同〇八二五 船渠 若葉
風呂の近くだと、通風筒の中も蒸し暑いな。だが、サウナは健康に悪くない。ここの鼠たちもきっと健康だろう。
ようやくか。朧が出て行った。ドックが空になったことを確認。よし。通気口の蓋、四〇センチ四方ほどの金属製の網を外す。ここの警備はつくづくザルだ。提督に、建物の改修を具申しておこう。だが、それは木曾からの任務が終わってからだ。
なにより、用事を済ませなければ。
蓋の裏側に指を嵌め、通気口に身体を滑り込ませると、フタにぶら下がる形になる。そのまま体を揺らし、元あった位置にはめこむ。改めて下を確認。ゆらめく水。四メートルくらいか。
よし。
まっすぐ前を向き、金網から手を離す。
タイルの模様が上に流れる。すぐそこは水面。足に水を打つ感覚。ここだ。
膝を曲げ、下向からの衝撃を受け流し、前への推進力に。ぶら下がりも着地も完璧だ。そういえば、子日はぶら下がりは最強の──
決まったと思った瞬間、衝撃が頭を走る。痛いぞ。
ずぶ塗れで立ち上がり、足元を見る。浴槽の端、皆がいつも座っている段差か。にごり湯だと見えないから困るな。見ていると、髪から滴る水滴から赤色が広がっていくのが分かる。
血。
若葉にも血が流れていたな。切れたところも痛い。こうして、自分が生きていると実感できるから、たまには傷つくのも、悪くない。ここが風呂というのも不幸中の幸いだ。時機をつかんだ負傷からそのまま入渠。奇跡的な流れだ。そのまま、服をタイルの床に放り投げる。
そうだ。早く用事を済ませてしまわなければ。ポケットから、アレを取り出す。いろいろあったが、なんだかんだ無事だな。
衣はくすんだ色になっているが、どこもはがれてはいないし、尾も欠けていない。
「お前も疲れただろう。だが、それも悪くないぞ。疲れてこそ、風呂の良さが分かる」
ねぎらいの言葉をかけつつ、手で掬ったお湯をかける。
精神的疲労・肉体的疲労の回復。治癒スピードの向上。だが、この風呂の力はこんなものじゃない。床に散らかした服から、ジャケットを取り出し、胸ポケットを探る。
これだ。
注射器に入った、緑色の薬剤。高速修復材だ。本来、提督が管理するものだが、手に入れる方法はいくらでもある。
それを……静脈はどこだ。
まあいい。中骨に注入するか。
一番入れやすそうだし、入れて意味がありそうなのは、ここだ。
ぐりぐりと押し込み、注入する。ピストンが押せるということは、修復材が入っているということだ。これでこいつもまだやれるだろう。
その時、風呂の引き戸が開いた。
まずいぞ。だが、ここには隠れる場所が無い。万事休す。いや、裸一貫、徒手空拳でも戦うほかない。条件は相手も同じだ。遅れは取らない。今は仲間も居るからな。
ドアまで全力で走る。顔が割れる前に倒せば、問題ない。
「姉さん……?」
まさか。だが聞き慣れた声だ。間違えようもない。
「なんだ、初霜か。驚かせるな」
「なんですか、それ」
アジフライがどうかしたのか。そう答えようと持ち上げると、ビチビチと暴れている。
「アジフライだ。まあ、揚げてあろうが魚だ。水から出したのがよくないのだろう」
浴槽に投げ込むと、アジフライが元気に泳いでいく。
「ちょっと、何してるんですか。隠すにしてもお風呂に捨てることないでしょう」
「初霜、お前は何か勘違している。あれは捨てたわけではないぞ」
説明しても、初霜は聞く耳を持たない。
「そもそも、お風呂で食事なんて行儀が悪いですよ。まだ寝足りないのですか?」
「睡眠時間は短いが、今日は二時間も寝たぞ。問題ない」
「問題ないわけありません! とにかくお風呂、浸かりましょう」
腕を捕まえてくる初霜。
「落ち着くんだ初霜。まずは掛け湯だろう」
「あ、私ったら……」
思い出してみれば、初霜はこんなことばかりだ。真面目なのに、いつも若干ずれている。若葉の服が床に散らかっているのが気にならないのか。
ん、足元に何か触れるな。
「なんだ、アジフライじゃないか。別に驚くことでもない」
つまみ上げると、掛け湯を済ませた初霜が小走りで寄って来た。
「どういうことなの……!? 水に浸かってたのに、パン粉が湿ってないじゃない! このお風呂にこんな効果があったなんて……。間宮さんに教えてあげたら、きっと大喜びだわ!」
同〇八三〇 工廠 朧
カニさんのことは、大分楽観できるようになった。明石さんに任せれば、大丈夫。多分。
そう思えるようになった筈なのに、やっぱり心配で。
工廠の扉。トレーニングで掛ける負荷より、ずっと軽いはずなのに、今は、なんだか、重い。鉄の重さ。シャフト。カニさん。
あのとき、なんで負荷を上げようとしたんだろう。やっぱり提督が居たから? 提督に、あたしを強く見せたくて? そんな見栄、張ったところでどうなるの? そもそも、そんなことのために鍛えてたんだっけ、あたし。
でも、くだらない見栄のせいで、カニさんは死んじゃったかもしれない。そんなの、納得いかない。そしたらきっと、筋トレなんてもちろん二度としないし、艤装も背負えないと思う。カニさんが好きだから。ずっと一緒に居て、あたしのことは何でも知ってる。
カニさん。
考えてみれば、あたしに戦えと言わないのはカニさんだけだった。艤装もあたしも、戦うために生まれて、戦うために使われて、もっと強くなって、もっと戦うために生きている。
カニさんは違う。ずっと艤装に住み着いてるけど、戦おうとはしないし、戦わせようともしない。そこに居るだけ。
だけど、それでいいんだ。戦わなくてもここにいていい。それを教えてくれるために、カニさんはあたしと一緒に居るんだ。
はやく、はやく迎えに行かないと。
扉を開けると、作業台にカニさんが乗っている。
「カニさん!」
カニさんは、相変わらずぐったりしている。
「中は生きてるみたいなんで、殻さえ治れば大丈夫だと思ったんですがね……」
確かに、カニさんの殻はパテでヒビが埋められて、元通りになっているように見える。でも、今はそんなことより。
「中って。やっぱり、カニさんの甲羅は艤装なんですか」
「勘でしかありませんけどね。ちょっと、耳を当ててみてください」
促されるままに、カニさんに耳を当てると、確かに鼓動が聞こえてくる。ずっと一緒にいて、心臓があることすら知らなかったけど。
「まあ、それでも蟹自体はご覧のとおりですし、違ったのかも……」
明石さんすら弱音を吐いている状況に、あたしにできることなんかないような気がしてくる。でも、諦めるわけにはいかない。
「嫌です。カニさんが居なくなるなんて」
「そうやって、生きてはいるみたいですから……。艦娘のデータは日進月歩ですから、そのうち蟹も修理できるようになるかもしれません」
そのうち。そのうちってどれくらい先なんだろう。一年か、十年か、もっとか。
でも、いずれにせよ。
「あたしは次の出撃が最後かもしれない。だから、カニさんと一緒に居る日が一日でも減るのは嫌なんです」
「……方法なら、実は無いでもない、です」
「何ですか。何だってします」
「蟹を装備だと誤認させて、妖精さんたちに修理してもらいます」
「誤認? 蟹が装備じゃないことくらい、見たらバレちゃいませんか」
「本当のところ、装備の判定ってとても曖昧なんです。ほら、傘とか、眼帯とか、刀とか。何なら直してくれて何なら直してくれないって、よくわからないじゃありませんか」
それはそうだけど、だからって何ができるのか。何のしようもない。
「あたしがボロボロにやられて、装備一式と一緒にカニさんを預ける」
「いや。もっとごり押しです」
と言って、明石さんは、灰色の脂のようなものが入った瓶を差し出す。
「さっきとは別のパテです。樹脂のほかに、高速修復材と、装備や艤装を加工するときに出た粉が入ってます。素材で識別しているとしたら、これでいけるんじゃないかと」
……明石さんの目論見はわかった。でも、それが通るなら。
「妖精さんって、目、見えてないんですか。カニさんの形なんてすぐ見分けられそうなのに」
「多分、逆です。……私達には見えないものまで見えているんじゃないかと。つまり、艤装と一緒に修理されるものは、光って見えるとか……これまた仮説ですけどね。
よくわからないような、わかるような。
「あの身体の大きさ、つまり目の大きさで、私達より遠くが見えるのすら驚異的です。妖精も、艦娘同様、謎だらけなんですよ」
話しながら、ヘラを渡してくる明石さん。
「一緒に塗りましょう。まずヒビを埋めて、それから全体に塗りつければ、ちゃんと装備に見えて……くれるといいなぁ」
自信があるのか、緊張を解こうとしているのか、冗談めかして言う明石さん。でも、そんな一か八かみたいなこと、あたしはしたくない。少しでも可能性を上げるために。
「形も装備にしましょう」
「……つまり?」
「これを……」
パテをヘラで山盛りにすくう。明石さんがポカンとしてるけど気にしない。
カニさんの全身が埋まったのを確認してから、全体が円盤になるように形を整えて……。
「探照灯です」
「……それは無理があるかなぁ。ちょっとやらせてくださいよ」
「あっ」
言うが早いか、あたしの手からヘラを取り上げて、工作に取り掛かる明石さん。
「私、こういうのも当然得意ですから!」
ヘラで綺麗に平らな面を作っていく明石さん。確かに、あたしと比べたら手際が段違い。漣ちゃんがケーキを作るときと、ちょっと似てるかも。そして完成したものは……。
「三二号対水上電探です!」
「ただの四角い箱じゃありませんか。カニさんが危ないんですよ。真面目にやってください」
……明石さんが、肩をすくめて何か視線で訴えてる。なんだか、申し訳ないような……
「折角です。あたしも装備できるような……」
半分くらい放心状態の明石さんの手から、ヘラを引き抜く。そして、今度はさっきよりも部厚くて寸胴な円盤を作る。
「……ケーキですか?」
「……九一式高射装置です」
明石さんは、顎に手を当てる。考えるときのポーズだ。数十秒、カニさんのうまったケーキ、じゃない、高射装置もどきをあちこちから眺めて、口を開く。
「やって、みましょう」
高射装置もどきを抱えて歩き出す明石さん。そして、あたしもついていく。さっきまでいた作業スペースより奥、妖精さんが飛び交う、建造ドックの側へ。
明石さんは、一番近くに居た妖精さんに高射装置もどきを渡す。……妖精さんが腕を組んで、高射装置もどきの前にふわふわ浮かんでいる。やっぱり疑われてるのかな。……でも、最後にはもう一人妖精さんを呼んで、奥に運んで行った。
「うまくいきましたか?」
「九一式高射装置には見えないって言われたから、『これはペーパープランに終った四式高射装置だ』なんて、それっぽいこと言っておきましたよ」
「それで、結果はいつわかるんですか」
「すぐわかるんじゃありませんか。急ぎと伝えてあるので。ほら」
明石さんが、悪戯っぽくこっちに微笑む。本当に、もう妖精さんが黒光りする塊を運んできた。ごく浅く会釈しつつ妖精さんに笑いかけて、明石さんが受け取る。
「カニ……さん……?」
でも、その塊の質感は完全に鉄。その色も、くろがねと呼ぶのに違わず真っ黒で。明石さんが手で叩くと、キン、キン、と澄んだ音がする。
すぐに明石さんのほうに行って、塊を奪い取って耳に当てる。まだ、鼓動が聞こえる。
「早く助けなくちゃ……」
うん、こんな厚い壁の中じゃ、怖いでしょ。
そして、そのへんに転がっていた、柄の長さ一メートルほどの金づちをひろう。
「ちょっと、朧ちゃん!」
ほらっ!
全力をこめて、金づちを振り下ろす。高射装置なら空間も多い筈だから、きっとこれで壊せる筈。
コッ。
高射装置に触れるより早く、金づちが止まる。もう一度叩くために、金づちを持ち上げようにも、動かせない。両手でも。
「朧ちゃん、それ……」
明石さんが、金づちの下あたりを指差している。その手は、震えていて。一体、何が? 金づちから手を放しても、金づちは落ちないまま。それを横から見る。
──っ?
金づちは、あたしの手くらいの大きさの、橙色の鋏で受け止められている。そこからは、これまたあたしの腕と同じくらいの長さの腕が生えていて、高射装置に開いた亀裂に続いている。
あたしたちが呆気にとられていると、メキメキと音がして高射装置のそこかしこがひび割れていく。もう一本の鋏が、次は、鋭くとがった爪が一本、また一本と伸びていって。八本目の爪が伸びると、手ぶらなほうの鋏が、高射装置の残骸を引きはがして投げ捨てた。
そこには、これまた橙色の甲羅が。あたしの顔より大きいかもしれない。その表面はごつごつしていて、まさに図鑑で見る蟹のようで。でも、きっとこの子が。
「カニ……さん……?」
修理、失敗したの? それとも、その姿は、カニさんが望んだ姿なの?
がしゃん。
切り落とされた金づちが、床に落ちた。
同〇九二〇 本館・艦娘居住区間 渡り廊下 漣
「何馬鹿言ってんの、逃げないわよ」ね。
逃げる。誰もかれも、逃げなきゃ生きてられないのに。
責任から逃げる香具師、現実から逃げる香具師、期待から逃げる香具師……。
全部受け止めてたら、艦娘なんて沈まなくても沈んじゃうって。
ご主人様。これまで戦いしかさせなかったのに、急に俺が居なくなっても生きていけるようにって。育ったら野に放つ。艦娘はミドリガメかよ。飼われちゃいないけどね。本気でキレたら提督なんていつでも頃せるから、ワニガメのが例えるにはいいかも。
しっかし、生まれついて自分の上司を慕うようになってるってのはガチなのかね、ソース不明だけど、なんかそんな気がするのよねぇ。
クソクソ言いながらご主人様にデレデレなぼのなんてあからさまだけど、なんだかんだ、どの子もご主人様のこと、憎からず思ってそうよね。全米に愛された男。
もしこれが、指揮を円滑にするための「仕様」だとしたら。
ご主人様をご主人様と思ってしまうのは仕方ないけど、艦隊ご一行をへの気持ちも「仕様」なんジャマイカ?
ま、くよくよ悩んだってなんともならないからね。ドントウォーリー、ビー、ハッピー。やっぱり、漣たち艦娘と戦闘とか訓練の組み合わせってパーペキよね。目標をセンターに入れてスイッチ、とだけ考えてるうちは、こんなこと考えなくて済むし。暇は悪っすわ。
やー。本当に、長門氏が来て、艦隊が充実したら、楽しいは楽しいけど、暇が増えて困っちゃうわ。
なんて考えながら、練兵場に目を向けると、謎の影。我らがアイドル那珂ちゃん。胸より低いくらいの高さの、渡り廊下の壁にもたれて、しばらく見物する。最近は、縄が地面を叩く力で跳べるようになって、足を地面に着かなくなったんだってさ。意味わかんない? 漣もわかんない。
練兵場かぁ。着任したての頃は、ご主人様と一緒に走ったなぁ。
──アハハハ……アハハハ……
「待てよ漣~! 俺のプリン返せ~!」
「もう全部漣が食らってくれたわ!」
「人のものを断りもなく! どういう教育を!」
「その教育をするのはご主人様ではなくて?」
「体罰も教育と知っての発言だろうな!」
「艦娘に手を挙げることの愚かしさもわからない男が、教育などと!」
「何たそがれてるんだ」
妄想を切り裂いたのは、鋭いのに、さらさらと耳を撫でる、磨りガラスの剣のような声。木曾氏、図らずもいつか会ったときとは逆の構図ですな。
「んー……。懐かしき日々を捏造してた、ですかね」
「懐かしき、か」
自然な流れで、漣の隣にもたれる木曾氏。いや、この画はもしかして……青春?
「別に何も過ぎ去っちゃいねえし、終わらせもしないさ。そういえば、提督の事なんだが」
ほう、ご主人様が。
「外出する度に何か書類を持ち出しているようだ。上に提出するものとかいろいろあるんだろうが、どうも俺には腑に落ちねぇ。大概のモンは郵送すれば済むだろ」
説明しよう! 建物みたいなハコだけじゃなくて、業務も懐古趣味にしたほうが、艦娘、妖精さんあたりの術式の塩梅がいいとかなんとかで、哀れなご主人様は非効率極まるks業務をこなしているのだ。紙の書類を封筒に詰めてをポストに突っ込むとか、漣たち艦娘に紙で報告させるとか、いろいろあるけどね。で、紙を配達・回収するために、鎮守府にはポストがあるわけ。
「それは何でしょうかねぇ。ラブレター? 例の、郷に置いて来たって婚約者への」
木曾氏が、腕を組んで壁にひっかける。はぁ。やっぱヘコみますわなぁ。
「アイツ、そんなのが居たのか」
視線だけでも那珂ちゃんを見ていた木曾氏が、急にこっちに振り向く。
「漣だって、聞いたときはショックでしたよ……まあ全部嘘なんですけどね」
……あれ。バラしても、動じない木曾氏。喜ぶでも、怒るでもなく、まだ同じ所を見てる。ここで何かお叱りでもするつもりなら、嘘を嘘と見抜けない人には……なんて言っちゃうって決めてたんですが。
「とにかく、機密あるいはごく私的な書類を持って出掛けることが多いって話だ。俺はまだ調査を続けるぜ」
そこまで話すと、用は済んだとばかりに立ち去ろうとする木曾氏。こういう振る舞いが颯爽としててカッコいいんですかね。真似する気はしないけど。あ、丁度いいから聞いとこ。
「あの」と呼び止めると「何だ」と振り向く木曾氏。右から呼ばれたら右に振り向くのですか。眼帯と視野の振り向きへの影響が気になりまして……って言ったらしばかれますかね。
「漣と木曾氏、どっちがご主人様のこと知ってるんでしょうね」
「ハッ。何を聞くかと思ったら。どうでもいいねぇ、そんなの」
「あ、そのへんにプライドは無いので?」
問いかけには構わないで、今度こそ、本館に行く木曾氏。調査か、それとも任務か。あ、関係あるかは分からないけど、また大規模作戦があるのかも。遠征組が忙しいみたいです。