ジークフリード・キルヒアイスは曲阿の、かの貴人を訪っていた。
官舎は仕える人数に比してやや広大なきらいはあれども、常識の範疇は逸脱していない。
邸の中心には巨池がある。水質は澱んでいるが、底から浮き上がってくるかのような翠には、奇妙な神秘性と魅力がある。
その池は人工のものではない。古くよりある天然の、神々が長江より水を引いて作りたもうた代物であろう。奥底には、池と同じぐらいの齢を重ねた古魚が棲みついており、『大主』なぞと呼ばれているとか。
かの邸が広大ならざるを得なかったのは、奢侈を求めんがためではなく、この池を囲い込まんがためであった。
今日も今日とて、揚州の刺史が太史慈を伴いその池に釣り糸を垂らしていた。
「刺史様、失礼いたします」
キルヒアイスがまるで長年仕えた老僕がごとき距離感と調子で声を掛けると、揚州刺史劉耀はやや気のない様子で顧みた。
東洋人らしからぬ――とは今に始まった話ではないが――妙齢の貴婦人然とした、キルヒアイスと同じ年頃の娘である。門閥貴族の舞踏会の来客で見た、と言われればさもありなんという、品の良さだ。
簡素な
「やぁ、キルヒアイス君。どうかね、君も釣り。やれる方かね。それとも、先の世には釣りとかなくなっちゃった?」
「いえ、ありはしますが……わたくし個人は残念ながら、機会がありませんでした」
「それはもったいない。どうかね、今付き合わんかね」
……が、どうにも統治者として威厳に欠けるというか、緊張感が乏しいというか。とかくその言動は、小役人、中間管理職の中年のようであった。
行政処理能力は非凡ではないが公正で良質なものではある。かつての主には見向きもされないであろう人物ではあった。
「刺史様は、釣りがお好きなのですか?」
「趣味ではある。ただ、やっぱり勝手知ったる青州の方が釣果は良かったなぁ。
などと嘆息してからハッとしたように、目を瞠り、
「いやいやいや、そんな話を帰れない君にするべきではなかったな。すまんね」
「いえ……」
小心だが、無頓着な人間ではない。だが、その神経質な気遣いが、かえってキルヒアイスの心に郷愁という名の疵をつけた。
「では、何故郷里で役人となられなかったのですか?」
と、自らキルヒアイスはその話題を切り替えた。
「三互の法と言ってね、詔勅によって任官された太守や刺史は当人や姻戚の本籍地に就いてはならないのだよ……私は出来れば普通に主簿程度で良かったのに、劉氏だからって大層な役職に就かねばならんこともないだろうに」
「なるほど、軍閥化を回避するためですね」
キルヒアイスは鷹揚に頷いてみせた。
「まぁそうなんだけど、結局はその束縛のせいで地方に人が回らなくなるから、董卓のような例外が作られる。結果、そういった例外が軍閥化を生む、と。はぁ、いったいなんのための方策なのやら」
「ちなみにこのヒト、こんなだけど私と同郷」
「こんなって……」
「
梨妟が説明の捕捉を入れ、劉耀は消沈する。元より自尊心の高い方ではなく、すぐに受け入れて持ち直した。
劉耀は我が身の不幸を嘆くがどうして中々、太古にあたる時代にもかからわず、その官僚制度には軽視しがたい道理が備わっている。
「そこへ行くと、君らの時代などはそういう矛盾も解消され、整備されているのだろうね」
劉耀がそう話題をキルヒアイスへと切り返したが、彼はほろ苦く笑って首を横に振る。
「そうでもありません。初代皇帝に取り入った貴族の家柄は私腹を肥やし、外敵を抱えつつも権力闘争に明け暮れる有様。さすがに我々の世代ではありませんが、その初代が打ち立てた、劣性遺伝子排除法なる悪法が施行されていた時代もありました」
「いで……? なんだね、それは」
「遺伝子……先天的に身体的異常を抱えている者とその血統への虐待を公的に推し進める、愚劣きわまりない行いです」
こればかりは、ドブの中にも美点を見出すがごときキルヒアイスの口をもってして、酸くならざるをえなかった。
「うへぇ! またそりゃおっかない。偉い人の考えることはいつの世も分からんねぇ」
などと大仰に嘆きつつも、一旦不首尾に終わった釣り糸を持ち上げ、餌を付け直して垂らす手はどこか他人事だ。
(この人も、十分に『偉い人』なんだが)
一州を任された地方行政官にして、軍権も委ねられた、皇統に連なる者。
それがまるきり抜け落ちたかの言動に、キルヒアイスはますます苦笑の量を強めた。
だが、そう総てを他人事に置かれても困る。
表情をやや引きしめた赤髪の御遣いは、一歩進み出た。
それを目ざとく察した梨妟が、
「劉耀さまー、なんか用事があるからここに来たみたいだよー」
とフォローをしてくれる。
んー、と気の抜けた感じで顧みた揚州刺史に、キルヒアイスはあらためて言った。
「袁孫の連合軍、南下を開始。
タイミングと言い方にはキルヒアイスは十分に気を払ったつもりであったが、劉耀と梨妟の見せた反応は対照的にして劇的であった。
「よっし、やっとおでましかっ! 相手にとって不足なし!」
と釣竿を捨てて意気込む梨妟の傍らで、ひえっとそれ自体が消え入るような悲鳴とともに、みるみるうちに血の気が抜けていく劉耀。
「その件にて、
彼我の軍容の差を正確に知るキルヒアイスとて、かなり苦しい戦となることは承知しているが、努めて冷静かつ穏当に依願した。
その視界の片隅、池の奥底より、嘲笑うかのごとく大魚が身を翻したように視えた。