騒々しいセミの鳴き声も落ち着いてきた時期。
まだ残暑は厳しいが、それでも朝は涼やかだ。仄かな朝の香りを運んでくる風は微睡みを覚醒させるには十分だった。
「はぁ~、また今日から学校か」
だが、そんな爽やかさからかけ離れた辟易したような声が足下から聞こえる。
「学生だからな」
「にしても、アン殿が居ない学校に行っても張り合いがないぜ……ああ、アン殿! ワガハイ、今からもう恋しくなってきちまった!」
「次に会えるのはいつになるかな」
喚き立てる
対して、少年の荷物が詰め込まれているバッグにへさも当然と言わんばかりに滑り込んだ黒猫は、語気を強めて応答する。
「レン! 次の長い休みにも東京に行こうぜ! 夏休みの次となると……冬休みか!」
「その頃は受験に忙しいだろうけどな」
「フンッ、こういうのはメリハリが大事なんだよ! 勉強する時は勉強、遊ぶ時はトコトン遊ぶ! それが―――」
「怪盗の美学、か? モルガナ」
「ああ、その通りだぜ。レン」
この
そんな彼としっかり会話が通じる少年、雨宮 蓮は定期的に訪れる人生の転機を迎えようとする高校三年生だ。
大学へ進学か、はたまた就職か。どちらにせよ夏休みを終えた彼は、そろそろ進路をはっきりと決めなければならない時期を迎えていた。
世間では“夏は受験の天王山”とも謳われる一方、彼がしていたことと言えば―――“心の怪盗団”として、再び世界を救っていた訳である。
悪人の心を盗み“改心”させる。イセカイの存在を認知できぬ人々からすれば手口が不明な怪盗団の所業は畏怖の対象でもありながら、退屈で屈しそうな日常を賑わせる話題の種でもあった。
時には策謀にハマり、謂れのない罪を被らされそうになることもあったが、今回の事件も無事に解決。
そうして大切な仲間との絆を深めた波乱の夏休みを終えた彼は、未だ暴行事件の加害者としてのレッテルを剥がし切れていない地元へと舞い戻った。
すでに冤罪として処理されてはいるが、一度張られた加害者としてのレッテルは剥がし切れるものではないことは地元に戻ってからひしひしと感じている。
(茜の気持ちも分かるな)
モルガナを詰め込んだカバンを持ちながら通学路を進む蓮は、夏休みに出会った一人の少女との言葉を思い出す。
自分の言葉を信じてもらえず、無実の人が死に、その家族も罪人の家族として白い目を向けられる。少女の曝け出した思いの丈は、かつて強きを挫き弱きを助ける怪盗団にも拘わらず、目的と手段が入れ替わってしまい危機に陥った頃を思い出させる。
だが、もう意志を曲げるつもりはない。
イセカイが消え、歪んだ人の心を改める為に使役した反逆の
二度、世界を救った
それさえあれば世の中は少しずつでも良い方向へ変えられる、と。
蓮が通う学校は、どこにでもあるような普通の高等学校であった。
家から近い、大抵はそのような理由で同じくらいの偏差値の学生が集った普通科だけの中堅進学校。
保護観察中に通っていた秀尽高校と比べると制服がややお洒落に欠けている、という点を除けばおおむね似たような雰囲気であることが幸いか。
「にしてもこっちは田舎だな。渋谷なんかはビルばっか見上げて首が痛くなったってのに」
「東京と比べたらどこでも田舎さ」
「かもな。けど、遊び場がジュネスぐらいしかないってのも考えもんだよな」
さも当然のようにカバンの中に忍び込んでいるモルガナであるが、当然学校に猫を持ち込んでもよいという校則はない。
しかしながら、秀尽でも毎日連れて来ていたのだから今更だ。
それでもモルガナの声は特定の人間以外にはただの猫の鳴き声にしか聞こえない。つまり蓮とモルガナの会話を一般人が見ても、にゃーにゃー喚く猫に少年がしゃべりかけている構図にしかならない訳だ。それを微笑ましいと見るか危ない人間だと思われるかは感性にもよるが、場所が場所だ。あまり見られるのもよろしくない。
「あ……」
「ん?」
けれども、秘密裏に持ち運ぶには不用心過ぎたらしい。
通学路の途中、よく同校生徒が通る曲がり角から、一人の少女が現れた。
丸めた瞳から放たれる視線は、確かにカバンから頭だけを出しているモルガナへと向かっている。咄嗟に中へと潜り込むモルガナであるが、『にゃんこ……』と言葉を漏らす少女を見る限り、しっかりと一部始終を見られていたらしい。
「君は……」
「あっ、ご、ごめんね! おはよっ! 急がないと遅刻しちゃうよ?」
「ああ」
「それじゃ!」
逃げるように立ち去る少女を見送ると、むぅ、と唸るモルガナが頭を飛び出させてくる。
「ありゃあバレちまったな……」
「問題ない」
「おいおい、危機感が足りないぜ? お前、学校じゃあまだ札付きの扱いされてるんだろ? 教師にチクられでもしたら……」
「モルガナが言うか」
「それもそうだな」
納得する両名。
再び学校へと足を向かわせながら、彼らは話を続ける。
「あの生徒……同学年だったよな? 確か名前は……」
「
「そう、フクダだ! どことなくアン殿と似たような雰囲気を感じるぜ」
「杏一筋じゃなかったのか?」
「そういう意味で言った訳じゃねえよ! つか言われなくてもワガハイアン殿一筋だ!」
と、モルガナにからかいつつ、蓮は語を継ぐ。
「去年の4月からこっちに転入してきた生徒らしい。ハーフとは聞いたな」
「なるほどな」
「……」
「おいおい、また行きずりの女を引っかけるつもりか?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「どうだかな、この女誑し」
無礼極まりない言いようだが、それも互いを相棒や親友、あるいは家族のように思い合う気の置けない仲だからこそ吐ける冗談だった。
そうこうしている内に蓮は校門へと辿り着く。
多くの生徒が校門を潜って昇降口へと向かう光景は見慣れたものだ。
そんな中、何の気なしに時間を確認しようとスマホの電源をつける。
「―――?」
「どうした、レン?」
「……いや、何でもない」
「おいおい、新学期だぜ。シャンとしろよな」
「ああ、わかってる」
眉間を摘まみ、眠気を覚ますように頭を振る。
まさか画面に
そんな寝ぼけたことを抜かすつもりは毛頭ない。現に画面をスワイプしても、それらしきアプリは見当たらない。
単なる見間違いだろう。そう自分に言い聞かせた蓮は靴を履き替える。
新たな学期。気分は晴れ晴れ―――とまでは言わないが、否応なしに転機の始まりだと感じさせるものはあった。
福田 瑛。
プラチナブロンドのショートヘアーに碧色の瞳が眩しいヨーロッパ系のハーフ。親の仕事の都合で引っ越し、その流れでこちらの高校に転入したらしい。
ダンス部に所属しており、その日本人離れした美貌と快活な性格が合わさり、クラスの男子からは高い人気があるとのこと。
「今度の文化祭で踊るみたいだしよ、一緒に見に行かね?」
「ああ、楽しみだな」
「おっ、雨宮もそういうのイケる口!? いやぁ、いいよなぁハーフ……魅惑的な言葉の響きだぜ……」
休み明けのテストで死に体になったクラスメイトと共に、地元のジュネスに併設されているファミレスに来ていた。
冤罪が晴れたとは言え、噂が絶えない日常だ。それでも関係なく接してくれる友人というものは貴重と言う他ない。
テストの出来にこの世の終わりのような顔を浮かべた彼に、さり気なく朝の少女についての話題を振れば、次から次へと話題が出てくる。
かねがね好意的な評判。部活動のダンスにも熱心に打ち込んでいることから根が真面目であることも推測できるが、真ほど堅物という印象も受けない。
モルガナについて告げ口されて問題に発展―――という事態にもなりそうに思えず、ひとまず胸を撫で下ろした。
「杞憂だったな」
「ん? きゅう?」
「いや、急にファミレスで夕飯を食べていくって家に伝えてなかったと思って」
「真面目か! ってか、それよりテストでズタボロの俺を慰めてくれよぉ~」
「慰めなくても明日には元通りだろ」
「それな! いつまでも引き摺ってられっかっての!」
他愛ない談笑で盛り上がった後、今度はジュネスの一角に佇むゲームセンターで息抜きだ。
未だ人気が衰えないガンナバウトで一汗掻き、未だ自分の銃撃スキルが衰えていないことの確認をする。
―――というのは方便であり、単に慣れしたんだゲームでハイスコアを叩き出す度に飛び出す友人のリアクションを楽しむが故のセレクトだ。
今日もまた『チートだろ、それ!?』と騒ぎ立てる友人の隣でほくそ笑みながら、囁かな青春を謳歌する。
怪盗団の面々と過ごした非日常は掛け替えのない思い出だが、こうした普遍で普通な日常も乙なものだ。
「じゃあな! また明日!」
「ああ」
友人と別れた蓮はジュネスを後にする。
実家と学校の徒歩圏内の遊び場など大したものはなく、大抵の高校生はジュネスに足を運ぶものだ。
時間が時間とだけあって、帰路を進む間にもちらほらと顔に覚えのある学生も見かけた。
ただ蓮の家が佇む住宅街へと近づくにつれ、人気も少なくなってくる。
朧げな街灯に照らされている道を進めば、不思議と一つの場面がフラッシュバックしてきた。
(あの日もこんな風に静かな夜だったな……)
全ての始まりだった事件。
正義感から酔いどれから女性を助けたと思えば、難癖をつけてきた男と彼に指示された女性によって暴行事件の加害者に仕立て上げられた。
それが原因で保護観察の身となり、地元を離れざるを得なくなった。
結果として怪盗団の面々に出会えたものの、苦々しい経験であることには違いない。
―――それとも、あれは間違っていたのか?
(いいや、間違いじゃないさ)
しかし、心の内に潜むもう一人の自分が問いかける。
だからこそ胸を張って言い切れるのかもしれない。
あの日の選択が……。
「おい、レン! 聞いてるか?」
「モルガナ?」
「なんかあっちから女の声が聞こえるぞ」
「なんだって?」
モルガナの呼び声でハッと我に返る。
即座に耳を澄ませれば、確かに少女と思しき声が―――それと怒気を孕んだ男の声が聞き取れた。どうにも穏やかな雰囲気ではない。
「―――だ、誰か……!」
「急ぐぞ」
「おう!」
自然と体が動いていた。
駆け足で言い争う現場へと向かう蓮。彼の湛える真摯な面持ちをカバンから眺めるモルガナは、実に嬉しそうな
「お前も懲りない奴だな。前もそれで痛い目見たんだろ?」
「だからと見過ごせないな」
「それでこそお前だ。安心しろ、今度はワガハイがついてる」
「フンッ、心強いな」
かつての冤罪の二の舞にはならない。
そのことも頭の片隅に置きながら、不穏な空気が流れる場へと辿り着いた。
夜中ともなると、目の前の人間の顔すら満足に見ることのできない歩道。
「は、放してください……!」
何の因果か、かつての冤罪事件が起こった場所で彼女は助けを求めていた。
「あれは……フクダか!?」
猫らしく夜目が利くモルガナが、いち早く被害に遭っている少女の正体を口にする。
恐怖の滲んだ声音で助ける少女、瑛。しかし、体が強張っている所為か、助けを求める声はひどくか細かった。モルガナが居なければ聞き逃していたかもしれない。
彼女に絡んでいるのは赤らんだ顔を湛える中年男性だ。サラリーマン然とした風貌と漂う酒臭さから酔っ払いであると察するにはさほど時間を要しなかった。
軽やかに躍り出、瑛を掴む男の腕を掴む。
「な、なんだお前はぁ……!? 私はこれからこの子とだな……」
「失せろ」
「う、失せろだぁ!? このガキぃ……口の利き方がなってねえなぁ!」
敢て挑発染みた言葉を投げかけ、ヘイトを自分へと向ける。
案の定腹を立てた酔いどれは、瑛を掴んでいた手を放し、拳を握ってみせた。
そして蓮へと振り抜かれる―――が、するりと潜り抜けた当の蓮は、酔いどれがバランスを崩してもたついている間に瑛の手を取った。
「こっちだ」
「え? ちょ……!?」
華麗に切り抜けた蓮は、そのまま瑛を引き連れて近場の公園へとやって来た。
この時間になれば遊んでいる子供も居ない。あるのは寂れた遊具ぐらいだ。
「はぁ……はぁ……!」
「撒けたか」
「ッ……」
「……大丈夫か?」
息を切らして俯いたまま面を上げない瑛を訝しみ、蓮が屈んで覗き込む。
次の瞬間、彼は目尻に大粒の涙を拵えた瑛と視線が重なった。
「怖……かったぁ……!」
上ずった声を絞り出す瑛は、そのままはらりと一筋の涙を零す。
それを目の当たりにした蓮はどんな顔をすればいいものかと一頻り思案した後、出来得る限りの優しい笑みを湛え、彼女の背中を手で摩る。
「もう安心してくれ」
「っ……うん。―――ありがとう」
感謝。
簡素で簡潔で平凡な一言だった。
けれども、それだけの言葉で悶々と心の片隅に追いやられていたわだかまりが綻んでいく。
「こちらこそ」
相手からしてみれば変な応答でも、蓮はその言葉以外に告げる言葉を見つけられなかった。
本来なら警察を呼ぶ場面だろうが、僅かに心の奥に抱いている警察への不信感からか、通報するという選択は終ぞ頭に浮かばなかった。
代わりに泣きじゃくる彼女に親身に寄り添う。公園のベンチに腰掛け、近くの自販機で買ったコーヒーを手渡す。だがしかし、まだ夏の暑さも厳しい時期からかホットは販売されていなかった。
「コーヒーはホットに限るんだがな」
「?」
「
「……ぷふっ」
掴みは良かったらしい。僅かに瑛の頬が綻んだ。
と、冗談はさておき。
「落ち着いてきたか?」
「うん……でも、あんなこと初めてだったから。声、上手く出なくて……」
「大事がなくてよかった」
「本当にありがとっ。あの……雨宮 蓮くん、だよね?」
「知ってる?」
「うん、その……」
「悪い噂でか?」
「っ!」
何となく予想はしていたが今更だ。
「ちなみにどんな噂だ?」
「え? えっと……飲酒に喫煙、トドメに暴行事件で退学させられたって……」
「象牙の密売と無免許運転も付け足しておいてくれ」
「象牙? ……ふふっ、あはは! 何それ、初めて聞いた」
こちらでの噂は秀尽ほど尾ひれがついてないようだ。
ならばと自分から脚色してみたところ、堪え切れずに瑛が噴き出した。
「あー、おかしっ。ごめんね、雨宮くん。私、ずっと勘違いしてたみたい」
「何をだ?」
「その……冤罪とか何とかは聞いてたんだけど、やっぱり怖い人なのかなって。でも、話してみたら結構話しやすいかも。聞き上手って言われない?」
「照れるな」
とは言いつつも、表情に然したる変化はない。
ただ、伊達眼鏡をかけていた頃の癖で眼鏡を上げる仕草をした結果、指が空を切り、彼の滑稽さに拍車をかけた。
それを見ていた瑛は尚更笑みを深くする。赤く泣き腫らしていた頬も、今では笑いに笑って火照る体温で赤らむほどだ。
「鼻の下伸ばしてんじゃねえぞ、レン……」
と、ここで呆れた顔のモルガナが堪らず零す。
だが、それが彼女に
「……えっ!?」
「っ、ヤベっ!?」
「猫……嘘じゃなかった……」
「いや、猫じゃねえよ!」
カバンの中のモルガナ。
中々に珍妙な光景を目の当たりにする瑛は、ぽかんと口を開いたまま、にゃーにゃーと抗議するモルガナを見つめていた。
「……この子、雨宮くん家の猫?」
「ああ、モルガナだ」
「モルガナ……なんだか、その……凄いね」
「撫でるか?」
「あっ……今日はいいや」
「ガーンッ!!?」
猫扱いは不服だが、いざ撫でられないとなるとそれはそれでショックのようだ。
何とも気難しい自称人間の猫だが、彼の存在もあってか、瑛はすっかり普段の調子を取り戻したらしい。
「ふぅ……大分落ち着いてきたかも」
「家まで送ろうか?」
「え? でも……迷惑じゃない?」
「あんなことがあったばかりで一人帰らせるのは心配だ」
「……そっか、ありがとう。じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
花のような笑みを咲かせる瑛と共に、蓮(&モルガナ)は彼女と共に暗い住宅街を歩む。
「普段からこんなに遅いのか?」
「ううん。ほら、今月の末には文化祭もあるでしょ? 部活で出し物があってね、その練習で……」
「確かダンス部だったか」
「うん! 気合い入れて練習してたの。それで遅くなったら……」
「災難だったな」
「ホント。あんな目に遭うなんて夢にも思ってなかった」
『これからも一人で帰るのかぁ』と瑛は漏らす。
確かに夜道で男に絡まれたばかりで一人下校するのは不安だろう。
「なら、一緒に下校するか?」
「それは……雨宮くんが大変だよ。下校する時間も別々だし……」
言われてみればそうだ。いくら善意とは言え、押し付けがましいものでは、相手を困らせるだけだ。
「なら、困った時だけでも呼んでくれ」
「雨宮くん……?」
「その代わり、困ったことがあったらこっちからも頼る」
「……そっか! お互い様って訳だね! 私なんかが力になれるかどうかわからないけど、君も困ったことがあったら私に相談してね」
「取引成立だな」
「と、取引……? なんだかアブない言葉の響きだね……!」
目を輝かせる瑛。
彼女もまた多感な時期のようであり、取引として提示された内容には食い付かざるを得なかったようだ。
「うん、任せて! それじゃあ、これは私と雨宮くんの取引だね!」
「よろしく頼む」
明るい声と共に、蓮は瑛の家の前で別れた。
改心然り、人助けをした日の夜は気持ちよく眠りにつけるだろう。