冥人、古き異国の刺客と雪原にて邂逅す 作:片栗粉
意識が朦朧とする。
背が燃えるように熱く、痛む。
酷く喉が渇いていた。
身体を捩れば、ぎしりと両の腕に巻きついた太い縄が食い込み、吊り下げられた身体を苛む。
「やれ」
無慈悲な声が聞こえた。
ひゅう、と空を切り裂く音があたりに響いて、背に燃えるような衝撃と痛みに呻きを漏らす。
「ぐ……」
見たこともない革の紐で出来た武具は、蛇の様に自在に空を切り裂き、仁の背を容赦なく打擲していた。皮が破れ赤く染まった背からは、ぼたぼたと地面に紅い華が落ちていく。
「穢らわしい異教徒め。言え。あの異端者(アサシン)は何処へ向かった」
鉛色の鎧を纏った、金の髪を後ろに撫で付けた壮年の男が、氷よりも冷たい、酷薄な眼差しを此方に向けた。
視界がぼやける。男が、剣を鞘ごと腰のベルトから抜いた。肩の傷口へ鞘の先端をゆっくりとめり込ませる。
凄まじい痛みが肩を貫いた。
「ぐ、ああ……」
「全く。アサシンをあの役立たず共を使ってようやく釣りだしたというのに、手元に残ったのは、薄汚い異教徒とはな」
男が吐き捨てた言葉に、仁はのろのろと顔を上げる。己の肉親を、弟達を唯の駒としか思っていないこの男の存在が、仁には理解できなかった。
「……己は、人ではない」
燃え上がるような怒気を孕ませて、冷酷無比な男を睨みつける。だが、男は口元を釣り上げた。
「漸く話したな。異教徒。その≪言葉≫は智慧の実に触れたか」
顔色が変わった仁を愉快そうに見つめる。
「このサヴァン・ド・ボードワンを、愚かな弟達と同じに思わぬ方が良い」
見るものを凍てつかせるような灰蒼の瞳が、血まみれの顔を覗き込む。
サイードは、無事であろうか。
仁は朦朧とする意識の中で、ふとそう思った。
試練の洞窟から傷の手当てをしながら、満身創痍のサイードと仁は這う這うの体で外へ出た。
特に怪我の酷い仁は、サイードの肩を借りなければ歩けぬ次第だ。傍らのサイードが「もう少しだ、頑張れ」と励ます声が遠くに聞こえる。やはり血を流し過ぎたようだ。視界がくらくらと回る。
不意に光が差した。同時に澄んだ清涼な空気が頬を撫ぜた。洞窟を出たのだ。
外は冴え冴えとした蒼空と白銀が目の前に広がっていて、あんなに酷かった雪嵐がぱったりと止んでいる事に驚いた。
「風が、無い……」
城岳山は晴れていても雪を舞い上げるような風が常に吹いていた。だが、こんなにも静かな山は初めてだ。生物の営みすらも拒むような静寂が、白銀の世界を支配していた。
「仁、聞こえるか」
耳元に、緊迫したサイードの声が聞こえた。
「山の稜線に、人影が見える……かなりの数だ」
青と白の境目に、滲み出たかのように現れた黒い影が、ぞろりと並んで此方に近づいて来る。
仁の怪我の状態を考えると、追いつかれるのも時間の問題であった。
「サイード、俺を置いて行け」
痛みに顔を歪めながら、仁がサイードを見上げた。
「駄目だ……お前は此処で死ぬ運命では無い」
「お前は浅手だ……俺が引きつける」
「そんな身体で戦える筈無いだろう!」
サイードは仁を岩陰に隠すように座らせると、「借りるぞ」と言って道具袋から煙玉と鉤縄を抜き取った。
「……どうするつもりだ」
「少し敵を減らす。我らのやり方でな。すぐに戻る。此処から出るなよ」
「待て、これも持ってゆけ」
仁は懐から重たい鉄の塊を取り出した。蒙古兵から奪っていたてつはうだ。もしもの時の為に仁が取っておいたのだ。
「有り難く使わせてもらおう。兄弟」
そう言うと彼は足の怪我などものともしていないように、白い装束を靡かせて風のように駆けて行った。
アサシンの装束は白く、雪山に紛れるには最適であった。息の白さを悟られぬよう、呼吸を最低限にとどめ、宵闇を駆る獣のように低く、しなやかに駆け抜け、岩肌を登る。布を巻いたお陰で、痛みはマシになった。多少の無理をすれば走れない事はない。
断崖の上から、ざっと山の地形を把握する。分厚い雪に難儀しながら、兵達が近づいていた。
一度止まり耳を澄ます。微かに雪を踏み鳴らす規則的な足音、呼吸。まだ居場所は悟られていないようだ。
東側の少しだけ緩やかな山の中腹から横一列に並び、歩いてくる弓兵。一人では到底相手に出来ない数だ。
崖の上から様子を伺っていると、ぴしり、ぴしりと足元で何かが弾けるような音が聞こえた。
断崖にかかる雪庇(せっぴ)が、太陽の熱を受けて溶けている音だ。
あと少し。
もう少し近づいて来い。
豆粒のようだった兵達の顔が見える所まで来ると、サイードは己の姿を晒すように崖に立った。
断崖に立つアサシンの姿に兵達が騒然とする。矢を放つが崖に阻まれて届かない。
サイードはそれを横目に、仁から手渡されたてつはうを取り出し、後ろの雪の斜面に向けて思い切り投擲した。
間髪置かずに破裂音が青と白の境に響き渡る。
兵達がアサシンの不可解な行動に戸惑っていると、不気味な地鳴りが辺りから聞こえて来た。
「!!!」
サイードが素早く鉤縄を崖下の窪み向けて投げ、身を躍らせる。そのすぐ後ろを、雪煙を巻き上げ、轟音と共に白銀の津波が兵士達に向けて雪崩れ落ちてゆく。
岩壁にへばりついていたサイードは巻き込まれずに済んだが、雪崩の進路にいた兵士達はひとたまりもなく、一瞬にして真白い牙の餌食になっていた。
「上手くいったな」
ふう、と一息つくとサイードは岩壁を登り始めた。
仁の元へ戻ると、安堵したような表情で笑みを浮かべる彼の姿があった。
「随分と派手な音がしたが」
「少しばかり雪崩を起こしただけだ」
「少しばかりと言うのかそれは」
「五月蝿い奴らは片付いた。さぁ、山を降りるぞ」
サイードが仁の手を取り立ち上がらせた時、ひょうと短い矢が足元に突き刺さった。
周りを見ればぐるりと弩を手にした兵士達が、二人を囲んでいた。その数、三十は下らないだろうか。
「別働隊がいたか……クソ」
「サイード、聞け」
舌打ちするサイードの耳元に、仁が小声で何事かを話し始めた。
「全く手こずらせてくれたな。異端者よ」
そこに、奇妙な響きを持つ声が響いた。低く落ち着きのあるが、聞く者を甘く引き摺りこむような、そんな声。
銀色に輝く全身鎧に、紅い外套。明るい金色の髪を後ろに撫で付け、その相貌は蒙古や仁、サイードとも違う。灰蒼の眼と青白さすら感じる白い肌に彫りの深い顔。どこか浮世離れした異国の武人に、仁は噛み付くかのように睨み付けた。
「サヴァン」
サイードが忌々しげに吐き捨てた。だが、騎士は不気味な笑みを浮かべながらサイードを見つめた。
「ああ。マシャフの子か。根絶やしにしたつもりだったが、鼠はどこでも湧いて来る」
二人の背後に、体格の良い剛兵が立ちはだかり、弩兵が周りを囲む。
「【遺物】を渡してもらおう」
「断ると言ったら?」
サイードが挑発するかのように言うと、サヴァンの隣にいた弩兵が仁に照準を向けた。
「そこの汚らわしい異教徒が死ぬだけだ。どうだ? アサシンよ。我等の理念と貴様らの目的は同じはずだ。より良い世界を、完璧な世界を作り上げるという点ではな」
「世界を裏から傀儡の如く人を操り、騙し、殺すのがその方法か? 欺瞞だな。所詮虚構だ。そんな世界は」
「しかし君には選択肢が無い。大人しく投降すればその男の命も、君の身の安全も保障しよう。主に誓ってな」
苦々し気にサイードが歯噛みする。選択肢はなかった。
「わかった」
驚いたように仁がサイードを見上げた。その唇が、音もなく動いた。仁だけに分かる様に。
【まだ好機はある。それを待て】
仁の懐から、サイードが半欠けの【鏡】を取り出して、高く掲げた。
「ほら、受け取れ!」
陽光を反射しながら、鏡が宙を舞った。一瞬だけ、そこにいる者たち全ての視線が集中したその時。
ぼん、という音と共に真っ白な煙が辺りを覆い隠した。サイードが音もなく背後の剛兵の首筋に左手を当てる。
左手首から仕込み刃が飛び出し、何が起きたかも分からぬままに兵士は絶命した。
仁とサイードは、煙が晴れないうちに破れた包囲網から飛び出した。まだ、狼狽えるような兵士達の声とサヴァンの怒声が聞こえる。
サイードが傷の酷い仁を抱えて断崖の方へ走りだしたその時であった。
「ぐっ!」
飛んできた弩の弓がサイードの脚をかすり、二人は雪の上に投げ出された。
「クソ! 仁!」
「平気だ……行け! お主なら逃げられよう! 」
「……必ず戻る」
太刀を抜き放つ仁にサイードが死ぬなよ。と言うと、仁はふ、と笑う。
「心得た」
そして、サイードは真っ白な鷹のように両手を広げ、城岳の崖から身を躍らせた。