煙と蜜の日常話です。歳の差やおじロリが苦手な方は注意です。
文治さんや姫子ちゃん女中さんたちの話し方が変かもしれません。なんでも許せる方向け。方言や当時の言葉なども実際とは異なる場合があります。
文治がいつものように花塚家にやってくると何やら香ばしい匂いがしてきた。
夕餉の匂いだろうか?
花塚の家には日頃から馳走になっているので
それにも慣れているはずだが、今日の匂いは格別美味そうな匂いなのだ。
きっと、家の女中たちが手によりをかけた夕飯を作って食卓に並べているに違いない。その女中たちに混じって姫子がいそいそと手伝いをしているのだと思うと目元がほころぶ。
引き戸を開けて御免下さい言うと
白足袋で軽やかにかけてくる小さな影が現れた。
肩にかかならないくらいの黒髪で頭には朱色のリボン。目に鮮やかな浅黄色の着物には白と赤の木瓜の花がところどころあしらわれている。
「いらっしゃいませ!文治さま」
「こんばんは」
嬉し気に目を細めて小さな少女ははにかんでみせた。文治が来るのを今か今かと待ちかねていたという風だ。
「丁度夕飯が出来上がったんです。食べて行ってください」
「ええ、そうさせてもらいます」
「まあ、文治さん。今日は姫子が料理を作ったんですよ」
姫子の母親瑞子が文治を見つけると文治と姫子を見やってからそう言ってみせる。
「姫子さんが料理を?それは食べるのが楽しみですね」
「お母さま!何で言ってしまうんですか!内緒にしておくつもりだったのに…」
頬を膨らませて抗議する姫子に瑞子はごめんなさいねえと返したものの反省する気はない様子。
「しかし料理ですか、姫子さんが作った料理ならきっと美味しいでしょうね」
「美味しい…といいのですが、何せ初めて作ったものですから、その、味がいいかはわかりません」
顔を赤らめてもじもじすると姫子は顔を俯け
沈黙してしまう。
それきりしん、と場が鎮まりかえるが瑞子が
「さあさあ、そんなところで固まっていないで
上がってください。」
「姫子は文治さんにお茶を出してあげて」
「はい」
てきぱきと指示を出す瑞子に従って姫子は台所へ行ったようだ。
文治の方は茶の間へ行きちゃぶ台に並べられた、
食べ物の多さに吃驚する。小松菜の辛子和え、
小魚の佃煮、茄子の揚げ浸しそれに漬け物、サバの塩焼き、等等。これでもかという風に料理が並べられている様は圧巻の一言に尽きる。
(姫子さんの作った料理はこの中には無さそうだな…どれも美味そうだが)
家に入る前に鼻腔に感じた美味そうな匂いは食卓に並ぶ料理の中にはないとすぐ文治にはわかった。なぜならあのふんわりとした匂いは汁物に違いないからだ。並んだ料理の中に暖かい汁物はない。ということは…
「文治さまお茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
頃合い良く茶を運んできた姫子が腫れ物でも扱うかのようにそっと湯呑みを文治へ渡す。
「姫子さんが作った料理はまだ出てないようですね」
姫子が屈んだ際に耳元に囁く
「ひゃっ!」
耳元に息がかかってしまい。驚いて身を引こうとした姫子の手元がわずかに狂った。
湯呑みが転びかけ、文治が咄嗟に姫子の手を掴みこと無きを得る。
「ごめんなさい…」
「いえ、怪我がなくて良かったです」
顔をほんのり赤らめ謝る姫子は自分の手が文治に握られていることに気づいた。
「あ…」
恥ずかしさに顔を更に赤らめる姫子。
しばらくじっと見つめ合う2人。気まずくなり先に姫子が口を開く。
「私が作ったお料理はこれからお出ししますので…」
お待ち下さいと言い切る前にぱたぱたと廊下から足音がし女中の龍子が顔を覗かせた。
「これはこれは土屋さままた、大胆なことをなさっておいでで」
文治が姫子の手を握っているのを見るなり冷たく言い放つと
「姫子さまの手をいつまで握っているつもりですか?いい加減手を離してください」
顔は般若の如く、怒り心頭一触即発の勢いでまくしたて
「いや、これは誤解で何もやましいことは」
「土屋さまには前科がありますから、信用できません。さ姫子さま台所へ行きましょう。」
文治の言い訳など聞く耳持たずで姫子を連れさっさと居なくなってしまった。
それをこっそり見ていた女中の星子と月子が
うっとりとため息をつきながら
「さすが、文治さまやるわねぇ」
「姫子さまの心を鷲掴むようなエスコオト!」
こそこそ囁きあっているのを文治は知る由もない。
〜台所〜
茶碗と箸とお碗を一揃い盆にのせたのを確認すると、龍子はお櫃に飯を入れさあ、夕飯の準備もたけなわというところであの男の顔がふと頭の中に思い浮かぶ。
「土屋さまには自覚があるのかないのか」
「自覚ってなんだあ?」
台拭きを絞る合間にこま子が口を出す。
「許嫁としての自覚です」
「「許嫁としての自覚っ」」
星子と月子が同時に言うとぷっと吹き出しお腹を抱えて大笑い。
「龍姐には文治さんが、姫子さんの許嫁としてふさわしにゃーと?」
「姫子さまはまだ齢12です。対して文治さんは30なのだからあんな風にべたべたするのはご法度ですよ。もう少し控えめにしていただけたらいいのだけど」
「そうかなぁ、おらは文治さんしっかりしてるし姫子さまにふさわしいと思うけども」
「そうよね!」
「私も文治さまはしっかりしてると思うわ」
うんうんと顔を合わせてうなづくかしまし娘たちにきっ!と睨みをきかせる龍子だが、丁度姫子が側にやってきたので優しい表情になる。
「龍ねーねーお料理を持って行っていいですか?」
小首を傾げて聞く姿のあまりの可愛らしさに怒りを忘れた龍子は仏のような笑顔を浮かべる。
「ええ大丈夫ですよ。さっきみたいに転ばないように気をつけてくださいね」
「はあい」
木のお盆に乗せた料理をいそいそと運ぶ小さな姿を心配そうに見送り小さく独りごちる。
「はあ、何故あの男が許嫁なのか…」
「いつまでも子供扱いは駄目よ龍ねえ」
「姫子さまは立派な淑女(レディー)になるため頑張っているんだから」
「レディー?」
眉を潜める龍子に星子月子が答える。
「ほら、英吉利(イギリス)では女性は立派な淑女になるため色々学ぶというじゃない。」
「あー!花嫁修業かあ。」
「だからこそ見張っておかないとだめなんです」
「あーもうっ龍姐の分からず屋!失敗しても放って置くというのが優しさひいては姫子さまの成長に繋がるの!」
「それ以上は野暮どころか馬に蹴られますよ」
「恋路を邪魔してるつもりはないのだけど、構い過ぎるというのも毒かしら」
龍子の悩ましげな独白に答えるようにちゃぷんと水の跳ねる音がした。
「文治さまお料理の用意ができました」
「ありがとうございます」
「熱いのでお気をつけてください」
朱塗りの厚みある腕が文治の前に置かれる。
「……赤だしですか」
ふたをあけると代赭(たいしゃ)色の汁物。
濃厚な味噌と香辛料のようなピリッとした香りが鼻腔をくすぐる。
「はい、龍ねーねに聞きました。名古屋と静岡では赤い味噌で味噌汁を作って飲むのだと。」
「ああ、成る程。名古屋と静岡は隣り同士ですからね。きっと名古屋の赤だしが静岡に伝わって飲まれているんでしょう。」
「そうなんですか、名古屋の食べ物が静岡に伝わっているなんて不思議ですね。」
目をきらきらさせて言う姫子。袖を口もとに当てる仕草が幼くも大人らしい雰囲気を醸し出しいる。
「では、いただきます」
文治は碗を持ち赤だしをひと口啜った。
「どう…でしょう?お味は」
着物の裾をぎゅうっと握りしめ姫子。
「美味しいです」
そう聞いてぱあと目を輝かせた姫子はよかったあとため息混じりに言ったあと「文治さまのお口に合わなかったらどうしようかと」
「本当に美味しいです。いい匂いがするのは山椒が入っているからですかね」
「そうです。料亭では山椒を入れて香りをよくしていると龍ねーねが」
「龍子さんは姫子さんにとって良い料理の先生みたいでなにより」
「文治さまは味噌汁が好きと言っていたので、ねーねに教わりながら作っでみました」
「ふむ。自分の好きな食べ物を姫子さんが丹精込めて作ってくれたと思うと嬉しい限りです」
黙っていると怖く見える武人めいた顔が柔和に綻ぶ。
「あっこれはみょうがですか」
再び赤だしに箸をつけて文治はこれはという風に目を丸くしてみせた。味噌汁の具として豆腐やわかめ、ねぎなど様々なものがあるが、みょうがを選ぶのは珍しい。
「み、みょうがは山田さんからの頂き物で、旬のものですし赤だしに入れたら美味しいのではないかと……」
もじもじしながら言う姫子の顔がまた赤くなる。
(さすがに赤だしにはみょうがは合わなかったかもし、不評だったらどうしよう?)
薄切りのみょうがを文治は口にしていとまなく
「赤だしにみょうが合いますね。私は好きですよ」
と言う。「安心しました。味がよくても具材があわなかったら料理が台無しになりますし」姫子はほっと胸を撫で下ろす。初めて作った料理を文治に美味しいと褒められたのはなんとも嬉しく心地いいのだろう。
「こんなに美味い味噌汁が飲めて私は幸せ者かもしれません。軍でも味噌汁が出ますがあまり美味しいものではないですから」
「喜んでもらえて私も嬉しいです」
伏し目がちに姫子は言うと卓の上にある料理を見た。せっかく夕飯を用意したのに文治に食べてもらっていないこれでは本末転倒ではないか。慌てて
「あ…文治さま。味噌汁だけでなく他のものも召し上がってください」
「ご飯をお持ちいたしました」
「龍ねーね?!」
「龍子さんありがとうございます」
突然背中から聞こえた龍子の声に驚く姫子と冷静に応える文治。すると更に後から月子と星子にこま子が現れる。「2人の仲睦まじいところしっかり拝見させてもらいました」「許嫁同士というより夫婦みたいよ!お熱いわ」「おらもどきどきしただよ」
「よかったわねえ姫子。文治さまに褒めてもらえて
」最後に瑞子が口を開くと姫子の顔がカッと赤くなった。「月ねーねに星ねーね、こまちゃんにお母さん皆今の見てたんですか…」
「ええ、見ていましたとも土屋さまが姫子さまに不埒なことをしでかしたら飛び出て行くつもりでした」しゃもじをぎゅと握りしめ三白眼になった龍子の口調は本気だ。だが、怖い顔をしたあと急に「あんな風に仲良さげなお二人を見たらそんな気もおこりません」「龍姐素直じゃねえなあ」「たまには素直になってみてもいいのにね」「素直だったら龍姐
らしくないじゃない」
「うるせゃー」
「だ、そうですよ姫子さん」
「へ?」
「私達は龍子さんのお眼鏡に適う関係だと」
「つまり?」
「瑞子さんと姫子さんの実の姐のような龍子さん双方に認められたということは心強い味方が増えたということです」
「味方ですか…そそうですねっ。龍ねーねーが味方なら安心です」
「ふふふっ将来の文治さんと姫子さんの行く末が楽しみね」
心からの笑顔でそう言うと瑞子はご飯食べましょうと皆を促しようやく夕飯がはじまった。祖父の敬次郎は会議があるからと留守にしていだため姫子、瑞子と女中たちそれに文治だけ白一点という形になったが特に困ることもなく楽しげな団欒の時間となった。こま子はもくもくと食事を平らげるのを見て瑞子は嬉しげに自分もと箸に手をつける。
先のこともあり、恥ずかしがる姫子をからかう星子月子をよそに文治は赤だしを5、6杯もおかわりするものだから龍子から窘められることになる。
食事をすっかり済ませ、後片付けも終わったころ
文治は縁側に座り物想いにふけりながら煙草を吸っていた。なんとはなしに煙草の吸い口から口を離し煙を吐き出すゆらゆら舞い上がり広がりながら消えるその様は秋の季節のようだ。
すっと現れ、いつの間にか消えるのに確かに存在したという色と匂いを残していく。在る思うと立ち消え、また在るしかしてその実体は靄や霧と同じなのだ。そこに在るのに触る事はできない。にもかかわらず煙の残り香が確かに在ったという証を残すのだ。秋も同じで夏の暑い空気がだんだん冷たい風に変わり過ごしやすくなっていくと木々の葉を色鮮やかに変えていく。実のなる木からは果物がなり豊かな実りをさずける。そうしてだんだん秋が深まると
いつの間にか木枯らしが吹き始め冬のはじまりを告げるその境界は曖昧でどこから秋でどこから冬なのかはっきりしない。なんとなくああ、冬になったのだなあと感じるくらいしかその瞬間を実感することはできない。しかし、秋の名残りは紅葉した葉や長い夜として確かに残っているのだ。
そんなことを長々と考えていると姫子がお盆に湯呑みと急須を乗せてやってくる。
「文治さまお茶をどうぞ」
「どうも」
「何をお考えになっていたんですか?」
「秋は儚いものだなと独り考えていました」
「儚い…ですか確かにそうですね。栗や柿が出来て
紅葉が色付いたと思ったらすぐ冬になりますから」
「姫子さんの秋は食欲からですかわかりやすい」
会話からおかしみを感じて文治が眉根を下げると姫子はむっと頬を膨らませ「今食べ物ばかりって思って笑いましたよね」
「いえ、秋の感じ方は人それぞれでしょうし食べ物から秋を感じるのもなかなか乙じゃないですか」
「やっぱり可笑しいと思っているじゃないですか」
膨れ面から一転、口角を下げてがっかりした顔をすると早く大人になりたいですと言いつつ急須から湯呑みにお茶を注ぐ。姫子と文治の分を入れると自分のお茶を飲みため息一つ。
「何故私はまだ子供なんでしょうか大人になりたくてもまだ子供。早く文治さまや龍ねーねのような大人になりたいです」
吸い止しを白い陶器の灰皿に押しつけ揉み消すと文治はふーと煙を吐き出して、静かに口を開いた。
「時が解決することもありますよ姫子さん」
「時ですか…三年間で私は大人になれるのでしょうか」
「なれなくても大丈夫です。三年で変われる人間などほとんどいません。私もそうです」
「だって3年後には結婚するんです。私が大人になれなければ文治さまにふさわしい奥方になれないのではと今から心配で心配で」
「少しずつ成長すればいいんじゃないでしょうか」
「少しずつ……ですか」
「今日だって姫子さんは私のために赤だしを作ってくれましたよね」
「はい」
「昔は作れなかったのではないですか?でも今日は作れた姫子さんはちゃんと成長しています」
「ありがとうございます。あまり成長していない気がしますけど…」
「ちゃんと成長していますよ。あんなに美味い味噌汁生まれてはじめて飲みました」
「そこまでのものじゃない……ですけど、文治さまがそう言ってくださるなら嬉しいです」
鈴虫の声が夜の静寂(しじま)に幾重にも響く中、夜は段々と更けていく。月は薄雲に覆われておぼろげにしか見えないが、そのぼんやりとした月明かりが文治と姫子の顔を青白く照らし出していた。まるで二人の未来がどんなに暗いものになろうと希望は絶えないのだとでもいうように。
二本目の煙草に火をつけ煙を深く吸ってふうと吐き出す文治。姫子がその横顔に見惚れているとふと文治と目が合う。
「どうかしましたか姫子さん」
「いえっ…そのへっへくしっ」
「おや?くしゃみですか夜風が冷たくなってきましたからねどれ」
板張りを軋ませて姫子の側へ行くと文治は自分の上着を脱ぎ優しく姫子の肩にかけてやる。
「あの大丈夫です。ちょっと鼻がくすぐったかっただけですから」
上着をかけられた時に姫子と文治の顔が近くなり姫子の胸がどきどきと高鳴る。これ以上近くにあったら心臓が破れてしまうんじゃないかと思った時に文治が離れていきほっとしたものの動悸はなかなか治らない。
「駄目です。女性が身体を冷やすと後で色々障りますし風邪でも引いて熱を出したら大変です」
「文治さまがお風邪を引いたらもっと大変です」
「ハハハ私は大丈夫です。多少の夜風は寒くもなんともありません。僻地へ行ったときに比べたらここは暖かいですよまだ」
快活に笑う顔に安心して姫子は言われるがまま上着を着物の肩に深くかけた。ほんのり文治の温もりが残る上着は姫子の身体をじんわり温める。
「ああそうだ今日は姫子さんに渡したいものがあったんです」
吸殻の火を灰皿で始末するとズボンのポケットからそっと文治は何かを取り出す。そして姫子の掌に乗せた。渡されたのは小さな小瓶で中に入っているものを見て姫子はぱあっと顔を輝かせた。
「まあ、これは金平糖ですね。小瓶に詰めてあってとても綺麗」小さな小瓶に入っている薄桃色、若草色、水色、白色などの金平糖を大事そうに姫子は抱えてみせる。
「私は甘いものは好まないのですが、姫子さんは甘いものがお好きじゃないかと思いまして金平糖を選びました」
「ありがとうございます。大事に食べますね」
「姫子さんが喜んでくれるのは冥利に尽きます」
にこ、と口の箸だけで文治は笑んでみせる。
姫子も同じように笑ってみせるが次第に笑みが消え悲しげな表情(かお)に変わる。抱きしめていた小瓶を更に強く抱えるとおずおず口を開く。
「たまに私不安に感じてしまって」
「不安ですか」
「文治さまが私の側から消えてしまうんじゃないかと不安になるんです。煙草の煙みたいに」
「姫子さん…」
「もし、そんなことになったら私…私どうしたらいいか」
「大丈夫です私は消えたりしません」
ふるふると肩を震わせて今にも泣いてしまいそうな姫子の小さな手を両手で包みこむと文治は姫子に囁いた。「でも、もし文治さまが私の元からいなくなって私のことを忘れてしまったらどうしましょう」と言い更に怖がる姫子を悟すように
「姫子さんの元を離れたとしても、それでも必ず姫子さんの元へ帰ってきます。そして貴女のことを決して忘れません約束しましょう」
「文治さん」
「なんといっても私はあなたの許嫁ですから」
「わかりました。文治さんは何があっても私の前から消えないし忘れない、離れていても必ず帰ってくると信じています」
文治の手の温もりを感じながら姫子は安堵し、幾分和らいだ表情になる。緊張感がとけたせいかこくりこくりと船を漕ぎ始め、身体がぐらりと傾いて文治の身体に寄りかかる。
「おっと」
「三年経つ頃には…色々な…お料理をつく…れ…ように」
目を閉じ寝言を言う姿はまだあどけない子供にしか見えない。しかし三年経つ頃には姫子はまた違う雰囲気の女性になっているのかもしれない。
「三年後には姫子さんと結婚か」
姫子が目を醒さないよう。身体を板の間に寝かせ、座布団を借りてきて枕にし、上着はそのまま掛け布団の代わりにしてやると文治はまた煙草に火をつけた。一服し煙を吐き出すと一人和歌の一首を口ずさむ。
「秋山に霜降り覆(おほ)ひ木の葉散り年は行くとも 我れ忘れめや」
文治はすっかり眠ってしまった姫子の顔に後れ毛がかかっているのを見つけるとそっと撫でた。煙草の火が紅くぽつりと夜に灯る。大正五年、名古屋の秋はすっかり深まり、もう少しすれば木枯らしが吹き始めそうだった。
〜一週間後〜
「文治さま」
花塚家に文治がいつものようにふらりと立ち寄ると
姫子がかいがいしく出迎えてくれた。今日の着物は
勿忘草が描かれている。
「今晩は姫子さん」
「あの、これを」
小さな手に大事に持っていた物を姫子は差し出す。
それは真白なハンカチだった。ただのハンカチではなく小さな刺繍が施されている。
「これは桜ですか」
「はい、あまり上手く出来ませんでしたが刺繍をやってみました。よければ使ってください」
顔を赤くしながら一生懸命話す姫子。
「ありがとうございます。大事に使わせてもらいます。とてもいい刺繍だ」
ハンカチを受け取ると愛おしそうに刺繍を見て
皺がつかないようズボンのポケットに仕舞う。
「いつか文治さまに素敵な浴衣を作れるように
頑張ります。今はまだ刺繍しかできないですが」
「姫子さんならいい浴衣をこしらえてくれるでしょうね」
「はいっ」
花が咲き誇るような笑顔で頷いて姫子は文治を見た。文治もそれに答えるように眦を下げて笑ってみせる。そんな2人をそっと見守る瑞子と女中達もまた暖かな笑顔を見せ合っていた。
終わり
おまけ
帝国陸軍第三師団
軍服を羽織り、軍刀を腰に佩き手袋をすると最後に軍帽を被り強い顔をして気を引き締めて真っ直ぐ立つ文治。その姿は姫子の前で見せていたものとは違い冷徹な軍人そのものであった。
なにしろ歩兵第六連隊を束ねる大隊長としての責務が文治にある。おおよそ七百名の兵の士気を損なわぬように目を光らせていなければならない。側から見れば鬼のような眼光である。
そのぎらぎらと輝く眼光がふっと緩んだ。ポケットから取り出した白いハンカチそれを見た途端、姫子の笑顔が文治の脳裏に浮かんだのだ。
「あら、もしかしてそれは天道少尉が言っていた
許嫁さんからの贈物ですか?」
三ヶ尻中尉が文治の手にしたハンカチをまじまじと見る。
「ああ、私のために繕ってくれたんだ。見事なものだろう」
「桜の刺繍ですね。素敵だわ。アタシも刺繍はじめてみようかしら」
「ゆくゆくは裁縫を上手くなって浴衣を作れるようになりたいと言っていた」
「まあ、少佐のために努力しているなんて!いい娘さん。大事にしてあげてくださいよ」
「勿論大事にするよ」
家同士が決めた結婚なのだということをすっかり忘れた風に文治は誇らしげな顔して言ってみせた。
おわり
久しぶりの投稿になりました。今回は新しいジャンルです。
長蔵ヒロコさんの煙と蜜の二次小説を書いてみました。
大正時代の歳の差恋愛のお話の二次小説となっています。
大正時代感があまり出ていないかもしれないですが、楽しんでいただけたら幸いです。登場人物の口調や時代に見あっていないものがあるかもしれません。※誤字脱字等ありましたらすみません。原作寄りに頑張ってみましたが違和感ありましたらすみません。漫画の繊細な情景を文章にするのはとても難しかったです。
※10月27日 居間を茶の間に訂正。
小説では表現がくどくなりそうなのでシンプルな形で書いています。ご了承ください。この二次小説や他の方の二次創作で煙と蜜という作品を知った方がおりましたら是非原作の漫画を読んで見てください。よろしくお願いします。