を使ってた気配は無かった……――
一度キュウベェの奴に問い詰めてみるか、とまで考えかけた所で、彼女は忌々しそうに首を横に激しく振る。
マミの事など自分とは何の関係もない事だし、そもそも今の自分には別の目的がある。
後の事は後で考えれば良い、等と思ってその場を去ろうとして、その動きが不意に止まった。
何かがおかしかった。
最初に違和感を感じたのは「耳」だった。
ユイとの対話が終わって、言葉に耳を傾ける必要が無くなったからこそ気付けた。
周囲一帯からサラウンドの様に響いてくる声が消え、静寂に包まれた事でその「異常」を認識した。
余りに「静か過ぎる」という事に。
車の駆動音も、通りで人が喋る声も、何もかもが一切消えていた事に。
本能的不安に駆られて杏子は周囲を見渡す。
時刻的には夕食時に近いとは言え、近くの通りの大きさからしても今ぐらいなら慢性的に車が通る程には交通量がある筈だと言う事は、一般社会に若干疎い杏子にも流石に予測できる。
なのに、ここから見渡せる限り、通りには車一台どころか人一人すら見えない。
遠くから聞こえて来る筈の街の喧騒すら、まるで此方に響いてこない。
まるで、突然街から人が消えたかのような静けさだけが辺りを埋め尽くしていた。
自分だけが世界に取り残されたかの様に感じ、思わず杏子は槍を持ったその姿のまま通りに飛び降りてしまう。
だが幸か不幸か、それを咎める者など一人も居なかった。
この通りだけでなく、その付近の建物にすら人影が無かったからだ。
列が出来るほどに賑わいを見せていたレストランでは、窓越しに食い掛けの食事がテーブルに残っているのが見える。
洋服店では、服を入れた買い物かごが床に置かれたまま放置されている。
通りを走っていたらしい車は、鍵が残ったまま道の真ん中に乗り捨てられている。
そして、その座席には電源の切れた携帯電話がそのまま投げ出されていた。
「……一体、これは……?」
幾ら摩訶不思議な世界を見てきた彼女でも、流石にこれには言葉を失う。
ホラー映画のような恐ろしい状況を、絶句したまま暫し呆然と眺めていた。
――……アイツか? いや、あの状態で生きてるとは思えない。となると、例のイレギュラーか、はたまた「アレ」が……――
何とか目の前の状況を整理しようと、杏子は必死に考えを巡らせる。
そして、何気なく横を向いたときだった。
その方向には小さな路地裏があった。
エアコンのラジエーターや雨水の排水管が道脇に設置されているものの、一応人が通る事を考えてなのか割と丁寧に舗装されている。
とは言え余り清掃はされていないのか、タバコの吸殻等が良く見ると隅の方に落ちていたりする。
だが問題は其処じゃなかった。
その道の中央に“ある筈の物”が何処にも無かった。
「ユイ」の遺体が、血痕一つ残さず消えていたのだ。
「ッ!!」
杏子は素早く槍を構えて周囲を見渡そうとした。
だが、実際は本の数センチも腕が動いたか否かという辺りで、何かが弾け飛ぶよう轟音が響くと共に骨の髄を震わす様な衝撃波が彼女を襲った。
ボロ雑巾の様に空中に弾き飛ばされた彼女は通りに止められた車に背中から激突し、アスファルトの地面にうつ伏せに倒れ込む。
その表情は驚愕と苦痛に彩られ、その体は危険なレベルの痙攣を起こしていた。
まともに筋肉が動かない身体で何とか息をしようとして、咳き込みながら大量の血を吐き出す。どうやら内臓をやられている様だ。
それでも焦点の定まらない視界で前を見ると、ボンヤリとだが白い人影が見えた。
――畜生、しくじったのか……――
悔しそうに顔を歪めようとして、筋肉が動かず顔が引き付けを起こす。
一方の人影の方は此方に何か喋っていたようだが、聴覚にも異常があるのか彼女にはまるで聞き取れない。
最早、杏子は八方塞がりに陥っていた。
どうする事も出来ずにそのまま人影を見ていると、人影は徐に右腕を上に掲げた。
すると、何か青い光が其処に向けて一斉に集結していくのがおぼろげに見えた。
向こうは杏子に止めを刺す気らしい。
此処で終わりか、と思いながら、無力さを感じながら彼女は身動ぎ一つせずにその光を眺めていた。
青い光は急激に強さを増し、最早腕の原型すら見えなくなっていく。
神話の一ページを刳り貫いたかの様なその光景は、確実に此方の命が奪われるという事を彼女に悟らせると同時に、魔法ではないとは思えない程に奇妙な神秘性を帯びていた。
――まぁいっか。最後にしちゃあ、良い眺めだしな……――
それを見て杏子が思うや、人影がその右手を地面に叩き付けた。
其処を起点に青い光が放射状に広がり、衝撃波となったそれは直ぐに彼女の体に到達する。
そして再び彼女の体は激しく揺さぶられ、今度はその意識さえも掻き消した。
「……佐倉さん?」
少し離れた路地裏で、巴マミが背後に振り向いて呟く。
その方角は、先程杏子と会った場所が存在する方角である。
そして同時に、その方角は少し前に“腹の底に響くような音”が伝わってきた方角であった。
同時に“奇妙な地震”と“周囲の電灯が一斉に点滅した”現象を引き連れてきた音がした方角であった。
どうも、嫌な予感を彼女は覚えていた。
何か杏子の身にあったのではないか、と不安で仕方が無いのだ。
――それに、そうでなくてもひょっとしたら美樹さんの事かも知れないし、行って確認する価値はあるわね……――
そう思い立ったマミは、再び進路を其方に取って移動し始める。
「……行きましたよ」
「そうですか」
その直後に路地の先の角からマミを見ていた少女が傍らの女性に報告し、その女性が答える。
金髪を片側だけサイドテールに纏めたその女性は、碧眼を僅かに細めながら呟く。
「……今の振動、予想よりも手間取ったと言う事ですか」
「ミラさん、今の奴が何なのか知ってるんですか?」
「彼女の力の一つで……貴方が超えるべき力の一つです」
少女の問いに端的に答えた女性は、少女から少し距離を取って立ち止まる。
一方少女も女性と向き合うと、その身体が青い光に包まれるや、中学校の制服から白いマントを羽織った青い衣装に早替わりして、手に持った長剣を真っ直ぐ構える。
その様子に満足げに頷いた女性は、静かに口を開いた。
「続きを始めましょう、美樹さやか」
騒乱の予感……?