バイブ書道   作:プリン

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バイブ書道 2

同一一〇〇 執務室 潮

 

 あの、こういうときって、もっと寄ってもいいんでしょうか。

 

 潮は提督のお部屋の扉のすぐ近くに立っていて、提督はドアの正面にどっしりと構える、大きな机に向かって座っています。定規で線を引いたみたいに、床板の継ぎ目と垂直に机のへりが交わっているのは、提督が几帳面だからでしょうか、それとも、秘書艦をされていた方がそうだったのでしょうか……。

 

 提督と潮をまっすぐに結ぶ床板のせいか、とても遠くに提督がいらっしゃるような気がします。本当はどうでしょうか、三、四メートルほど、なのでしょうか。なんだか提督の部屋は何もかも大きい気がして、よくわかりません。扉も大きくて重い気がしましたし、この空間も大きく感じました。でも、偉い人のお部屋は当然広い、ですよね。ううん、窓も、引き戸のついた棚も、これは書類を入れるのでしょうか、ずっしり重そうだし、床から棚の天板まで目で追うと、ぐーっと近づいてくるような、やっぱり大きい気がします。

 

 提督も、やっぱり大きく見えます。いや、もちろん潮より背も高いです、大人だからでしょうか、でも、遠くにいるんだからそんなに大きくもないのでしょうか。ううん……でも、机と同じくらい、どっしりとそこに座って、お仕事をしています。

 

 とにかく、もっと近くに立ったほうがよいのでしょうか。離れていると興味がないと思われてしまいそうだし、でもそばで見ているのも失礼な気もするし……。

 

「そんな遠くからじゃ見えないだろう。もっと近くまで来たらどうだ」

 

「は、はい……」

 

 急に話しかけられて、つい声が上ずってしまいました。あの、「近くまで来たらどうだ」っていうのは、「近くに来い」って意味ですよね。命令? だったら、行かなきゃ。でも、来いと言われたからって、そんなに寄ってはいけませんよね。ほら、潮は、その、漣ちゃんみたいに笑って誤魔化せるほど仲良くないし、曙ちゃんみたいに、えっと、提督の中でああいう枠? 扱いで許してもらえるとも思えませんし……。

 

 一歩、二歩、進みながら、提督が嫌そうにしていないか確認します。だいじょうぶみたい、です。

 

「あの……このあたりで、よろしいでしょうか……?」

 

「見えるならいいが」

 

「えーと、あの……はい、だいじょぶです」

 

 本当は全然だいじょうぶじゃありません、手元を見るためには机にくっついてのぞき込む方がいいと思うんですけど、それはちょっと、恥ずかしいというか、あの、いいんでしょうか。ちらっと提督に目配せすると、目が合ってしまいました、

 

 何だか怖いのは、提督が偉いひとだからでしょうか? 

 

「そんな緊張しなくていいんだからな? こうやって……」

 

 そう言うと、提督はまた署名を書き始めました。遠くで見たときはよくわかりませんでしたが、結構崩してあります。きっと、お忙しいから、ですね。いや、もしかすると、崩してあるおかげで本人確認として使えるというものなのかもしれません。

 

「まあ簡単だろう。どうせ署名なんて確認されないし、さほど丁寧に書く必要はないからな」

 

 そんなことを考えているうちに、提督はもう一枚書類を仕上げていました。署名を書いて、印鑑を押す。簡単そうですが、大事なお仕事なのでしょう。

 

「質問とか、無いか?」

 

 質問。しつもん。えーと。

 

「あ……そんなに仕事に関係ないかもしれないんですが」

 

「何だっていいぞ」

 

「この署名、潮なんかが書いてよいのでしょうか、提督の署名は提督が書かないといけないような……あの、なんでも、ないです」

 

 そう質問すると、提督は一瞬きょとんとした顔をしましたが、ふ、と笑いました。普段そんなに笑う方ではないと思っていたので、ちょっと意外です。何でもいいと言われたので聞きましたが、やっぱり本当はよくなかったのかもしれません。

 

「そうだよなぁ、そうだよなぁ」

 

 提督は何に納得したのかわかりませんが、にやにやしながら書類の山を見つめています。

 

「わからなくて当然だよな。なんと説明したものか……。そうだな、この書類、どれも『わかりました』以外の返事なんてしようがないんだ。一応見てはいるから問題ないが、全部に署名して押印するのは死ぬほど面倒なんだ。そこでお前たちにも手伝ってもらおうと」

 

「はあ……」

 

「それに、クソ真面目に俺が全部見たところで上はいちいち全部は確認していられるわけがない。今艦娘を運用している基地はどれだけある」

 

 そこまで言うと、提督の言葉が途切れました。時計の音がします。じゃなくて、これは質問、ですね。潮に。

 

「……えっと、たくさん、です」

 

「そうだ、沢山だ。何万とか何十万とかあるらしい。どうなってるんだか。土地を埋め立ててるのか島でも買ってるのか……。俺も外で何が起きてるのかはイマイチ理解できてないんだよな……。とにかく、上がすべての提督から書類を集めて、あまつさえ筆跡まで審査したらどれだけかかる?」

 

「はいっ、たくさん、です」

 

 今度はきちんと返事が出来ました。……何を尋ねられたのか、よくわからず返事をしてしまいましたが。大丈夫でしょうか。提督は書類の山に視線をずらして、また笑いました。

 

「そうだ、沢山だ。人手も、時間も、費用も……」

 

 間違いじゃなかったみたいです。よかったです。

 

「そういうわけだから、こっちの山の書類に署名して印鑑押して、こっちの山に積んどいてくれ。あー、潮は几帳面そうだし、こういうの得意だろ」

 

「は、はい!」

 

 几帳面なんて言われてしまいました。ちょっと恥ずかしいです。でも、それは几帳面にやって欲しいということでしょうか? ですよね、本当に適当にやって欲しくて適当でいいなんて説明しないでしょうし、潮が緊張しないように言ってただけ、ですよね。提督は、あの、お優しいから……。あ、提督が折り畳み机と椅子を広げてくれています。これを使うために絨毯を片付けたのでしょうか。

 

「あの、潮がやります」

 

 机が広げられると、書類と硯、筆、印鑑、朱肉といった道具がこちらに移されました。筆や、やたら大きい朱肉って、いかにも偉いひとの道具、みたいで、なんだか足がすくみます。

 

 でも、お仕事、です。書類を一枚取って……あ、これはもう名前が書いてあります。お手本を置いてくれたのでしょう。やっぱりこれ、うじゃうじゃして、うーん、麺? とにかく提督の名前なんて、教えてもらわないと絶対わかりません。

 

 気を取り直して、署名の無い書類を一枚取って、正面に置きます。

 

 ……これに、あたしが署名したら、提督の書類として提出されるんですよね。……うぅ、丁寧にやらなくていい、といっても、やはり責任重大なのではないでしょうか……? 

 

 もう一度きちんと見本を見ても、やっぱり何と書いたらこうなるのかはちょっとわかりません。もう一度、署名の無い紙を見ます。どうやってこの空いた部分に納めたらあの通りになるのでしょうか。もう一度見本を……。もう少し……。

 

 何度見てもよくわかりません。こうなったら、やるしかない、ですよね。きっと朧ちゃんや曙ちゃんならそう言います。……そういえば、何で潮なんでしょう。他にももっと上手そうな子なら一杯いるのに……。でも、そんなこと言っている場合でもありません。うまくやれば、きっと提督も喜んでくれます。そう。そう、ですよね。

 

 心を決めて、小筆を取って、紙の上に……もっと右、もっと右でしょうか。よし、この辺りから……あ、行き過ぎました。いや、まだ大丈夫です。ここから……。

 

 と、筆を置いた瞬間から、紙の上をインクが拡がり始めました。ゆっくりやろうと思っていたのに、そうは行かないみたいです。一旦見本を見て……あ、書いていた方の線がもうギザギザになっています。筆を置こうにも、署名には切れ目なんてありません。どうすれば、いや、よく覚えていませんが、うぅ……最後まで書くしかありませんね! えーい! 

 

 ようやく署名を書き終えて顔を上げると、提督が机の向かい側に立ち、こちらを見ています。

 

「さて、何枚片付いた?」

 

「なんまい……? あの、すみません、これだけ……」

 

 提督は、潮が書いた書類に手を伸ばしました。そこには潮の書いた署名……今になって見直してみると、インクはところどころ滲んでいます。全体を見ても、書き始めが大きく、書き終わりが小さく、なんだかとてもくしゃくしゃです。線は地震でも起きたか、波に揺られながら書いたみたいに震えていますし。恥ずかしい……。

 

 提督は、書類を眺めて難しそうな顔をしています。……もしかして、ダメ、だったでしょうか。もうしばらく黙り込んだあと、提督が口を開きました。

 

「そんな丁寧に書いてくれるとはな。震えてはいるが、熱心に、真剣にやってくれたことは伝わってくるぞ。……書き方の指示がもっと具体的な方がよかったな、すまない、以後気を付ける。とりあえず、次回までにやり方を考えておくから、今日は俺が署名した書類に押印してくれ」

 

 謝られてしまいました。でも、それで終わってはいけない気がします。提督は右手で持った印鑑に左手を添えて、押し方を実演していますが、どうしても気になります。

 

 うまく書けるまでやらせて欲しいと言った方がよかったのでしょうか。でも、潮には聞けませんでした。 

 

 

同一二〇一 食堂 曙

 

 ほんっと、皆して何なのよ。

 

 訳のわからない勉強とか、訳のわからない雑務とか素直にやっちゃって、どうしちゃったっていうのかしら。

 

 命令は厳守。確かにそれは鉄則。こういう組織で上の言うことを守れなきゃ、ここ一番で規律が乱れて、全滅ってこともあるものね。誰から聞いたんだっけ……いや、あのクソ提督が言ってたことだったかもしれないけど。

 

 それにしたって、さんざん戦いの練習ばかりさせられてきたのに、今度は勉強しろだなんて、滅茶苦茶にも程があるわよ。何で誰一人、文句の一つも言わない訳? 

 

 やっぱり納得いかないわ。いずれ話を聞かせてもらわないと。

 

 とはいえ、漣の言うことも分からなくはないわ……。分かりたくないけど、分からなくはないのよ。戦うことしか知らないままじゃ、戦いの要らなくなった世界には当然私たちの居場所もない。それを否定できるような理屈の用意もない。

 

 ──戦いのある所に行くって選択肢もあるんでしょうね。でも、戦う必要が無くなった世界で、そうまでして、あくまで戦う。それって本当にいいのかしら。生まれながらに戦うものと決まってたわ。それは事実。……でも、戦うために生まれた、とまで言い切っていいのかしら。それは違う気がするのよね……。たまに思い至ってしまうけど、そこはいつも袋小路。結局、何で戦ってるのかはわからない。戦わなきゃいけないのはわかるわ。戦いたいとさえ思う。いつも思ってる。何故だか、記憶を辿った果て、記憶の糸が縒られる前、感覚が生まれたその時から、私は役に立つと示さなくちゃいけない気がしてた。どうして? 

 

 ……そんなことはいいから提督よ! 考えてることはわかるけど、肝心な部分──辞めるってことを伏せて、ただ指示だけ寄越したってのは許せないわ。ちゃんと説明するのが筋でしょ? ま、説明したところで私が認めるかは別だけど。さんざん命令しておいて、自分は「やめまーす、あとはたくましく生きてくれよー」なんて、男の腐った生ゴミ以下、やっぱり紛うことなきクソよ! 

 

 ……そういえば、提督はなんで提督やってるのかしらね。私たちみたいにどこかで作られたり拾われたりしたのかしら。バカバカしいわ。考えたって。

 

 とにかくアレはクソ提督。提督なんてのはクソって相場が決まってるのよ。私の中では。……ずっと。

 

 そんなことを考えていたら、もう私が盆を持っていく番。今日はアジフライ? まあまあね。

 

 なんて思ってたら、前に並ぶ背中越しに聞こえるのは、どこか掠れたような、それでいて潤ったような、聞き間違えようのない声。

 

「ん、なんだその恰好は。腹を割って話そうということか、悪くない。お前……キス、か? 違うな。紛れもなく、アジ、だな。……そうか、太平洋から来たのか」

 

「若葉姉さん! アジと会話しないで! もう開かれて、カラっと揚げられてるわ!」

 

 全然気づかなかったけど、若葉と初霜が居たのね。ブレザーっていいわよね。どういう基準で制服が選ばれてるか未だにわからないけど。きっちりした黒髪清楚と、ネクタイも襟もいい加減な茶髪。要素を拾うとあんまり似通ったところはないけど、姉妹だけあって雰囲気は似てるわ。……それにしても若葉、マイペースだとは思ったけど、私の知ってる限り料理と会話するほど変わった子じゃなかったわよ。なんかクマが目の周り一周してるし。何かのお祭りかと思ったわ。

 

 食堂の奥までは行かないつもりみたいね。とりあえず近くに座ろうかしら。若葉が気になるし。

 

「心配するな。七二時間寝ないくらい、なんということはない。……そうか。あのアジはお前の祖母だか曾祖母だかだったのかもしれないな。……確かにな。海は広い。……いや、お前と出会ったのは奇跡だが、若葉達が揃っているのは必然だ」

 

「姉さん……早くそれを食べて寝ましょう」

 

 初霜、流石にうろたえてるわね。私も朧がアジと対話し始めたらうろたえ……いや、カニとは対話してたような気も……とにかく、どうして若葉があんな風になったのか聞かなきゃ。

 

「どうしちゃったのよ、若葉」

 

「姉さん、『えーじぇんと』は体力だけじゃなくて語学も情報収集も一流でないと、なんて言って、いきなり猛勉強し始めて、もう丸三日眠ってないんです……」

 

 丸三日ですって? 七十二って言ってたのは本当なのね。それは尋常じゃないけど、そんなことより。

 

「エージェント?」

 

 何だか耳にひっかかる言葉ね。漣が好きそう。これも資格の名前なのかしら。

 

「……あれだ。捜査官だ。……聞いたところでは。……若葉はエージェントらしい」

 

「どういうことよ」

 

 自分のことなのにまるで他人事だし、それと勉強になんの関係があるのかわかんない。……あと、寝不足のせいか喋り方が間延びして、どうしようもなく聞きづらいわ。……ていうか若葉、寝てない? 

 

「……あ。……若葉の恰好はエージェントらしい。いや、エージェントそのものだ。……つまり適性もあるのだろう。ならば、今の仕事が無くなったらそれになるのが、道理……」

 

 やっぱり意味わかんない。若葉の頭の中ではどういう展開が起こってるのかも、さっぱり。

 

「で、どんなことする仕事なのよ。エージェントって」

 

「……そうだな。回転翼機につかまったり、貯水槽のフタにつかまったりする」

 

「それ、どういう仕事よ」

 

「あと、天井からぶら下がったりする」

 

「どういう仕事よ。体を使うの? 体操選手、みたいな?」

 

「ああ、運動はするようだ。動いている車から動いている車に飛び乗ったり、トラックの荷台から運転席に乗り込んだりする。ビデオで見た……子日と。若葉は詳しい」

 

 若葉、一体何考えてるのよ。折角平和に過ごせるようになっても、それじゃあ命がいくつあっても足りないじゃない。──やっぱり私達は命を削らなきゃ生きてられないってこと? 

 

「そこまでして目指したくなるものなの? エージェントっていうの」

 

「ああ、謎めいた立ち振る舞い、圧倒的な身体能力。……そうだ、権限も大きい」

 

「……それはそうでしょう。そんな危険なことするんだから」

 

 そこまで言って、私自身の身上を省みて違和感がこみあげてくる。命を懸けて戦っている私達が手に入れたものって何なのかしら。

 

「聞いて驚くな、最終的に増殖する」

 

 何も、きちんと日本語を使え、なんて偉そうなこと言う気はないけれど、意味分かんない。

 

「……増殖するって、若葉が?」

 

 若葉はアジフライを見つめている。……いつの間にやら白飯も味噌汁もなくなっているのに、アジフライはまだ残してるのは、皿の上の彼(?)が友達だからかしら。それとも、寝不足で体調が悪いから? 

 

 アジフライが若葉の箸につまみ上げられた。持ち上げたアジを見ているから、若葉の表情がアジで隠れる。……アジ越しに話しかけられるの、なんとも言えず情けない気持ちにしてくれるわね。

 

「そうだ。ゆくゆくは全ての人類が若葉になる」

 

 それ、増殖じゃないじゃない。

 

「……若葉、寝たほうがいいわ。おかしくなってるわよ」

 

「曙まで初霜のようなことを……そうだ、今度部屋に来い。本物のエージェントを見るといい」

 

「しょうがないわね」

 

 初春型の部屋。特に面白いとは思ってなかったけど、今日でがぜん興味が湧いたわ。朧もこんな風に秋雲の部屋に通うようになったのかしら。

 

「ああ、楽しみだ。……いつもと違う観客も……悪く……ない」

 

 若葉は喜んでるのかもしれないけど、今にも倒れそうな顔だからただ心配になる。それはさておき、初霜に小声で確かめる。

 

「本当にいいの? 初霜」

 

「……私は反対です」

 

「そりゃそうよね。戦争終わってもこんな危険なこと……」

 

 そこまで言ったら、初霜が急に険しい顔をした。

 

「そんなことは関係ありません。姉さんが危険なら私が守ります」

 

 あーあー、仲良しなことね。

 

「じゃあ何でよ?」

 

「姉さんがエージェントとして完成して、私も同化したとしたら、私と姉さんは触れ合えているのでしょうか? 姉様は本当に、そんなことを望んでいるの……?」

 

 ……またよくわからない。二人揃っておかしくなっちゃったわけ? 

 

「……姉さん、もう帰りましょう。寝なきゃ危ないわ」

 

 初霜が若葉に肩を貸そうとしてる。いつの間に隣に。……さすが姉妹、って思うけど、そんなの関係なく、若葉の状態はヤバいわ。まともな心があれば助けると思う。

 

「手伝わなくていい?」

 

「あ、ありがとうございます。でも大丈夫です。姉さん、こうなると軽いから。それに曙さん、お昼、まだ召し上がるでしょう?」

 

 軽いっていうのは、力が抜けるからかしら。協力してくれない人を運ぶのって、むしろ大変な筈だけど。……まさか、徹夜で体力を使って一気に痩せる……わけないわよね。

 

「気を付けなさいよ」

 

「ああ……曙も、な……」

 

「姉さんしっかり! 目を閉じたら死んじゃうわ! 部屋まで我慢してください!」

 

 ……行っちゃった。二人分のお盆が残ってる。私が片付けなきゃ。ったく、世話が焼けるわね。お盆の一枚に乗ってるお皿には米粒一つ付いてない。……こっちの一枚に乗ったアジフライの大皿には、付け合わせのキャベツが残ってる。途中で連れて行かれたからかしら。あれ? 若葉、アジフライいつ食べてた? まあいいわ。私のお盆を返すときに一緒になんとかするわ。こっちに寄せてお皿をそれぞれ重ねて……二人して途中で倒れないでしょうね、帰りは二人の部屋の前を通って行こうかしら。

 

 さて、私もご飯食べなきゃ。近くに座ったけど、結局私はほとんど食べなかったわね。

 

「……曙ちゃん?」

 

 あ、今度は聞き慣れた声。

 

「隣、……あ、散らかってるわね。向かい座りなさい」

 

 ご飯食べる前にわざわざ声かける妹なんているかしら。でも、潮はいつもそう。それから、遠慮がちにお盆を置いて、手を合わせる。食堂の喧騒ではぎりぎり聞こえないくらいの声で、「いただきます」と言って、食べ始める。

 

 何なのかしら。潮を見てると、なんかムズムズするのよね。……いい子、なのよ。間違いなく。でも、周りを伺う様子とか、妙にかしこまったところとか……ビクビクオドオドしてるのが、ね……。そういう所、なんだか気になるわ。でも、そんなことより。

 

「呼ばれてたらしいわね。クソ提督に」

 

 潮がちらっとこちらを見る。お茶碗から口元に運ぼうとしたご飯を空中でぴたりと止める。若干猫背気味だけど、お茶碗を行儀よく持って、なんだか写真みたい。

 

「あっ、うん」

 

「何か……ヘンなことされてないわよね」

 

 クソ提督がそんな「ヘンなこと」をする性質にも思えないし、漣の言ってたようなことをするとも思えない。でも、気にはなるのよね。うん。

 

「だいじょうぶ、だよ?」

 

 潮は、含みがあることはわかっても、なんのことかはわからない様子。

 

「そう……じゃあ何させられたわけ」

 

 でも、潮が気付いていないだけで、クソ提督の方は下心ありきで呼び出していないとも限らないもの。私達が守らなきゃ。潮は。

 

「うん……あのね、書類に署名して、印鑑を……」

 

「んっふ、ゴホ……ハァ? どういうこと!」

 

 潮ったら、いきなり何言い出すのよ。鼻に味噌汁上がってきたじゃない。呼び出されて書類に署名って、それってケッコンっていう……あれでしょう、あの、特に絆を深めた相手とするっていう。金剛とか、鳳翔とか、そのあたりとするものだと思ってたんだけど。まさかの? 

 

「や、やっぱり私達に色目使ってたのね、あのクソ提督……」

 

 なんで潮なの、やっぱり控え目で愛嬌があるから? いや……やっぱり身体に興味を持ってるに違いないわ、あのスケベ提督のことだし。私がなんとかしないと。

 

 私のそんな心配に反して、潮は俯き加減でアジフライを咀嚼してる。いつものことながら、持ち上げられたフライについた歯型が小さい。うーん、リスとか小鳥とかのほうが一口大きいんじゃないかしら。それは置いといて。

 

「どうしたのよ、何か気に入らなかったわけ?」

 

「うまく書けなくて、名前」

 

「別に、うまく書く必要ないじゃない」

 

 ここに至ってまだどうでもいいことを気にするの、相手によっては嫌味だと思われるわよ。や、そんなつもり無いわよね。潮に限って。

 

「提督も、そう言って、仰ってたんだけど、私の書いたサインが提出されるから……」

 

「あ、提督の面子を気にしてたのね。……でも、字が下手なことなんて気にするような間柄でケッコンなんてするかしらね」

 

 聞くと露骨に顔を赤らめ、恥ずかしがる潮。いじらしいというか、ウブで可愛いとは思うけど、なんだかモヤモヤする。

 

「あ、曙ちゃん? ケッコンなんて、そんなのじゃないよ、あの書類」

 

「じゃあ……なんだったのよ」

 

「聞いてないけど、何枚もあって、サインは一枚、印鑑はたくさん押すお仕事。だったよ」

 

 何枚も印鑑を押すって……。なんなのよ、焦らせておいて。本当に関係なかったのね。

 

「あ、そう。書類の説明もしないなんて、やっぱりクソ提督はクソ提督ね」

 

「……でも、親切だよ、提督は」

 

 わかってない。

 

「あのね、なんでクソ提督が私達に優しいかわかる? 私達がおとなしく言うことを聞かないと戦果が上がらないわけ。だからあんな高慢チキな口調してるくせに、やることなすことは親切なのよ。要はアメとムチね」

 

「……本当?」

 

 ここまで詳しく解説しても、潮はまだ首を傾げてる。

 

「それだけじゃないわ。ケッコンは知ってるわよね?」

 

 そう尋ねると、ちらっとこちらを見たあと、また伏し目がちにもじもじし始めた。

 

「……うん……ちょっと」

 

 潮、ケッコンの話をすると視線が落ち着かなくなる。本当は興味アリってこと? あんなクソ提督の何がいいんだか。何考えてるかわかんないし。図々しいし、態度デカいし。とにかくクソ提督の現実を教えてあげなきゃいけないわね。

 

「いい? 結婚っていうのはね、アレよ。そうね、愛を誓った男女が夫婦になる……アレよ。儀式よ!」

 

「愛……?」

 

 疑問を感じるの、そこ? まあいいわ。

 

「ケッコンカッコカリなんて言うけど、所詮特別な改装なわけ。どうしてこんな名前かわかる?」

 

 相変わらず首を傾げて、所在なさげに私の顔を見てるから、続ける。

 

「名前が大事ってことよ。特別扱いする大義名分。……される方の大義名分も、ね」

 

「……特別扱いって、そんなにしたいかなぁ。提督は」

 

「そんなの……」

 

 ……真面目に答えようとすると、結構難しい質問ね。

 

「……わからないけど。でも私達の中にもケッコンしたいのは結構居るらしいわよ」

 

「特別扱い、されたい?」

 

「されたいのかもしれないわね」

 

 堂々と提督に優しい言葉をかけてもらったり、堂々と二人で過ごしたり。甘えたり。それってそんなにいいのかしら。

 

「かもしれない?」

 

 潮が上目遣い気味に聞いてくる。

 

「そ。私にはわからないわ。あんなの上司じゃなかったら関わったりしないわよ」

 

「そう? じゃあ、なんでみんな好きなのかな、提督のこと」

 

「わかる訳ないじゃない。全っ然、理解できないわ」

 

 言うと、潮はこれまでになく困った顔をした。

 

「提督、そんなに酷い人じゃないよ。いつも優しいし、提督のほうが大変なはずなのにいつも応援してくれるし、頼る相手もいないのにしっかりしてて、あの、尊敬できるけどな……」

 

 ……何て返事すればいいのよ。クソ提督のいいところを面と向かってこんなに話されるなんて思ってなかったから。クソ提督がそういう人だっていうのは……知らなかった訳じゃないわ。でも、それをはっきり話す人を見たことが無かったから。

 

 クソ提督のいいところをこんなはっきり言われると、なんだかお腹の内側が痒いような、なんとも言えない気持ちになって、普段はっきりしない潮が言うから余計に。余計に……ずるいわよ。

 

「ふーん。ああいうのが好きなのね。潮は」

 

「あの。その。曙ちゃんは勘違いしてるかな、と思って」

 

 ええ、話題を逸らしたわ。これからも潮がこの調子で延々とクソ提督のこと話すのは勘弁して欲しいわ。

 

「で、サインの困ったことって何なのよ」

 

 さらに逸らす。

 

「あ、あのね。筆で文字をうまく書けなくて」

 

「簡単ね。練習あるのみよ」

 

 練習して改善できることをうまくなる方法なんて、時間をかけるくらいしか無いわ。

 

「やっぱり? 曙ちゃんならそう言うよね。それでね、書く道具を借りたいな、って」

 

「習字道具なんてそのへんにあるでしょ、掛け軸をあげてる子一杯いるし。クソ提督に」

 

 そう返事をしたら、露骨にしゅんとする潮。あーもう。仕方ないわね。

 

「じゃあ私、朧と漣にも頼んで探してみるから、潮は駆逐を当たっといて」

 

「あ、ありがとう、曙ちゃん」

 

 ほんと、なんで結局世話焼いちゃうのかしら。潮、やっぱりずるいわ。

 

 そう思って潮を……潮のお盆を見ると、食べ物はあらかたなくなっていた。いつの間に……。

 

「潮、食べるのそんなに早かった?」

 

「……今日は、曙ちゃんが遅かったんじゃない、かな。ずっとお話、してたから」

 

 それはそうね。うん。でもここでハイと帰るのもなんだか癪だし。

 

「そうかしら。夏に痩せなさいって言ったけど、噛まずに食べると太るって言うわよ」

 

 そう言うと、今度は軽く唇を噛んで、今日一番動揺した顔を見せた。

 

「あ……悪かったわね。そんなつもりじゃ……」

 

「ううん、大丈夫、……気を付けるね」

 

 許してくれた。潮は許してくれたはずなのに、なんだか腑に落ちない。

 

 なんなのよ。一体。 

 

 

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