冥人、古き異国の刺客と雪原にて邂逅す 作:片栗粉
仁は物陰から飛び出した後、絡新婦めがけて近づいていった。慎重に、物音を極力立てぬよう。
パキリ、と足元で小さな骨を踏み潰した音が鳴る。だがそれをかき消すように、りん、と澄んだ音が響き渡った。
絡新婦は恐ろし気な唸り声を立ててその方向をぐるりと向き、歩き出す。
(いいぞ。サイード)
幾つかの鈴をサイードに渡していた。脚を痛めて動けない彼に、陽動を頼んだのだ。絡新婦は眼が見えないが音に反応する。足音を消してくれるようなものが必要だった。
そろそろと、音の出処を探してうろつく蜘蛛の足元へ近づく。りん、りん、と辺りに鳴り響く鈴の音が、仁の足音をかき消してゆく。
息を殺して蜘蛛の腹の下を通り、脚の間を縫う様に屈みながら、時には這って抜けてゆく。音を立ててしまうのではないかと冷や汗が滲み出てくる。脚の間をすり抜けて、ようやく脇から出でた時、蜘蛛の顔がぐるりとこちらを向いた。
咄嗟に息を止め、一切の動きを止める。
ううううぁああいい。と恐ろしい声を上げながら、巨大な女の顔が近づいてくる。まだ気づかれてはいないようだが、もしも気づかれればあの黄色い乱杭歯でいとも容易く嚙み砕かれるだろう。
腐臭が一層強くなり、緊張で汗が噴き出す。ざんばらの髪が顔の前を掠めたが、仁は恐怖と緊張に耐えながら一切微動だにすることはなかった。
すると、もう一度、りん、と背後で鈴が鳴る。蜘蛛の顔が離れた。ほう、と安堵の息を心の中でつく。
もう頃合いだ。仁は手にしていた鍵縄の端を握りしめ、思い切り引いた。
「サイード! 引け!」
別の方向からも勢いよく縄が引かれる。サイードの持っていた縄と、仁が持っていた縄を持って、絡新婦の脚の間を通していたのだ。
身体を後ろに倒す勢いで、渾身の力を以て縄を引く。絡新婦の脚に幾重もの縄が絡みつき、不意を突かれた形でその巨体の体勢が崩れた。
それを見て、仁は太刀を抜いて駆け出す。ここまで体勢が崩れれば、頸に届くはずだ。
しかし、絡新婦は悍ましい雄叫びを上げながら、絡みつく縄を力づくで外そうと腕を振り回し起き上がろうとしている。
「く、駄目か……! !」
仁が諦めかけた時、蛇のような紅い炎がしゅるしゅると絡新婦に巻き付いて、燃え上がった。空気を震わせんが如く絶叫が辺りに響く。 恐らく、サイードの縄であろう。獣油を染み込ませた縄は良く燃える。
「行け! 仁! 」
サイードの声が響いた。腹を上に向けてもがき苦しむ絡新婦に向けて疾走する。
「おおおお! 」
燃え上がる頸へ向けて、上段に構えた太刀を振り下ろした。
ぶつり、と硬い骨を断つ感触が柄から掌に伝わる。
絶叫が止まり、ごろり、と大きな首が骨の山に転がっていった。
静寂の中、仁の荒い息だけが響いていた。
──護り手よ、相応しき技を示せ。
またあの声が頭の中に響き、仁は顔を顰めた。
辺りを見ればあんなにあった骨と屍の山は消え失せていて、大蜘蛛の姿も無い。
代わりに洞の真ん中で、首の無い骸がぽつりと合掌姿で座しているのみだ。
「一体……これは」
「おそらくは試練だろう。遥か西方のペルシアという国でもこういったものが見つかったという文献がある。【果実】を隠す為に尋常ならざる力を以てな。【果実】を手にするにふさわしいかを見る試練というわけだ」
向こうからサイードが右脚を引き摺りながら言った。仁は太刀を納め彼に肩を貸す。
「足は平気か?」
「何とかな。折れてはいないが、走り、飛ぶのは無理かもな」
「そうか……一度戻り手当てをしよう」
「はは、さっきとは逆だな。兄弟」
「だから俺には兄弟はおらぬ」
仏頂面で仁がそう言えば、サイードの低い笑い声がすぐ上から響いていた。
──────
サイードの足の手当てを終え、二人は最後の鳥居の前に佇んでいた。
「漸くこれで最後だ」
若干の疲労を滲ませながら、仁は白い鳥居を見つめた。
「そうだな。この試練を乗り越えれば目的は目の前だ」
サイードの言葉に仁は頷く。
「サイード、お主は此処で待っておれ。その脚では戦えまい」
「お前も肋骨が折れているだろう。長くは剣は振れんぞ」
二人は顔を見合わせて、ふっ、と笑った。
「では、行こうか」
「ああ」
やがて、二人の背中は鳥居の中の闇に飲み込まれて消えていった。
──────
鳥居を抜けると、そこは今までの試練の間とは明らかに違っていた。
薄い水が張られた石床には、沢山の真白く光る蓮の花がゆらゆらと浮かんでいる。黄金色の火垂るが水面の上をふわりと遊び、星空が地に零れ落ちたかのようだ。
まるで、彼岸の河原かと見紛う程に美しく、幻想的であった。
二人は暫し、その美しい光景に目を奪われていた。
「あれは……」
不意に、仁が声を上げた。白く光る蓮の花畑の向こうに、白い人影がゆらりと現れたのだ。
その人影は煙のように朧気であったが、こちらに来るにつれて、はっきりとした輪郭が露わになった。
恐らくは、具足を付けた武者の姿。堂々たるその姿に、二人は圧倒される。
だが、仁は別の意味で呆然とそれを見つめていた。
鹿角の兜、見覚えのある具足。太刀の構え。
幼き頃の記憶。思い出したくない悲劇。
救うことが出来なかった。
「父上……」
小さく呟かれたその言葉は、幼子のように酷く頼りないものであった。