敗残兵……と思われていた兵が、曹軍本陣に流入していく。
彼らを蹴散らしたがために、がら空きとなったと思われていたそこは、あらかじめ拵えられていた木柵に沿って瞬く間に人の波で埋まり、亀甲がごとき陣形、あるいは一個の城砦のごとく変化した。かえって孤立したのは、総大将目当てに突っ込んだ霞だ。
「ヘェ」
透をして、その鮮やかな手際に嘆を放ったほどである。
どうして中々。熟練の士や智者は軒並み北で出払ったと思っていた。事実、透の前に立ちはだかった者らは皆、ついぞ知らぬ新参の顔ぶればかりだ。
だがそうした味方の未熟さ、連携の甘さ、負けを込みで兵を動かしていたとするならば、この奥に引っ込んで姿を現さぬ軍師、他とは異なる切れ味を持つ。
「
透に焦燥はない。嵌められたという感覚さえない。
彼女は己が直感と眼力に身を任せ兵を任せ、その陣地へと吶喊した。
~~~
八門金鎖。
奇門遁甲の理術になぞらえ、休、生、傷、杜、景、死、驚、開より成る陣にて形成されている。
如何な大兵と言えども傷門、休門、驚門より出づれば損害を被り、杜門、死門より入れば滅びを免れず。正しき進路を知らねば、無敵の構えである。
反して、それを突かれれば数百の敵であったとしても脆く乱れる。
そして……
「徐栄隊、生門、景門、開門に三手を分けて突入!」
「いずれも突破され、二段目も程なく突破される模様!」
徐栄は、その三つの弱点のうち、いずれもを当てて見せた。
これといった血統も家名も持たぬ、常在戦場の人である。
然るべき門を叩いて軍学を修めたという話は、ついぞ聞いたためしがない。この八門の解法など、事前に知るべくもないのだ。
だが、それでも彼女はそれを当たり前のごとく、最適解を以て破ってのけた。それはひとえに、彼女自身の才覚ゆえであろう。
――天才はいる、悔しいが。
徐庶は、剣里は、偉大な後進に追い越されつつある秀才は、そのことを知っていた。
「好きなだけ、誇ってなさい、勝ってなさいよ」
止まらぬ徐栄。その威に驚懼する司令部に在って、少女は掌の内に、血の滲むほどに爪を食い込ませた。
しかしその言葉、果たして徐栄のみに向けられたものであったのか。
~~~
徐栄隊が本陣中央を直撃すると、霞は周囲の状況そっちのけで、
呆れと同時に、「あー」と思わず透の口より声が漏れる。
だが救わないわけにもいかず、手勢とともにそこへと割り入った。
「おう、透か」
「透か、じゃあないんですよ。指揮そっちのけで愉しんでまぁ。ほら、さっさと仕切り直しますよ」
そう言って手を差し伸ばし、霞を引き上げ我が身の後ろへ乗せる。
元より、透自身が小柄で身軽ということもあるが、さすがは涼州の名馬。二人分の体重によく耐えた。
馬首を返した彼女たちに追いうちをかけんと、仮面の敵将が剣を振るう。
だが、他二方より迫った別動隊が、それを取り囲み、そして受け流して徐栄本隊へと合流した。
討ち取りはしない。個人的な武には疎いが、それでも張文遠と長時間渡り合ったという事実が、透に敵しがたき猛者ということを教えてくれていた。かかずらっていれば、包囲されるのはこちらの方だ。
高潔さゆえか。あるいは袁術への義理立ては果たしたということか。
その男も、一定以上は追っては来なかった。
「武関で言ったこと忘れたんですか」
と、未だ混乱収まらぬ雑兵どもを蹴散らし、南西へと向かいながら、透は小言を続けた。
「小うるさいこと言うなや、アンタだってはしゃいどるくせに」
敵の刃を受け、反撃していきつつ、霞は否定しない。
それについては否定はしない。
「自分のそれは嗜好と実益を兼ねてるんですぅー。霞姉さんのは、ただの自己満足じゃないですか。どうせ深入りなんてする気がないんだから、曹操軍なんてテキトーに散らせばそれで良いんですよ。それが敵総大将と一騎打ちなんて」
「わぁーとるわ! くどくどくどくど、アンタはウチのオカンか!」
「くどくども言いますよ……本当に、もったいない」
知れず、透の口からはふぅ、と息が漏れる。
――目と狙いは良かった。
頭の内、記憶を収めた部分より、声が反芻した。
――その後の詰めが甘い。お前の考えに、兵がついて来ていない。
否、とその異見を拒む。
それは改めた。自分の思考速度に耐えうるだけの部隊を鍛え上げた。
だから、詰めが甘いなどと、いうことは。
――その悪癖を改めねば、次こそ命はないぞ。
狼の幻影を見たその先に、門の口が見えた。
あれは、なんだったのか。
広がる地平、悪夢から醒めたような心地で透は肩の力を抜き、手綱を緩めた。
刹那、正面で何かが閃いた。遅れて、音が轟いた。
涼州の騎兵が、何者にも屈することのない無敵の部隊が、先より崩れ落ちていく。
「これ、は……」
華雄の時と同じ兵器。
何故、曹操軍に配備されている?
指揮しているのは、紫髪の二つ結びである。
「っしゃあ! 細工は流々、仕上がり上々! 鉄砲隊二番組、ってぇ!」
霞とよく似た訛りでもって指揮すると、再び前方へ光が爆ぜた。辺りには濛々と煙と血が立ち込める。
その幕の内に、ぼんやりと旗が挙がる。
『丁』と『李』。そして『徐』。未だ陣より出切らず立ち往生を喰らう董卓軍を、三方より挟み込んだ。
――そして、先陣を突っ切って、大斧を手にした鬚面の男が、野獣の咆哮とともに差し迫る。
~~~
剣里には良く分かっている。
自分は天才にはなれない。自分は劣っている。自分の学問は報われない。自分の努力は報われない。
自分は王にはなれない。王佐にはなれない。
子房にも陳平にも韓信にも蕭何にもなれない。
楽毅にもなれない。管夷吾にもなれない。晏嬰にはなれない。子産にもなれない。商鞅にもなれない。
よしんば名君に出会えたとしても、きっとその傍にあって支える者は自分よりも遥かに優れていて、自分よりも寵と信を置かれ、そして劣った自分は、何かと理由を付けて、惨めな劣等感とともにその幕下を去るのだろう。
――だが、それでも。
どんな天才相手にも、ただ一度だけ上回る可能性は、誰にだってあると思う。神がいたとしたら、我が天命にそれぐらいは用意してくれているはずだ。でなければ、あまりに惨め過ぎる。
勝ち続ける必要などない。勝り続ける必要などない。
ただ、生き抜いて戦い抜いて、最後に一度、相手に致命的な敗北を与えれば良い。
今がそれだ。
「あんたは、八門金鎖の弱点を即時に見抜くほどの天才……逆に言えば、あんたは敵陣の脆弱性を看破するがゆえに、必ず出る時に
となれば、対処は簡単だ。その口に伏兵を設けて一撃のもとに覆滅すれば良い。
そしてかの臥竜鳳雛にも言えることだが、得てして天才とはどこか童子じみた部分を持つ。
――いや、朱里も雛里も未だ童女なのだが。
八門金鎖という玩具を与えられた時、徐栄はその謎解きに夢中になった。そこまでは万全であった周囲への警戒と集中力が緩んだ。
果たしてその名のごとく、生より出でて、死へと至る。
~~~
陽が沈む。遊びの時間は終わりであった。
「クソがっ!」
霞は毒づいた。
敗兵をまとめて川面に沿って、片腕で手綱を取る。透は、逆に後背に回していた。
「あの熊男、好き放題やりおって」
猛者との三連戦は、さすがに霞にとっても限界であった。
まるで息をつかせぬ斧の連撃は、もはや武というよりも暴の化身であった。人のかたちをした、人以外の獣と殺り合った、と言ったほうが良かろう。恋でも、あそこまで力任せで野卑ではない。
少なからず手傷を負わされた。利き腕も、最早感覚がない。あるいは斬り落とされたのではないかと錯覚したほどであった。
「にしても、さっすが透やな」
あの死地においても、その進退は鮮やかで際立っていた。
彼女の采配でなければ、全滅していたかもしれないところを、半数以上は救い上げたのだ。
これを名将と呼ばずしてなんというのか。
「それは、良かった」
――直後、透の身体の感触が、霞の背から消えた。
水音が聞こえた。霞の総身を、雹が張ったがごとき怖気が襲った。
「――おい」
川面へと力なく落馬した透を顧みた霞は、先ず声をかけた。
だが反応を見せない少女に、慌てて下馬して助け起こした。
ここまでは正確無比に彼女を支えて来た兵士たちも、初めて動揺した。いつ敵が追撃してくるかもわからない状況下。にも拘わらず、危惧をかなぐり捨てて、彼女へと駆け寄った。
「ここまで、頑張ってみましたけど、もう駄目みたいです……例の、兵器に腹貫かれましたし、首の脈もあの獣人の斧にやられてます」
霞らの動揺とは裏腹に、自己診断さえもしてのけるほどに透は冷静であった。
だが、今なお水に流れていく血の量は、とうてい助かるほどのものではなかった。
「死ぬんか、お前ほどの
渇いた独語とともに、霞は認めざるをえなかった。
ぐっと顔をしかめる彼女に、透は儚い笑みと澄んだ眼差しを返した。
「ほら、言わんこっちゃない。突っ込んで敵将の首取ろうとしたところで、戦局なんて容易に覆らないんですよ」
「……すまん。ウチが逸ったばかりに」
将ではなく、武人たることを選んだばかりに。
「なんてね」
透は咽こみながら言った。
「分かってますよ、これは自分のしくじりです。敵を侮った報いですよ。だから」
「だから……大人しく死ぬっちゅうんか!?」
霞は透の上体を揺らした。そうして乱暴に扱わなければ、そのまま彼女の魂魄がどこかへと霧散してしまうような、そんな恐怖に駆られた。
「アンタがおらんようになったら董卓軍はどうなる!? この軍を誰が支える!?」
感覚がないために加減が出来ず、過剰な力みの入った霞の腕を、そっと透は握り返した。
「それは、あんたがやれば良い」
天才児の総身より、力が抜ける。血のぬくもりが消えていく。
首の据わらない嬰児がごとく、くったりと霞に身を預けながら、
「たしかに、姉さんの武は恋姉さんには遠く及ばず、大軍を指揮するだけの器量もない。数千数百がせいぜいでしょう」
「……言うなや、これから託す相手に、そないなコト」
だが、その空気を読まず場の流れを汲まないあたり、最期まで徐栄らしい。
「――それでも、姉さんは一流の武を持っている。将器がある。華があり、敵味方を問わず相手を知ろうとする情義がある。そして何より、天運がある……ゆえに、その数千数百の部隊は、きっと最強になれる」
口からこぼれた血泡をぬぐい、肺腑に溜まる血反吐を戻しながら、それでも少女の遺言は止まらない。
「だから姉さんは生きて……生き残って、そしていつか見せてください。兵の差、器量の差、ありとあらゆる不条理を覆すような奇跡の戦を、張文遠の、大舞台を」
「……かんたんに言うなや」
どうしろというのだ。どうやれば、この少女の死に報いることができるのだ。
「馬鹿だなぁ……かんたん、じゃあないですか」
赤い舌を出して、透は目を細めて返した。
「最後まで生き抜いて戦い抜いた果てに、舌出しながらテキトーに言ったモン勝ちですよ、そんなの」
そんな詭弁とともに、瞼を下ろす。舌を戻し、朱の抜けた唇から震える呼気を吐きだしていく。
「あぁ……でも、悔しいなぁ……まだ、いけると思ったんだけどなぁ……きっと、これから先もっと時代は楽しくなって……いっぱい、あそべた、はず、なのに……あの、
霞は何も言わなかった。ただその無念を汲んで、力一杯に小柄なその身を抱きすくめた。
「後悔を抱いて、ここに堕ちてきたのが天の御遣い、なら、この後悔は、どこに堕ちていくのか……? もし、また生まれ変わることがあるならきっと……月さまや、霞姉さんたちと……ともに」
言葉が絶えた。命が絶えた。
少女のかたちをした彼らの軍神が死したと知った時、兵たちの間で嗚咽や慟哭が漏れ始めた。
それらがついに、霞の感情をも決壊させた。
未だ戦場である。それは深く強く承知している。
それでも霞は、吼えるがごとくに哭いた。
【徐栄/透/恋姫(オリジナル)……戦死】