冥人、古き異国の刺客と雪原にて邂逅す 作:片栗粉
「で、こいつは何て名前なんだ? 仁」
やや引き攣ったサイードの声が、仁の耳に届いた。
腐臭と死臭をまき散らしながら、女の頭を付けた蜘蛛のような異形の化け物が、じゃりり、と鎖を鳴らしながら異様に長い手足で這い寄ってくる。その姿は歴戦の武士ですら怖気が走る光景であった。
「判らぬ。見た目からして、絡新婦(じょろうぐも)のようではあるが……こんな化け物見た事も無い……来るぞ!」
じゃ、と、巨大な手が振り上げられて、二人は大きくそこから跳んだ。派手な音を立てて、積み重なった骨や骸が拉げて折れる音が響いた。ぞっとするほどの膂力である。こんなものに潰されればひとたまりもないであろう。
――――ひぎぎああああ!
鼓膜が破れそうなくらいの大きな咆哮が、洞の中に響き渡って仁は思わず片耳を塞ぐ。見れば、サイードが絡新婦の腹の辺りに滑り込み、短剣を突き立てていた。
「どうだ! 化け物が!」
勝ち誇ったようなサイードの声が響いたが、それは長くは続かなかった。切り裂いた腹から、夥しき小さな蜘蛛が這い出て来てサイードの身体中に纏わりついた。
「うわ、何だっ! クソ!」
「サイード!」
小蜘蛛に気を取られていたサイードは、絡新婦の動きにまで反応できなかった。
巨大な掌で脚を掴まれ、腹の下から引き摺り出されたサイードは、そのまま玩具のように投げられた。遠くで、がしゃ、となにかが崩れる音が聞こえた。
「無事か! サイード!」
「大丈夫だ! 骨の山に突っ込んだだけだ!」
暗闇から聞こえてきた返事に胸を撫で下ろす。目の前には、怒り狂った絡新婦と、夥しい小蜘蛛たちが仁を囲んでいた。
「まずいな」
ざんばらの長い髪を振り回し、絡新婦がひび割れのような顎を開けた。ぞろりと黄ばんだ歯が剥き出しになり、濃い腐臭が吐き出される。
絡新婦の左手が薙ぎ払うように構えた。仁は飛び上がって避けようと身を屈める。
大振りの一撃ならば読みやすい。見た所動きもさほど速い方ではないだろう。
読み通りの薙ぎ払い。小蜘蛛を踏み潰しながら飛び上がる。いける、そう思った時であった。
視界の端に何かが映り、反射的に身を捩った。凄まじい風圧が、顔の目の前を薙いだのを感じて戦慄が走る。
ご、という重い音と主に、岩壁が激しく砕けた。
「鉄球か……」
手枷には、鎖と鉄球がついているようだ。あの掌の一撃に食わえて、重い鉄球のおまけ付きというわけだ。
「厄介だな」
絡新婦が悍ましい声を上げながら両腕を振り上げる。あの腕に捉えられれば、襤褸布のように容易に引き裂かれるだろう。仁は迷わず絡新婦の頭へ向けて駆け、そのまま滑り込むように身体の下へ潜り込んだ。小蜘蛛が襲い掛かかって来たが、構わず這いずり巨大な蜘蛛の下を抜けて背後に回ろうとした時であった。
「なにっ!?」
ぐん、と強い力が、前に進もうとする仁を阻んだ。もうすぐ絡新婦の身体の下をくぐり抜けられる筈だった仁の身体は、まるで何かに絡めとられたかのように動かなくなった。
「く、何だ!?」
渾身の力で地に爪を立てるが、無情にも引き摺り戻される。思わず後ろを見れば、己の両足首に何かが絡みついていた。銀色に光る幾重にも絡みついたそれは、糸であった。
向こうを見れば、ぞろりと垂れた黒い髪。そして腹の下を覗き込んで、にい、と嗤う巨大な絡新婦の顔があった。
ぞわり、と背筋に怖気が走り、仁は懐の苦無を抜いて、思い切り放った。
「腹が無理なら、これならば!」
苦無は巨大な体躯を支えていた六本の脚のうち二本に刺さり、絡新婦が悲鳴を上げて身体を仰け反らせたその時、力強い腕に襟首と袖を掴まれた。傷だらけのサイードの腕が仁を骨と骸の山の影へ引き摺って行く。
礼を言わんと彼を見た仁の口を、サイードは素早く分厚い掌で塞いできたので、いきなりの事に仁は戸惑った。
(喋るな)
眼だけでそう言われ、頷く。物陰で、息を潜めていると、巨大な影が途端に静かになり、きょろきょろと何かを探すかのような仕草をし始めた。
不意に、サイードが足元の頭蓋を手に取り、遠くへ放った。かしゃん、と遠くで頭蓋が落ちる音が聞こえる。
すると、大蜘蛛はかぁ、と口を開け、物凄い速さで音のした方へ這って行った。
「奴は眼が見えん。音に反応するようだ」
冷や汗を額に滲ませたサイードが囁いた。投げ出された足を見れば、右脚から血が滲んでいる。
「お主、脚を……」
「かすり傷だ。だが、さっきの衝撃で足首を痛めた。暫く走れん」
「そうか……」
言いながら、小刀で足に巻き付いていた蜘蛛の糸を切る。鋼かというくらい硬い糸だ。
冥人として、蒙古相手にあらゆる修羅場を潜ってきたが、このような人知を超えた化け物と戦うのは初めてだ。
しかし、こんな場所で果つるわけには行かなかった。
「火薬はさっきの化け物に使ってしまった。さて、どうしたものか」
こんな事態だというのに、サイードの表情には笑みすら浮かんでいる。仁は呆れながら異国の武士を見つめた。
「随分と余裕そうだが、何か策があるのか?」
「師はよく言っていた。困難な状況こそ、冷静になれとな」
「至言だな」
「目を凝らし、耳を澄ませ、五感全てを研ぎ澄ませれば、自ずと道は開ける」
その言葉に、仁はふと、ある事を思いついた。骸の影から顔を覗かせれば、巨大な絡新婦は苛ついたように腕を振り上げて辺り構わず骨や腐肉をまき散らしていた。
「サイード、少し手伝ってくれ」
そして何事かをサイードのの耳元で呟くと、仁はそのまま物陰から飛び出した。