――目が覚めて最初に感じたのは強烈な眠気と軽い違和感だった。
時刻は六時を幾ばくか過ぎた頃、春先のこの時間故、外はまだ夜明けを示したばかりで日は完全に昇りきっておらず、わずかに白い空に星がまたたいていた。
しかし"男"にとってはこの時間に起きて出社の支度をするのは珍しい事ではない。
世間的には休日と言われる曜日ではあるが常に忙しいこの男には当てはまらなかった。
眠気眼を擦りながら、先程からけたたましく鳴り響くアラームを解除しようと枕元に置いてあるスマートフォンを手に取る。
いつもなら一回か二回で成功するロック解除の為の指紋認証がいつまで経っても成功しない事に違和感を覚えた所で、"男"はその違和感の正体にようやく気付く。
「――あれ、なんだこれ……」
自分の手とは思えないほど白くきめ細やかな小さな手が、大画面で見やすいからという理由で選んだ大きめのスマホを実に心もとなく支えていた。
普段なら片手で持っても親指が画面の端まで届くのに、今の自分の手では片手操作はおろか保持すら難しいのでは、と感じてしまうほどだ。
ひとまず両手持ちに切り替えてパスワード入力でロックを解除し、先刻から流れ続けている担当アイドルのユニット曲がサビに入り掛けた所でようやくアラームを解除する事に成功する。
ようやくアラームを解除する事に成功する。
薄暗い部屋が再び静寂に包まれ、一息付いた所で"男(?)"は第二の違和感を覚える。
着ている服があまりにも大きすぎるのだ。
寝間着用のTシャツと短パンなので、多少はゆったりとしたサイズのものを着用してはいるが、それでも襟ぐりから肩がはみ出そうなほどぶかぶかだったら寝起きの頭でも流石におかしいと気付く。
以前の冬の折、担当しているアイドルが事務所の屋上に行って「雪を見たい」と申し出た時の事を思い出す。彼女が風邪を引いてはいけないと思いデスクチェアに掛けておいたコートを貸して着させた上で許可をしたのだ。
自分で言うのもなんだが、体格にはそれなりに恵まれている方だと思っているのでその時は女の子が自分の服を着たらここまでぶかぶかになるのか、と笑ったものだったが、今の状況はそれにかなり酷似している――
そこまで考えて、ありえない予感めいたものがふと頭をよぎる。
「まさか、な……?」
答え合わせをするかのように自分の胸元に手を伸ばし、震える手でそこにある筈の硬い胸板に触れようとする。
――むにゅ
予期した感触は帰ってこず、代わりに柔らかくて弾力のある、その"男(?)"にとっては全く未知の感触が手に伝わってきた。
先程まで頭をよぎっていた嫌な予感がほぼ確信に変わる。
「嘘だろ……?」
思わず口に出た声は野郎の低い声ではなく、透き通るようなソプラノボイスで。
脚を思いきり伸ばすとはみ出てしまう程窮屈だったベッドは丁度良い広さで。
ツーブロック風味に短く整えていた髪の毛は背中に届きそうな程で。
まるで刑事ドラマでよくある犯行の証拠を突き付けられた犯人のような心持ちになる。
というか、どう考えてもこれは……
「女の子に、なってる、よなぁ……」
人間、とうてい信じられないような事が起こると却って頭が冷静になるもので。
その男、ではなく"女"は自分に起こった出来事をまるで他人事のように感じていた。
いや、まさしく自分が自分でなくなったのだから他人事と言ってもいいのかもしれないが。
そんなくだらない事を考えつつ、ひとまず顔を洗ってトイレにでも行こうかと思い。
やけに軽くなった四肢を起こして洗面台へと向かう。
そこで鏡に映った自分の姿を見て、女は顔を洗うまでもなくバッチリ目が覚めた。
以前の自分の顔立ちの面影を少しだけ残しつつも、パーツの整った、控えめに言っても可愛らしい、と思える風貌の女性がそこにいた。職業柄、可愛い女の子と接するのには慣れている自分でさえ、街中で見かけたらスカウトするか真剣に悩むであろう程だ。
顔ペタペタ触ったり、少しポーズを取ったりすると、当然鏡の中の女も同じ動きをする。
ここにきて、女は思わず膝をついて肩を抱き、言いようもない恐怖に身を震わせる。
まるで他人事のように感じていた「女になってしまった」という現実が重くのしかかった。
これからどうすれば良いのだろうか、仕事は?家族への連絡は?これまでの身分は?
先の未来への不安ばかりが頭に浮かび、激しい動悸で胸が苦しくなる。
そのまま気絶するように瞼を閉じた。
■■■■
いったいどれだけの間そうしていただろうか、相変わらず不安ばかりが頭に浮かぶがとりあえず起こってしまった事はしょうがない、と持ち前のポジティブ精神を発揮しひとまずは目先の問題、より具体的には先程から感じる尿意を解消してから考えよう、とトイレのドアを開けて便座に腰を降ろし、ズボンを降ろそうとする、が
(こうなったってことは多分、”ない”んだろうなぁ……)
正直、ズボンを降ろさなくてもそこにある筈のものがないという事実は感触でなんとなく察することができている。しかし、この目でそれを確認する決心がまだ付かずにいた。二十数年余り、苦楽を共に味わった友を失うという想像を絶する悲しみを享受するのには本来ならもっと心の準備が必要だ。
しかし、このままでは用を足す事さえできない。観念しろとでも言わんばかりに尿意が我慢できないレベルにまで達し始めているのを感じる。
尿意が我慢できないレベルにまで達し始めているのを感じる。
(覚悟を、決めるしかないか)
観念してズボンを降ろし、溜めていたものを解放する。
(うわ、思ったより飛び散るんだな……)
かねがね、母親や担当アイドルの化粧室に入っている時間がやたら長いなと思っていたが今ならその理由も頷ける。みんな苦労していたんだなぁ……
今ならその理由も頷ける。みんな苦労していたんだなぁ…
ちなみに、目を逸らしていたのでちらりとしか見えなかったが、つるつるだった。
■■■■
「さて、これからどうしたものか……」
ひとまず目先の問題を解決できた事に僅かな達成感を感じながら自分の部屋に戻り、目先の方針についてあれこれうんうんと考える。
(こんな格好で出社……は無理だし、とりあえず今日だけは休みを貰おう。幸いにも重要な打ち合わせとかはなかった筈……だけどなんて理由を付ければいいんだろうか。適当な嘘を付いて誤魔化しても、結局はバレる事だし……)
重要な打ち合わせとかはなかった筈……だけどなんて理由を付ければいいんだろうか
適当な嘘を付いて誤魔化しても、結局はバレる事だし……)
具体的な方針を立て始めた所で、事の厄介さに漸く気付く。
いっその事別の人間にでもなっていたならまだしも、あくまでこの世界での自分はまだ男という事になっている筈なのだ。その証拠に、免許証の写真は男の頃の自分のままだ。
(素直に打ち明けるしかないか……?社長やはづきさんなら、真剣に訴えれば信じてくれるかもしれないし、それに……)
信じてくれるかもしれないし、それに……)
目を閉じて、アイドルのプロデューサーという仕事を始めてからの記憶を蘇らせる。
研修が終わった翌日に、アイドルの原石をスカウトする為に街中を走り回った事。
事務所でコーヒーを飲みながらオーディションの応募資料を徹夜で作った事。
きらきらの衣装を身にまとい、ステージで光り輝く自慢のアイドル達の姿を見た時の事。
勿論、楽しいことばかりではなく苦しい事もあった。
オーディションに受からず涙を流す程悔しがった日もあった。
コミュニケーションに失敗してすれ違った日々もあった。
仕事でミスをして色んな人に迷惑を掛けてしまった事も……。
それでも辞めたい、と思ったことは今まで一度もなかった。
担当のアイドルをWINGという大きな舞台に連れていくことができた時のあの笑顔を、喜びを、今でも昨日の事のように鮮明に思い出す事ができるのがその理由だろう。
(……うん、身体は変わってしまったけれど、心はまだ俺のままだ)
少なくとも自分のやるべき事は変わらない。
後は皆がこの事実を受け入れてくれる事を祈るだけだ。
それが認識できたからか、先程までの迷いが嘘のような、決意を固めた表情を浮かべる。
(変な夢でも見たのかと言われたら困るし、事務所への連絡はもう少し時間が経ってからにしよう。それよりも、今、俺がやるべきことは……)
経ってからにしよう。それよりも、今、俺がやるべきことは……)
改めて、部屋に立てかけてある姿見に目をやり今の自分の姿を確認する。
折角顔立ちもスタイルも整っているのに、髪はぼさぼさな上に服が男物なので、かなり残念な女という感じだ。
ひとまず、人に見せられるような恰好にしないと外出もできない。
服屋に服を買いに行く服もないなんて事が本当に起こるとは思わなかったが。
そう思い、大手通販ストアの衣服ページを閲覧しようとスマホを取り出し、早く届いてくれると有難いな、なんて思った所で、ある重大な問題に気付く。
(……女性用の服や下着って、どうやって選べばいいんだ……!?)
■■■■
あれからネットの記事や以前購入したアイドル雑誌を参考に、どういう服を着れば恥ずかしい思いをせず問題なく外に出れるかを調べあげた。
恥ずかしい思いをせず問題なく外に出れるかを調べあげた。
流石にいきなりひらひらの服やスカートを着るのは抵抗があったので、あさひや咲耶が普段着ているようなボーイッシュなコーディネートを探し、気に入ったものをそのまま一式で購入するという荒技で乗り切る事にする。
気に入ったものをそのまま一式で購入するという荒技で乗り切る事にする。
サイズが合うかどうかは心配だが、ひとまずは外に出られるようにする為の服としてどうしても必要なので、迷ってはいられない。
そうこうしているうちに、いつも家を出る時間を過ぎてしまっていた。
事務所には本当の事を言おうか迷ったが、ちゃんと言いたい事を用意してからにした方が良いだろうと判断し、差し当たっては、
『体調不良により、休暇を頂きます。突然の連絡で申し訳ありません。
状態が落ち着き次第、改めて連絡をさせて頂きます』
とメールを送信してお茶を濁す事にした。
嘘を付いて仕事を休むなんて事と今まで無縁の人間だったので、罪悪感に心が痛んだが、突然本当の事を言っても混乱させるだろうし……と理由を付け自分無理やりを納得させる。
幸いにも、今まで真面目に仕事をこなしてきたからか、
『了解した。今日の事務は私とはづきでやっておくから、お前はゆっくり休め』
『プロデューサーさんにはそろそろ有給を消化して欲しいと思っていたんです~。
ですから今日は安静にしていてくださいね、部屋で仕事しちゃ駄目ですよ~』
なんて、社長とはづきさんから暖かい返信が帰ってきたものだから、今更ながら自分はなんて良い職場で働けてるんだろう……と感慨深くなった。
設立当初からずっとこの三人でやってきて、マンパワーの足りなさに悩んだこともあったけど、様々な困難を乗り越えて今では二人とも家族のような存在だ。
もし彼らに今の自分を受け入れて貰えたなら、それがどれだけ救いになるだろうか……。
なんて考えた所で連絡しないといけない相手が他にもいることを思い出す。
(確か今日はイルミネのレッスン日だったな。俺がいなくても問題ないとは思うけど、ちゃんと連絡しておかないと混乱させてしまう、よな……)
ちゃんと連絡しておかないと混乱させてしまう、よな……)
少し迷ったが、やはり彼女達にも本当の事はまだ言わずに先程と同様、お茶を濁す事にした。
~イルミネのチェイングループ~
『みんなおはよう、朝早くに突然ごめんな』
『情けない事に体調を崩してしまって今日はお休みを頂くことになったんだ。レッスンを見に行けなくなってしまって本当に申し訳ない』
『何か問題があったらはづきさんに言えば対応してくれると思うけど、緊急だったらこっちに連絡してくれても全然大丈夫だからな』
(まぁ、こんな所か)
職場の仲間だけでなく担当のアイドルにまで嘘を付くことになってしまった事は心苦しいが、今は我慢するしかない。
『プロデューサーが体調を崩すなんて、珍しいですね。今日くらいはゆっくり休んで、ちゃんと栄養の付くものを食べてください』
文章を送信してすぐに、灯織からの返信があった。少し棘のあるような言い方だが、灯織なりに心配して送ってくれたのだろう。
『わかりました。プロデューサーさん、私達の事は気にしないで大丈夫ですから、灯織ちゃんの言う通り今日はゆっくり休んでくださいね』
続けて真乃から返信と一緒にコミカルな鳩のスタンプが送られてきた。
真乃はチェインでも真乃って感じで、独特な雰囲気だから心が癒される。
『えっ!』
『プロデューサー大丈夫!?』
『お見舞いとか行った方がいいかな!?!?』
『心配だよ~!!!』
少し遅れて、怒涛の勢いでめぐるからの返信が送信されてきた。
今更ながら、チェインの文章一つにも性格が出ていて面白く感じる。
『めぐるちゃん、落ち着いて。プロデューサーさんが困っちゃうかも』
『あ!』
『プロデューサー、騒がしくしてごめんなさい』
『いや、心配してくれてるのが伝わってきて嬉しかったぞ、ありがとな』
『それと、動けない程重症って程でもないからお見舞いはなしで大丈夫だ』
『そうなんだ、うん、わかった!プロデューサー、お大事に!』
『疲れている時に摂取すると良い食材のリストを後で送りますから、良かったら参考にしてくれると嬉しいです。お大事に』
『プロデューサーさんの分までレッスン頑張っちゃいますね。どうかお大事にしてください』
(みんな……暖かいな、俺の周りにはいい人ばっかりだってことを実感するよ)
どこまでも真っ直ぐでひた向きな担当アイドル達の言葉に心を洗われるが、同時に、そんな彼女らに嘘を付かなければならないことへの罪悪感も大きくなっていった。
誤魔化せるのは少なく見積もってあと二、三日か。一週間はもたないだろう。
今まで盆や元旦でさえ長期休暇を碌に取ってこなかったのに、体調不良なんかで急に何日も休もうものなら理由を問いただされるか、或いは家まで押しかけられかねない。
だから、そうなる前に現状を説明して信じて貰える準備をしなければならない。
しなければならないのだが……
(腹、減ったなぁ……)
チラりと壁時計を見やると、短針がもう少しで11時を指そうかといった頃合いだった。
昼時には少し早いが、朝食を取らなかった事もあり、先程から微かに感じていた空腹感がいよいよ無視できないレベルにまで達し始めている。
ひとまず何か食べて腹ごしらえでもしようか……。
そう思って腰かけていたベッドから立ち上がり、キッチンの物色を始める。
目当てのものはすぐに見つかった。
(今頃みんな何してるかな……)
湯を注いで蓋をした今日の昼飯をぼんやりと見つめながら、今日会う筈だった283プロダクションの皆の顔を思い浮かべる。
(一人暮らしをする女の昼飯がカップラーメンってのも酷い絵面だよな。今度灯織か恋鐘にでも料理を教わろうかな……)
ある種の現実逃避だろう、そんなくだらない事を考え始める。
ふと視線を窓に移すと、物憂げな表情をしている女性の顔が映っていた。
この姿を自分だと認識できるようになるまでは、まだ時間が掛かりそうだ――
拙い文章ですが、感想等頂ければ今後の参考にさせて頂きます。