袁術(五):巣立ちの片鱗
袁術軍においては、吉凶いずれにも拘らず、一事あるごとに宴を催すのが常である。
寿春侵攻軍たる袁術本隊は、その常の如く、士気発揚のためというお題目の下に宴会が催されていた。
従姉麗羽への服喪の間、差し控えるべきという声もあったが、不自由なく養われた女童に、いきなり娯楽を長期間禁ずるというのは、酷な話であろう。
そして事件は、宴も総大将袁術が睡魔に襲われた頃合に、いよいよお開きとなった時に起こった。
流れに乗じ、末席より退出しようとした少女の袂より、蜜柑が一個転げ落ちたのである。
「……んん?」
そして不幸にもそれが、美羽の足下に至った時、
「手をつけておらぬではないか」
と、醒めたような声音で言った時、和やかに締められようとした酒席が凍りついた。
そして、その娘に視線が集まった。
「も……申し訳ございません!」
少女は慌ててその場で膝を突き、低頭した。
主君同様未だあどけなさを残すその容貌に、あちゃー、と七乃は美羽の傍らにあって小さく声を発した。
美羽にはその者の名も、何故末席にいたのかも知らぬであろう。
「其方、名は?」
故に目を愛らしくも吊り上げて問いただす。
少女は今にも泣きそうになりながら詫びるばかりである。その卑屈さが、なおさらに美羽を苛立たせた。
「名はと聞いておる!」
その一喝が、逃れようとした諸官人の足を完全に止めた。
「り……
「陸績……さては陸家の者か」
まずい、と七乃が思った理由が、その出自である。
先において、寿春を占拠した袁術に対して、其処は劉耀の治所なりと強く反発した豪族がある。
それが名門陸氏であった。
怒りし美羽は、直ちにこれを攻めんとするも、後難を危ぶむ七乃に止められる。そして孫家に出動を要請。孫策が代将としてその本拠盧江を攻囲した。
だがその抵抗は激しく、直系の陸遜は消息不明。彼女の後見であり績の父であった
そして今回従軍したのは、その家名を南進軍の経略に用いんがためであった。
だが、この失態においては生家が裏目に出た。
すなわち、仇敵袁術の施しなど、受け取るだけしておけという意志表示ではないかという。
この場に居合わせた何人かは間違いなくそう解釈したであろうし、そのうちには美羽自身も含まれていた。
眠気も吹っ飛び、眦を吊り上げて、唇を噛みしめてぶるぶると肩をわななかせる。
それは一見すればなんとも愛らしいが、ひとたびその癇癪を爆発させれば、免ぜられるか、でなければ頭と胴が離れるか。
「……ただ、母上に……食べさせて差し上げたかったのです」
陸績が我から弁明を紡いだ。
「故郷の味です。在りし日は、家族揃ってこの水菓子をよく……よくっ……」
言葉を涙で詰まらせながらの彼女の申し開きは、真偽いずれにしても苦しいものであった。
やれやれ、と七乃は肩をすくめた。
別に小娘ひとりの首がどうなろうと知ったことではないが、せっかく孫家に押し付けた陸家の憎悪を、今更こちらが拾う必要などあるまいし、この程度で愛主の手を汚したくはない。
となれば
七乃がそう思い定めて口を開きかけた、その時である。
「――そうか、母御がのう」
かつてないほどに、美羽が神妙な声をあげたのは。
「妾が憎いか、陸績」
怒らせた肩よりすっと力を抜き、美羽は少女に目線を合わせた。
公然の場でそう問われて、肯定する者などそうはいまい。陸績は顔を伏せたままにかぶりを振った。
「我が一族と袁家が対立したは、ひとえに任官任地の行き違い程度で血を流して争う乱世の混迷ゆえ。そして盧江の悲劇は孫策の蛮勇と父の意固地が衝突したがゆえ……哀しくはございますが、お恨みはしておりませぬ」
などと、幼さに見合わぬ殊勝な答弁であった。
ふたたび、美羽は相槌を打って、ぼんやりと中空を見上げた。
「今にして想えば、あの女も妾腹ゆえ苦労も多かったであろう。生前は癪に障る馬鹿笑いが煩わしく、そうは思えなかったがの」
と、彼女なりに故人を偲びつつ、ちょっと大人な、ほろ苦い笑みを口端に浮かべた。
そしてあらためて、平伏する陸績を見つめた。
「良かろう。事情は分かった。じゃが、この蜜柑を拾うことは許さぬ」
と、ぴしゃりとした口調で告げられ、陸績は暗澹とした表情となった。
だがそれから、何かを図るかのごとく一拍子置き、美羽は言った。
「――そのようなケチくさいことなどするでないわ! 明日には山のような蜜柑を邸宅に届けようではないか!」
陸績の目が輝きとともに持ち上がった。だが衝動的なその童心を恥じるかのように、かえって身をすくませてしまう。
「そ、そんなもったいなきこと」
「ほほほ、気にすることではない。どーせ、これより揚州は我らの地になろうでな、蜜柑どころか山海の幸などいくらでも取り放題じゃ」
「あ、ありがとうございます! このご厚情、終生忘れません!」
「うむうむ、これからは妾がために励め」
と、会心の笑みを称えてうそぶき、周囲に明るさを取り戻した。
その恩徳を称えるがごとき歓声の中、美羽はと言えば、そこまで成り行きを見守っていたらしい幸村へと目を掛けた。
「……お見事な差配でした。美羽殿」
と、等身大の称賛を受け、美羽ははにかんで歯を見せた。
「いかがした七乃? 妙な顔などしよって」
そしてついで、七乃を不審げに顧みた。
予期せぬ事態に出鼻を挫かれ、そこまで硬直していた七乃は、慌てて表情を繕った。
「いえいえ、私も、下々に対する美羽様の寛大なるご処置に、思わず感涙で咽んでしまい……」
と、両の目元を袖口で覆う。
「ほほ、七乃はいつも大げさじゃのう……そこまで言われると、かえって嘘っぽくなるぞよ」
――おそらくそれは、美羽にしてみれば戯言程度の発言であったのだろう。
しかしながら、その感想が七乃に与えた衝撃は、彼女自身が意外なほどに大なるものであった。
袖を内で極限まで絞られる眦を必死に和らげてみせて、ゆっくりと七乃は顔を持ち上げた。
「それでは、先に戻ってご寝所を整えておきますね♪」
「うむ、よきに計らえ」
主に断りを入れてから、七乃は宴席を発った。
独り楼閣の廊下を歩く彼女は脚を速めた。
そして道程の柱を、あるいは踝で蹴りつけ、あるいは腰の剣の鞘ぐるみ抜き放っては叩き、ついには両手でもって殴りつけたりなどしたのだった。