十二月一日 一七〇五 別室 秋雲
潮が抜け殻のようになってしまったこと、長期休暇に入ったことは、朧を通してすぐ秋雲の知るところとなった。とはいえ、秋雲がいかに型にはまらない想像力の持ち主といっても、潮が心に傷を負った理由がバイブ書道にあるらしい、というのは理解できなかったので、それを理由に七駆の面々から責められるのも承服しかねた。
だから、励ましがてら直接話を聞いてみようと思ったものの、潮の落ち込みようを聞いて、いつ行ったらいいものか決めあぐねていた。そうしているうちに、四日、五日と過ぎて、今に至るわけである。
駆逐艦寮の、まだ誰も使っていなかった部屋が、潮に割り当てられたという。一人部屋という境遇に、秋雲はどことない親近感を覚え、圧倒的プライバシーと気軽さがやみつきになるかもしれないぞ、などと想像してみたりもする。しかし、潮の性格を思い出してあっさりその筋は否定した。潮は、むしろ姉たちがいないことを寂しがるのではないだろうかと推測し、潮の普段の生活を思い出してみる。思い出すといっても、独りで秋雲の部屋を訪れるときと、食堂で食事を摂るところ以外にはあまり彼女の印象はなかった。もっとも秋雲からすれば、秋雲と話すときの様子からして、潮は孤独を好んでいるわけではないという線で落ち着いた。
提督の方針通り、そっとしておくのは大事なのかもしれない。しかし、だからといって関わるのを避けるのはいかがなものか。むしろ、腫物のように扱っては、塞いでしまうばかりで、いつまでたっても戦場に戻る気が起きないのではないか。そんなことを考えた秋雲は、陽炎たちと焼いた芋とタブレットを携えて、潮がいるという部屋までやって来たのだった。
ドンドン、という音に遅れて、相変わらず、戸板同士がぶつかるバタバタという音が聞こえる。
「潮ちゃーん、秋雲さんだよー」
秋雲が呼び掛けても、返事はない。もう一度、ドンドンバタバタ秋雲さん、を繰り返しても同じ。
ノックしても返事がないときの対応は二つに一つ。一つは、諦めて立ち去る。もう一つは、開けてしまう。時と場合によりけりだが、人の生活空間においては前者が推奨される。ドアの中の状況如何によっては部屋に居た人物との間に遺恨を残すことになるからだ。
閑話休題。秋雲は、痺れを切らして中を確認することにした。部屋は既に真っ暗。もはや十二月、太陽も家が恋しい季節だ。戸の滑りに合わせ、室内の闇が切り抜かれていく。
ちょうど明るくなったところに、潮はいた。部屋の真ん中あたりで、布団もかけずに寝ている。横向きに寝ていて、顔は横、秋雲からは見えない側を向いている。休養するのに合わせてか、服は上下ジャージ。どんな風に寝たかは知れないが、腰がめくれて、白い肌と水色のショーツがちらりと見えている。
秋雲は、その脇に無造作に置かれた右手の握っているものを見つけ、若干の後悔を覚えた。秋雲自身の与えたバイブラシ。
秋雲は一瞬、お楽しみで疲れて、そのまま寝てしまったのか、見てはいけないものを見てしまったのか、などと考えた。しかし潮である。これまで、筆と合体される以前のソレの使い道は知らなかったはず。では、またバイブ書道を? その推論を確かめるため、秋雲は部屋の中へ歩いて行き、灯りから垂れる紐をひっぱり、スイッチを入れる。秋雲の部屋と作りは同じなので、見えなくともできる。蛍光灯がちかちかと点滅したあと、点灯。
秋雲は、己の目を疑った。
そこには、紙の山──新聞紙の上に積まれた、大量の半紙があった。いずれの紙も、何度も練習に使ったのかびっしりと書き込まれており、余白などない。判読しようにも、うにょうにょとした線にしか見えない。だが、艦娘たちなら誰しも一度は目にしたことのある線だった。秋雲は、それが分かってなおさら慄然とさせられた。
その線は、なかば花押の域に踏み込みつつある、提督の署名だった。
半紙を積んだ新聞紙は、いくつも床に並んでいた。ぽつりぽつりと半紙の山があるので、鼠か何かから見ればリアス式海岸に浮かぶ島にも見えたかもしれない。
繰り返し練習する懸命さは驚くべきものだが、同時に秋雲は、潮の様にただならぬ偏執を見て慄いた。その時、灯りが着いたことにようやく気付いたのか、潮が目を覚ました。
「ううん……秋雲ちゃん?」
「ん。おはよ」
挨拶したのは、何と返したものか思いつかなかったからだ。それに乗じて、目を袖口で擦る潮に話を続ける秋雲。
「なんか大変みたいね。秋雲さん、芋持ってきたから食べない?」
秋雲は、壁際に座り込み、潮に芋を差し出す。
「お芋……。ありがとう、おいしそう」
「陽炎型皆で焼いたんだ~。ほい」
秋雲は、大きな焼き芋を二つに折って、大きい方を潮に渡す。潮は、受け取った芋の皮をぺりぺりと丁寧にめくり、半紙の上に捨てはじめた。秋雲がそれを制す。
「潮ちゃん、皮にも栄養があるんだよ。皮ごといってみない?」
そう言いつつ、秋雲は皮のついたま芋にかじりつく。潮はそれを見て、自分の芋を皮ごと少し折って、頬張った。
「皮、別に嫌な味はしないんだね」
「そうなのよ!」
「中身もとっても美味しい。甘くて、柔らかくて……」
潮は、その芋が驚く程甘いのと、しっとりを通り越してねちょっとしているのに驚いた。
「美味しいよね。今はやりのなんとかってブランドの芋なんだってさ。黒潮が選んできたとか」
「『なんとか』、ですか」
「いや違うよ、名前忘れちゃってさぁ」
そうなの、と微笑む潮を見て、潮がそれ程落ち込んでいないような気がした秋雲は、避けていた本題を切り出すことにした。
「──潮ちゃん、もう大丈夫なの?」
潮は、どこか寂しそうに、窓の外を眺めながら答える。カーテンはまだ付いておらず、窓の外、母港の様子が見えている。
「ううん。なにもわかんない。なんでまた戦えるようになりたいのかなんてわかんないし、また戦いたいのかもわからなくて……」
言いながら、右手を広げ、じっと見る潮。
「怖いよ。怖い。敵の恨みの声が聞こえるみたいで。考えたら倒してきた敵の目が思い出されるみたいで。あたしを狙う目。あたしを憎む目……ごめんね」
潮が謝ったのは、少し休んで深呼吸をするためだった。それもほんの数秒で、また話し始める。
「それでも、バイブ書道をしてる間は思い出さないから。それで、ずっとバイブ書道、してる」
「いやなんでバイブ書道なのよ」
潮が真面目に話しているので頓狂にも思えるツッコミでだが、秋雲からしたらそれ以上でも以下でもない。現実逃避も暇つぶしも、もっといい方法がいくらでもあるはずだ。しかし、潮はバイブ書道を選んだ。それがなぜなのか知りたい、秋雲の正直な気持ちが飛び出しただけである。
「字を上手く書きたいって気持ちを、忘れないでいられるから。あたし、なんでここにいるのかなんてよくわからないけど──建造されて、駆り出されて、昔と同じに敵をやっつけてる。それはなんでかわかんないけど、字を上手く書きたいってって気持ちは、あたしが選んだものだから……それじゃあ、ダメ、かな。ダメじゃないって思いたいなって。何もしたいなんて思えないけど、それだけは思い込みたいって、自分が願ってるんだって、わかる気がして」
それを聞いて、秋雲は考える。字をうまく書きたいという気持ちの根源は、おそらく提督への敬慕。とすると、その気持ちが艦娘に組み込まれたものだとしたら、潮はバイブ書道をやめるのか。バイブ書道を失った潮を支えるのは何なのか。
シール集めではない気がする。姉たちへの愛情? だとしたら、それも否定されかねない。秋雲にはよくわかる。人間と違って、艦娘の姉妹には同じ胎なり種なりから生まれたという生物学的なきずなは無い。姉妹艦の艦娘だから姉妹、という、自己言及めいた命題で存在するのが、艦娘の姉妹という概念だ。だから、潮を支えるとすれば、それは姉妹とは関係の無い何か。秋雲としては、気にかけてくれることが、過去の姉妹艦であったことよりよほど姉妹らしいと思っている。潮は姉たちから大層優しくされているから、それで足りそうな気もする。でも、潮は後天的な──能動的ともいえるかもしれない──選び取った何かで自己を確立したいと思っているように見える。
ここに至って秋雲は初めて、自分の同人活動もまた、選んだものではないことに気付いた。しかし、秋雲は、それでもなお自分と潮は違うと思った。
秋雲は、同人活動に理由を求めたことは無かった。あえて理由と言うなら、かつて秋雲で敵艦のスケッチが行われたことがそうなのだろう。しかし、秋雲にとってそんなことはどうでも良かった。
秋雲は、たまらなく同人活動が、同人活動をする自分が好きだった。それが今の潮との違いだと思った。
だが、この結論は本当に正しいのか。この気持ちは偽物ではないのか。見極めるべく、秋雲は、聞かないことにしたその問いに、ついに触れた。
「……提督のためじゃ、戦えないの」
再起のきっかけを求めて、というよりは、ある種下世話な好奇心と、探求心。他人の恋慕の取材、そして皆が提督を好きなのは、仕組まれているからなのかの検証。
「ダメじゃない、よ。提督に戦えって言われれば、戦える気がします」
「やっぱ潮ちゃんも好きなんだ」
そう答えると、潮はまた窓を見やる。
「たぶん、曙ちゃん程じゃないよ。漣ちゃんにも、きっと敵わない。だから、あたしの気持ちは好きとかじゃなくて、もっと違う何かじゃないのかな」
秋雲は考える。潮の口ぶりに滲むもどかしさが、恋心でなかったら何なのか。それでも好きと言えないのは、なぜなのか。
それはさておき、秋雲にとっては尋問であるところの質問を続ける。
「別に提督のために戦いたいなら、それでいいじゃん」
「それでいい、と思えなくて。提督に認めて貰うために、敵を痛めつけるのが、正しいなんてとても思えなくて。気が進まなくて……金剛さんとか、榛名さんとか、みんなみんなすごい。提督のためにって、あんなに戦えて……」
潮の言葉は、「敵であっても苦しめたくない」という優しさと提督への好意を秤にかけているようであり、また、己の愛情の寄る辺なさ、他の艦娘ほどの確信を持って提督を愛していない、己の身空を嘆くものにも思えた。
秋雲を含む一部の艦娘は、己の恋情から一歩引いていた。
生まれながらの姉妹愛だの、艦船としての記憶だのから類推していくと、己を含む艦娘の大部分に通底している提督への慕情もまた、仕組まれたものと考えるのが筋だ。
秋雲は、それが自分たち艦娘を使いやすくするための措置なのだと結論付けていたし、仲間たちもそれを察して割り切っている部分があるものだと思っていた。潮もまた、そうだと思っていた。
しかし秋雲は気付いた。潮は、慕情それ自体が仕組まれたものとは疑っていない。好意は疑っていないのに、それを大事にできないでいるのではないか。秋雲に言わせてみれば、潮が提督を好きなのと、自分より提督を好きな人が居ることは全然関係ない。深海棲艦との戦いをその気持ちを成就させる手段とすることも、さしたる問題ではないのではないか。
となると、仕組まれた感情に関する謎は解けそうにない。
「それに、提督もいなくなっちゃうなら、提督のために戦うんじゃ続きませんもんね」
「そうねぇ……」
秋雲は、ネタを探してやろうという計らいを捨てた。仕組まれた感情の検討も諦めた。
同時に秋雲は、艦娘には不似合いのこの優しさが、仕組まれたにせよ本物であることに胸を打たれるようだった。
この優しさが戦闘技術と同居しているのは、実にアンバランスだ、どこか垢抜けない顔と豊かな胸くらい、などと、秋雲はいつもの癖で視覚的、肉感的、萌え的な感想を添えた。
「潮ちゃんはみんな大好きなんだね。お姉ちゃんたちも、提督も、他のみんなも」
「うん、みんな自慢のお姉ちゃんです」
秋雲は、これまでの恐る恐るといった話ぶりから、いきなりはっきり言いきられたことに驚いた。
「潮ちゃんのことを、そんな自慢のお姉ちゃんたちは好きで好きでたまらないワケよ」
「そう、かもしれません。そうですね。絶対、そう」
「そうなんだよ。みんなそう。だからみんな戦う。敵の命なんかより、潮ちゃんが大事なの。潮ちゃんは敵も助けたいみたいだけど、そうはいかない。敵にも妹がいるから譲ってくれないのかもしれないねえ」
説得やら激励やら、秋雲自身もわからなくなってきた。
「守りたいって気持ちが一緒なら、わかりあえませんか……?」
潮は、膝を抱えながらも、顔は秋雲の方を向いている。
「妹が……ってのはたとえ話だからね。もしかしたら敵は、人間の土地とか海とかが欲しいのかもしれない。そもそも、痛みも感情もないもしれない。わかんないよ。深海棲艦との対話はできてないでしょ」
姫だの鬼だのと呼ばれる、人語を話す深海棲艦も存在はする。しかし、現状はひたすら敵意や怨嗟をぶつけてくるだけで、対話に成功したことはない。
「まぁ、どうせ戦わなきゃいけないなら、秋雲さんは深海棲艦より潮ちゃんに生き残ってほしいよ。それに誰かが戦わなきゃいけない、しかも艦娘だけが戦えるなら、秋雲さんは戦えるだけ戦いたい、かな」
潮はまた俯いた。戦えるから戦う、というのは、戦う理由として十分なのか。潮たちが戦わなくては、秋雲が妹と表現した、どこかにいる守るべき人間たちが生きていけない。それも仕方ない。
「とにかくね……そんなに気持ちを隠さなくていいと思うよ。みんな潮ちゃんが大好きだから、潮ちゃんが我慢してばっかりじゃお姉ちゃんも潮ちゃんも悲しいでしょ」
秋雲は、伝えたいことがうまく伝わらないことに業を煮やした。そんな面倒くさいことを言いたかったわけじゃない。
「秋雲さんも潮ちゃん好きだよ」
しびれを切らし、まだ脳髄に辿り着いていない言葉を吐き出す秋雲。さらに続ける。
「チューでもしよっか」
「えっ?」
突然のことに唖然とする潮。
「うん、意味わかんない」
「げぇっ! 朧!」
朧が、いつの間にか出入口を少し開き、中を覗いていた。
「潮ちゃん、着替え置いておくから。あと秋雲ちゃんは面会終わり。こっち来て」
着替えの詰まった段ボールを置くと、朧は秋雲を引きずって部屋を後にした。
*
廊下をしばらく歩き、秋雲は、すぐさま朧に釈明を始めた。
「いやね、さっきのはノリというか、勢いというか」
「潮ちゃんは本気にするからやめてって、言ったよね?」
朧の声はいつもどおり優しい。しかし語気は、姉らしい厳しさを帯びている。目つきもまた、秋雲を捉えて離さない。普段の雰囲気からは分からない迫力。セーラー服の上からはあまりわからないものの、朧が比較的骨格に恵まれていたことを、秋雲は今更思い返す。大きな瞳が、秋雲の瞳を捉え、焼け付くような視線を注いでいる。
「資料にするつもりだったんじゃないの」
「えっ! し、資料? やばい! こうしちゃいられない!」
秋雲が走り去る。その背を見送ってからも、朧はしばらく潮の部屋の前に立ち尽くしていた。