恋姫星霜譚   作:大島海峡

101 / 165
董卓(四):将の果て、武の先(中)

 ――曹軍、来たれり。

 伝えられた時、賈文和の眉間にわずかに皺が寄った。

 他の者には分からぬ微細な動作ではあったが、霞にはその思惑が外れた……否、読みが甘かったことを知っていた。

 

 曹操軍の援軍は、ないと彼女は踏んでいた。

 一門の騎兵筆頭曹純が北の地に斃れ、各個の心理的には動揺し、戦略的には侵攻軍守備軍両方の再編が求められることになり、一時的に組織は麻痺する。そう思っていた。

 

「あのう」

 そこに、割って入った影に、両者は瞠目して距離を取った。

「ひどいなぁ、さっきからそこにいたじゃないですかぁ」

 およそ戦場には不釣り合いの、間を取った独特の口調。犬耳を垂らした頭巾に、青い髪。小柄な童顔に見合わぬ、女性的な肉付き。

 

 荀攸。字を公達。

 立ち位置的には副軍師である。

「一旦騎兵を戻した方がいいと思いますけどー」

 伸びやかな声に、詠は峻厳な声で返した。

「差し出口は無用。アンタは後方に別命あるまで待機」

 まだ何か続きそうな気配だったが、上司に聞く耳がないと悟るや「あーい」と承知して彼女は引き下がった。

 

「えらいキツい態度やないか」

「あいつは曹操の参謀荀彧の叔母……いや姪だったか。ともかく同族だからね。信じられるわけないでしょ。ボクたちがこうして後手に回るのも、きっとあいつのせいだ。今に化けの皮を剥いでやる」

(今は身内でいがみ合ってる場合ちゃうやろ)

 

 元より賈駆は自分だけが月の代わりに汚名を被り、天下を切り回せば良いと考えているフシがある。外様の頭脳を極端に嫌う。音々音が受け入れられているのは、あくまで彼女が恋の軍師であるためであろう。

 さらに言えば荀攸には、董卓入朝時よりその権勢を恐れた一派の密命を受けてその暗殺を図らんとした……という噂もある。彼女が月の幕下に加わってより詠はこれを除かんとしばしば画策しているようだったが、あのおっとりした外面ゆえに、確証が掴めないというのが現状であった。

 

「けどまぁ、今回の場合はあいつの言う通り退くべきやろ。恋を残した本拠は無事やろうが、それでも次の機会に」

「それは、出来ない」

 

 俯きがちになりながら姫軍師は即答した。

 まぁ確かに、と霞もそれは認めるところだ。端緒の計画は頓挫しその目標はすでに遠く、痛み分けたは良いものの、本拠長安は未だ馬騰に占領されたままだった。あれ以上同郷同士の流血を月が厭うたゆえのことであったが、やはり無理やりにでも追撃し、奪還しておけばよかったと、詠は後悔しているようである。

 

 董卓軍の多くは、涼州の民、(きょう)の民である。

 これ以上の継戦に意義を見出せず、帰路も断たれ拠り所もないとなれば、士気の低下は不可避であった。実際、脱走兵も出始めている。

 

 ゆえに、ここで南陽を落として一時的なものであるのを承知のうえで将兵の意気を高揚させ、確たる再起の地盤を形成しなければならなかった。

 その時機は、袁紹死して天下が動揺しているこの瞬間しか、なかったのだ。

 

「霞、透とともに曹操軍の迎撃に当たって」

「良えんか?」

「満寵の逆襲は、ボクが留める。その間に、どうか」

 

 思考の切り替えと決断の速さは、迂闊の危険を孕んではいるものの、詠の美徳であった。

 その詠が、最後に淀んだ。

 言わずもがな相手は精鋭。しかも袁術軍と共闘のうえ、挟撃体勢を取られつつある。

 それに、勝てる算段も立てられないまま挑まざるを得ないのだ。

 

 ゆえに、気位の高い彼女なりに、懸命に嘆願した。

 ――どうか、勝ってくれ、と。

 それに応じずして、なにが天下の武人か。

 

 霞は愛刀を担いだままに、か細く、かつ震えるその肩に手を遣った。

「楽に勝てると思っとらんが、勝てんと思わんままに戦うアホもおらん。心配すなや」

 そう嘯いて狂猛に笑い、地平の先に舞い上がる砂塵の尾を見た。

「見ィ、透を。アンタの指図も待たんとさっさとするべきことのために動いとる」

 小者に馬を引き立たせた彼女は、続けて言った。

 

「一度()()()アイツに『いくさ』で勝てるヤツは、そうはおらん」

 

 〜〜〜

 

 董卓軍先鋒を司るのは、徐栄こと透である。

 最速最鋭の機動力をもって曹操軍に急接近。虚を突かれた形となったのは、むしろ彼らの側であった。

 

「遅い」

 先手を務める二角あり。

 一手。青年武将。声を枯らして反撃を命ずる。

 勇敢。されども地に足のついていない将である。浮き足立った今であったなら余裕である。将に兵が馴染んでいない。

 

 一点突破あるのみ。

 

 退路なき涼州兵の馬蹄は、瞬く間に曹軍先鋒を蹂躙した。

 が、次いで『朱』の旗が徐栄隊の前に割り込んできた。恐らくは失敗すると読んで、あえてその先をあの若武者に譲ったのだろう。

 

「ふふん、露払いご苦労様ですっ、上杉さん! ここからは私の独壇場ですよーっ」

 

 賢き将、若き将。が、才気走り、武と念より理と利が先に来る。

 徐栄は軽く両翼を展開する動きを見せた。

 それを上回って覆い包まんと朱の隊の左右に兵と勢いを振り分ける。

 

「賢しい」

 ――見せた、だけである。

 

 たちまち徐栄は手合図によって翼を格納して紡錘の陣を作った。

 みずからが尖頭を努めた錐の一突は、薄くなった敵中央を革袋を破るがごとく貫いた。

 

「と、止まりなさい!!」

「ここはボクらが通さないよっ!」

 

 先よりも若い、否幼ささえ残る新参者が、ふたつ。歩兵がそれぞれ二隊。

 初陣ゆえであろう。恐れ知らずの覚悟をもって騎兵の真っ向に立つ。

 

 だがいずれも、剛の者。

 柔と軟、守りと速度。いずれも武の向きは違えど、いずれも堅守にして不退転の勇と見た。

 

「じゃあ、通りませーん」

 されども視野が狭窄である。

 

 小兵にして寡兵。突破は容易いが、あえて透はそれを避けた。

 一時は呆気にとられ、一瞬は踏ん張らんとしていた力が抜けた。だが、すぐに我に返って、追走を始めた。

 

 そこに偶然……否、必然的に、割り入った部隊があった。

「なっ!?」

 それは、エルトシャン隊であった。

 曹操軍到着の報を受け、反転して追わんとしていた袁術軍屈指の騎兵隊は、的確な時機を見計らい、董卓軍の中核を担う徐栄への横槍を狙わんとした。

 だが、それを見切っていた透は、あえて曹操軍の新参たちにその後尾を迂闊に追わせ、もつれこませてその進路を塞いだのだった。

 

「未熟」

 糸が絡まるがごとき混乱と喧噪を背に、透はそう断じた。

 

 なるほど曹操軍は、種々様々な将兵で構成されている。

 

「傍観」

 あくまで義理立てのために兵を派しつつ、見せかけるだけの曲者あり。

 

「論外」

 そもそも戦う気概さえ見せずに、威に負けて逃散する賊兵ども。

 

 だが、いずれも透に立ち向かえる者はいなかった。

 兵の練度、戦術の駆け引きはもちろんのこと、戦場の空気の変化を感じ取る鋭敏さ、瞬時に敵将の性質を見抜く洞察力、それに合わせて動きを千変万化させる柔軟な感性。

 

 彼女は、先鋒に求められる条件を十二分に満たした、いわば機先を制する天才児であった。

 

「不足不足不足! 曹操軍にどれほどの将兵あろうとも、士は一人もおらずや!」

 

 そう過剰な言をもって吼え立て、なおおのが隊に敵を好んで寄せていく。

 

「――さぁ、敵前線は引きつけてあげたんですから、きっちり本陣落としてくださいよ……霞姉さん」

「応、任しとき」

 

 その部隊の脇を、紫電が駆け抜ける。

 

 ~~~

 

 なるほど、詠の考えんとしていることは、霞にも分かる。

 呂布を見よ。張遼を見よ。そして徐栄を見よ。

 それぞれの領分において最強の者どもが揃う董卓軍こそが、今なお天下の冠たる軍勢であろう。

 新しい血などあえて入れれば濁るだけよ――と。

 

 霞は確かな自負と高揚のもと、軍馬を疾駆させた。

 薙ぎに薙いで敵の中陣を攪乱……ではなく、()()せしめた後、本陣に近づいた後は馬を止めぬままに飛び降りる。その虎眼が、すでにして敵総大将とおぼしき仮面の男の姿を捕捉していた。

 

 口上は無用。全霊の初太刀が名乗りである。その受け答えで総てが知れる。

 伸びあがった跳躍から、全体重と推進力を乗せた斬撃は、男の細身の刀身に防がれた。否、いなされた。

 さながら流水のごとく威力を押し殺し、やり過ごした力はそのまま刀の練りと粘りとなって、男の重い反撃に転用される。

 

 背を曲げて着地した霞に対し、涼やかに面の奥の双眸を細め、男はゆったりと剣を引き戻した。

「お見事な挨拶痛み入る。某はヤマトが國の右近衛大将にして、曹操殿が客将、オシュトルである」

 

 ……名乗られたからには、こちらも不本意ながら返さざるを得ない。

 確かに、このままでは無名でどちらかが命を落とすことになるだろう。そうなるには、惜しい男ぶりであろう。

 

「張文遠。生は并州雁門は馬邑……アンタが総大将っちゅうことは、剛勇夏候惇はおらんのかいな」

「如何にも」

 

 と、これまた馬鹿正直に肯定する。

 

「某が相手では、不足かな?」

 問い返され、虚を突かれたのも束の間のこと。

「ンなワケあるかいな、呆けが。余りあるくらい、美味しい獲物や」

 霞の口元には望む望まぬに関わらず、黒生鉄心と相対した時と同等の綻びが生じていた。

 

(きっちり落として来い……か。そらちと難儀な仕事やったわ、透)

 

 ~~~

 

 オシュトルと張遼の剣戟の喧噪が、すぐ傍らに聞こえてくる。

 かつて華雄が仕留められた森林に陣所を設けた剣里は、そこに机を置き、置き石を施した文書や竹簡を並べ、それら一切に凝らした目を通していく。

 

「徐栄の部隊、こちらの第四陣まで突破、止まりません!」

 

 という伝令の声も、どこか遠くに感じていた。

 

「――おい、聞いているのか?」

 その裏手から、声が聞こえた。葉陰の中に、ロイドの姿が見えた。

「聞いてます。我が方の内に、討たれた将は?」

「いない。皆、敗走中だ。指示は飛ばさないのか?」

「なら結構。方々に散った将に早馬を飛ばせば、気取られます」

 

 それも、剣里にとっては予測済みだ。

 これら目の前に広げた彼女の戦歴から判断するに、徐栄は敵を壊滅させるよりも、己の才覚を表現する気質の将だ。おそらく敵の首級を挙げることには固執すまい。何より、一個の部隊にかかずらうことは、彼女に与えられた陽動と速攻という任にそぐわぬ行いではないか。

 

「ではどうやって策を伝える?」

「すでに」

 

 剣里は視線は報告書に固定させたまま、ロイドに答えた。

 

「『それぞれの裁量をもって徐栄に当たり、もしそれで仕損じた場合は指定の地点にて待機せよ』と命じてあります」

「わざわざ総大将でありながら囮を買って出たオシュトルもそうだが、お前もお前で不遜な小娘だな」

 

 葉擦れの音に交じり、舌打ちが聞こえた。

 

「味方が失敗するのも織り込み済みか」

「そうでもしなきゃ、誰も軍師見習いの言うコトなんて、聞きゃしないでしょ?」

 

 確かに情愛と恩徳を以て信を得ていた師、司馬徽の意と教えには反する不誠実な手口だが、それでも失敗は許されない。命令はなんとしても実行してもらわなければ困る。故にこうしてなお、策定めた後も最終確認は怠らない。

 自分は、賈駆よりも徐栄よりも、朱里よりも雛里よりも、如何な智者よりも劣っているのだから。

 

「お頭、各隊所定の位置に着きました」

 ロイドの諜報部隊の一人がそう告げた。

 

 思い悩む時は了った。

 今は唯、実行あるのみである。

 

 徐元直は腰の撃剣を抜き放ち、机を断ち切った。

 

「張遼を徐栄より分断、包囲する――閉じろ、八門(はちもん)金鎖(きんさ)


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。