オレはいつもより、少し早起きした。
肌寒い。
まだ日が、完全には昇りきっていないようだ。
空は、夜から朝のグラデーションを作っていて、それはなんだか、一枚の絵画を見せられているように綺麗だった。
「……すぅ……」
「はあーーー………………」
標高4000mのメルクマウンテン。
その高さ故に酸素は薄いが、空気はどこまでも澄んでいる。
息をするのが、とても気持ちいい。
「……今まで」
「こんなに爽やかな朝を、迎えられたことがあったかな……?」
“ここにいてもいいんだ”と。
この、メルクマウンテンの頂上で、オレは“研師メルク”としていていいんだと。
そう心から思えるから。
朝がこんなにも、清々しいのかな?
『メルクさんは“メルク包丁”の名を、しっかり守ってますよ!!』
「……小松シェフ」
オレは、彼に握られた左手を、じっと見つめる。
暖かかった。
小松シェフの温もりが伝わってきて。
そして……
「……………………」
うん。
もう、認めてしまおう。
嬉しかった。
“研師”として。
そして、“女”として嬉しかった。
小松シェフの笑顔が、まぶたの奥から離れない。
胸も顔も、熱くなっているのが分かる。
自分がまさかそんな気持ちになるなんて、思いもしなかった。
……いや、違う。
“思わないように”してきた。
女を捨てたオレには、縁のないもの。
浮わついた気持ちなんて、“弱さ”の象徴。
そうやって、気持ちを塞ごうとしていた。
でも、もう。
それは止めよう。
オレはオレなんだ。
師匠のようには、いかないかも知れないけど。
オレはやっぱり、一人の女であり、一人前の研師なのだから。
“オレ自身”を認めてくれる人が、ちゃんといるのだから。
「ふぁあ……」
あ。
小松シェフも起き出したみたいだ。
眼をこすりながら、二階から降りてくるのが見える。
「おはよう、小松シェフ」
「おはよーございます、メルクさん……」
小松シェフはまだ眠たそうだ。眼がしょぼしょぼしている。
「今日も早いですねえ……もう研ぎを始められるんですか?」
「え?ああまあ、そうだね」
研ぎ……。
そうだ。
依頼された仕事は、まだ山ほどある。
でも今日はきっと、今までよりもいい研ぎができる気がする。
「今日はどなたの包丁が研がれるのかな~?ボク、楽しみです!」
小松シェフは、子どものように無邪気な顔で笑っている。
「あ!でもその前に、朝食の支度をしましょうか!ボク作ってきますよ!」
「そんな、いいよ小松シェフ。今日はオレ……」
……ここまで言いかけて、少し考えなおした。
「ん、んん」
咳払いを間に入れて、もう一度言う。
「わ、“私”がするよ小松シェフ。いつも作ってもらって申し訳ないし」
「!」
小松シェフも、さすがに気がついたみたい。
「メ、メルクさん、今“私”って……」
「ほら……その、わ、私も女でいてもいいんだって思えるようになったし、だから、オレって言うのは止めようかなって……」
『女だからどうとか、強さがどうとか、関係ないじゃないですか!!』
『“先代”は“先代”、“メルクさん”は“メルクさん”です!!』
「オ……私もその、女であることを無理に曲げない方がいいかなって……。自分らしくあるために、少しは女っぽくなった方がって……」
「……………………」
うう。
顔が熱い。
なんか今、すごく恥ずかしいこと言った気がする。
小松シェフに言われたから、オレから私になおすって。
まるでそれって、小松シェフに“女として見てほしい”って言ってるみたいで。
どうしよう。
言わなきゃ良かったかな。
「あ、あの~、メルクさん」
小松シェフが、顔を覗きこんで尋ねてきた。
「な、なに?」
「“私”って、言いづらいですか?」
「まあ……うん。ちょっと恥ずかしくはあるかな?」
それを訊くと、小松シェフはにこっと笑った。
「なら、無理に“私”なんて言わなくてもいいと思いますよ!」
「そ、そうかな?」
「はい!確かに“私”の方が女性っぽくはありますけど、でも“メルクさん”は“メルクさん”です!メルクさんが言いやすい言い方が、一番良いと思います!」
どきっ。
……胸が、締め付けられる。
小松シェフの言葉に、心が喜んでる。
こうまで、自分のことを肯定してくれるなんて、思わなかった。
ダメだ。
心臓が、バクバクしてる。
嬉しい。
嬉しい。
「メルクさん、どうしました?」
小松シェフが、心配して尋ねてくる。
「いや、なんでもないよ」
“オレ”は、なんとか平静なフリをして答えた。
「ありがとう小松シェフ。オレはオレ。言いやすい言い方でいようと思う」
「はい!その方がきっと良いですよ!」
小松シェフ……。
いつも、本当にありがとう。
あなたがいなかったら、オレ、ずっと苦しかったと思う。
あなたに会えて、良かった。
「さて、今日も腕によりをかけて作りますよ~!朝ご飯は一日の始まりですからね!栄養のあるものを食べなきゃ!」
小松シェフは、台所に走っていった。
黙々と頑張る彼の姿を、オレはずっと見つめていた。