同二二一五 寮(七駆居室) 潮
あ、やっとみんな寝ましたね。寝てますよね。
もう一回、確認のために見まわします。
朧ちゃんは布団を放り投げて寝ています。若草色のパーカー、素敵です。
曙ちゃん、お行儀よく、きれいに仰向けで、普段からは想像できないほど穏やかな顔です。どんな夢を見るんでしょうか。
漣ちゃんは……うん、横向きで顔はこちらに向いてます。すごい気持ちよさそうですけど、よだれ……。あ、吸いました。わかるものなんですね。
とりあえず、今なら問題なさそうです。
座卓に新聞紙をひいて、準備よし。ですね。
まずは硯――は、なかったので、今回はパレットで我慢します。水差し……スポイトですね、これは秋雲ちゃんからもらったので、これを使います。黒の水彩絵具をちょっと薄めて。
こっそり、机の下から秋雲ちゃんに貰ったアレを取り出します。
ついに、ついに出番、ですね。
一八式 バイブラシ。
あ、これ、墨をつけてからスイッチをオンにするんでしたよね。
じゃあ、まずは絵具を……これ、すごくバランスが悪くて……。秋雲ちゃん、海の上で描くなんて、やっぱりすごいんだ。
秋雲ちゃんの凄さを噛み締めつつ、筆を絵具につけます。
真っ白な、下ろしたての筆を、黒い絵具が伝っていきます。こんな新品の筆、貰っちゃって大丈夫だったんでしょうか。
とにかく、これで、準備完了です。
なんだか、儀式って言われると緊張しちゃいます。
バイブ? の、お尻を持って。
――カチッ。
「ひ…………っ」
あの? あの、あの。すごい勢いで絵具が飛び散るんですが!ジャージが黒の水玉に……。は、いいから、畳や襖にも飛んで。でも、声を出すわけにはいかないんです。バイブがばれちゃう……。ど、どうすれば。
ううん。これはきっと、紙に置けば止まるんですよね。飛び散るのも。えい……。
「ぁ……っ」
この手ごたえ、どうやって震えない線を引けるんですか。やっぱりダメなんでしょうか。いや。
Romaは一日にしてならず、ですもんね。
ちゃんと練習すれば、必ず……! あ、ああっ!
同二二三四 寮(七駆居室)曙
……この音。
……切れ目なく続く振動。
潮、声を押し殺してはいるけど、「あっ」とか「ひゃあ」とか漏れてるし……。
いや、寝たふりしながらそっちを見ようにも、手元が見えないし。
それにしても、「いろいろ」って、これ? 何にも知らなそうな顔して随分と進んでるじゃない。その差なの? やっぱり? 生まれ持ってのとかじゃなくて?
なんか、純粋でいい子って思ってたけど、それも違うのかも。
――いや、本人はいやらしいとも思ってないかもしれないけど。
でもこういうの、姉として指導すべきなんじゃないの? 助け舟を期待して、朧と漣を見る。
――二人とも、しっかり瞼を閉じて、眉間に思いっきり皺を寄せて――って、起きてるじゃない! 漣はともかく、朧まで知らんぷりじゃどうようもないじゃないの!
まあ、これは起きてから姉妹会議しかないわね。
それにしてもあの音……気になるわ。潮の声も。
ああ、もう。寝られないけど、かといって声もかけられないし。
ホンット、勘弁してほしいわ!
九月十七日 〇〇一一 本館裏 木曾
嗅ぎまわってはみたが、なんにも出やしねえ。
手紙、通信記録、他の書類。いずれも処分は抜かりなくやってるみたいだ。暖炉はこのために用意してあったのかもしれないな。模様替えをしたら燃やした灰もいつの間にか消えるし。便利なもんだ。
仕方ねぇか。アイツも自分の進退については伏せようとしてるんだ。ならば、その証拠になりうるものは消す、当然だ。
しっかし……どうやって探る? 執務室にコソ泥に入ろうにも、誰かしらが秘書艦についていれば、守りは盤石だろう。暴力沙汰になるのも不毛だ。
大淀を買収する? 任務やら制限海域について通信してるんだ、俺たちも知らないことを知ってても何もおかしくねぇ。むしろ着任以来ずっと、提督の情報の近くに居るはずだ。
でも、何を渡せば靡くんだ、大淀は?
いや、落ち着いてみれば俺に何の手札がある?
情報。搦め手は好かないし、あの子が云々、どの子と云々、なんて手の姦しい会話には興味も無かったが、必要になるとは。
……仕方ねぇ。秘書艦や、特殊な任務を帯びてるやつに聞く路線は辞めだ。どうしたもんか。
……ン? 植え込み……ディルドがよく収穫されてた辺りだな。物音がしなかったか。
「誰かいるのか?」
声をかけるが、反応は無い。気のせいだったのか?
「川内? ようやく忍ぶことを覚えたか。わかったからさっさと部屋に戻れ」
応答はない。
「……それとも、答えるわけにはいかねぇってか? 侵入者なら容赦はできないぜ」
どこに居るともしれない、密偵だかコソ泥だかに警告を放つ。
半ば無意識のうちに、右手は腰に帯びた軍刀の束を撫で、しっかと握る。
鍔鳴りはなく、無音。普段抜かない刀。しかし手入れは抜かりねぇ。
警告に返事があれば、荒事にはならないだろう。
だが、無いならそれでいいんじゃねえか?
いや。
斬りたい。こいつを、無性に。
俺たちの敷地に入るとは、舐めた真似をされて、活きて帰られちゃ俺たちの沽券に関わる。
それ以上に。
戦えなくて、海にも出られなくて、少々持て余し気味なんだよ。
来い。悔いる間もなく、刀の錆びにしてやる。
沈黙が続く。動きも無い。ならば。
こっちから行かせてもらうまで!
動きが無かろうと、方向と距離は完全に把握した。植栽の中!
「ッらぁ!」
鞘から刀を抜きざまに、植栽ごとなぎ倒す。終わり。
――とは問屋が卸さないらしい。
引き裂かれる寸前、その陰は剣閃を飛び越えて、俺の頭さえ飛び越えて。
――できる、こいつ!
すぐさま振り向き、その着地点を見据え、構える。
と。
靴底が地面を削る音に続き、どさり、という、身のこなしの軽さに相応しくない着地音。
「ぐ……痛いぞ」
――は?
「お前……」
「若葉だ」
若葉。それは見ればわかる。が、頭にも、だらしなく着たスーツにも蜘蛛の巣が絡みつき、そこに植栽の葉――これは俺が斬って散らしたせいか――が張り付き、森の精もかくや、という装いになっている。
「どうしたんだその恰好」
「どうなっている、若葉は。よく見えないんだが」
「あ? なんだ、その……汚い」
素直にそう言う他ない。よく見りゃ全身くまなく煤だかホコリだがにまみれているし、顔はクマが濃すぎてパンダのようになっている。いやこの濃さはクマなのか? いやパンダはクマなのか? そんな話じゃない。
「それは仕方ない。さっきまで通気口に居たからな」
通気口? 何かの抜け道になってるのか? 全然聞いたこともないが。ここの警備、意外とザルなんだな……。
「で、通気口で何してたんだ、お前」
「脱出経路の確保だ。エージェントは常に退路を把握しなければな」
エージェント? ああ、密偵だか、工作員だか……だったか。なんかで見たぞ。で、なんで若葉がエージェントなんだ? よくわからんが。
「だが、バレてしまった以上、もう終わりだ。敵地で捕まった、あるいは殺害されたエージェントは、顧みられることはない。使い捨てられるだけだ」
どういうことだ……? そもそも使い捨てられるとは。
「誰に?」
「雇い主だ」
……誰だよ。
言ってることが奇々怪々というか、壮大すぎるというか。若葉は実際にそんな巨大な何かに巻き込まれているのか、事実無根なのか。
――だが、いずれにせよだ。通気口に潜入して出てくるなんて、滅多な艦娘ではできない技術なんじゃないか?
「おい若葉。通気口を伝ってどこまで行ける?」
「通気口伝いに駆逐艦寮の全フロア。そこから渡りの屋根を伝って本館。埠頭に繋がる暗渠を使っていいなら、出撃ドックから鎮守府の中、どこにでも出てこられるぞ」
「はぁ……大したもんだ」
思わず感嘆の声が漏れるが、若葉は全くの無表情。
だが、それは私情に流されず、仕事をやりきってくれるということかもしれない。これならいけるかもな。
「そうだ、若葉、お前のその潜入技術を買って頼みがある。提督の――」
同〇〇三一 長門
ああ、私にできることといったら、それくらいのものだ。
心配はいらない。
提督の仕事ぶり、しかと心に刻んでいる。
同〇〇四〇 若葉
危なかったが、無事帰還した。初めての共同作戦だったが、危機一髪というのも、まあ、悪くない。
なんだ、疲れた? 仕方ない。今夜は随分と騒がしかったからな。
身体が汚れ過ぎた?
確かにそうだ。その衣、新品だったのにもうくすんでいる。無茶をしすぎたか。
よし。
明日は船渠に潜入する。仕方ない。風呂に入ろうにも、お前の恰好は目立ち過ぎる。
ここまでが既刊「バイブ書道 1」の収録部分です。
続きをお楽しみに。