恋姫星霜譚   作:大島海峡

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劉耀(四):獅子の残響

 揚州軍重鎮張英が率いていった大半が、孤立していたと思われていた敵の寡兵に難なく敗亡させられたという事実は、劉耀の精神的な支柱をも打ち砕いたようであった。

 

「そ、そこまで……」

 そこまで強いか、今の袁術軍は。

 そこまで開きがあるのか、戦力の。

 そしてそれは、劉耀が考えていたような、単純な兵力の多寡ではない。将兵の質、経験値からしてまるで異なる。

 

 戦慄く唇から発せられる続きは、おそらくはそれらに類する驚愕の嘆きであったはずだ。

 その首脳の著しい動揺は、そのまま陣営全体の当惑として伝播する。

 さしもの剛将太史慈も、笑みにはやや引き攣りを見せるし、沈着な徐晃をして、いつもの無表情の裏に焦慮の兆しを垣間見せる。

 

 キルヒアイスはその中でも、もっとも等身大に事態を把握していたと言って良いだろう。

 敗残兵から収集した情報を整理する限り、敵の先鋒は智と勇のバランスの取れた、かつセンスも経験も併せ持つ軍人だ。

 恐らくは後続もまた、同等以上の名将らが控えていることであろう。

 寿春方面は今川、陶謙勢と袁術本隊とが対しているが、こちらもいつその連合を突破して揚州へ渡ってくるか。

 

(それと……)

 キルヒアイスはそれとなくシャープな体躯を西へと向けた。

 

 それでも、キルヒアイスの見るところ、まだ絶望的というほどではない。これ以降の戦況の推移如何によっては、負けない戦は容易ならざるとも可能である。

 ただしそれは、自分に軍権が渡れば、の話である。

 そして今、対立者のいなくなったこの混乱期、スムーズにそれを譲り受けるだけの条件は出来上がっている。ただ総司令官であり自分に少なからぬ好意と温情とを持ってくれている劉耀に一言具申すれば良い。

 

 だがその卑劣さに対する後ろめたさと、来るべき顛末が、その一言を躊躇わせる。

 なるほど確かに今だけはこの苦境をやり過ごせるかも知れない。

 だがそれは、あくまで延命措置に過ぎない。ともすればさらなる攻勢……大攻勢を招く恐れも出てくる。和を講じようにも、元より袁術の狙いは揚州の地そのものだ。

 

 故に、余計な介入をするよりかは、むしろこの時点で劉耀には折れてもらって、降伏した方が、民将兵のためなのではないか。

 

 そう逡巡していた時であった。

 

 ――何をしているっ! キルヒアイス!

 

 天啓にも、あるいは霹靂にも似た大喝が、キルヒアイスの全身を打った。

 顧みても、もはや進行さえままならぬ軍議の席がそこにはあるのみ。

 

 ――ただ一時の安泰のため、愚劣きわまる為政者どものために、今ここにいる彼らが犠牲になって良い理由がどこにある? 富める者が持たざる者たちを蹂躙するのでは、貴族どもに泣き寝入りすることと同じではないかっ、俺とお前は、それを良しとしないからこそ立ち上がったのではないか!

 

 声は、己の内側より聞こえてくる。

 烈しき声。だが、全霊をもって傾聴するに値する、かつての主君、懐かしき友の音。

 

 むろん、それが自身の感傷より生じた幻聴に過ぎないことは、キルヒアイス自身がよく承知している。

 だが、在りし日の彼がここにいたとして、やはりそう叱りつけたのではないか。いや、そうであって欲しいと願う自分がいる。

 

 そして、初歩的なマキャベリズムのために、自分のエゴのために、今を生きる人々を見殺しにするのでは、自分が忌避し、彼に諫めたヴェスターラントの悲劇と何ら変わらぬのではないか。

 

「……まだ、私を休ませては下さらないのですね……ラインハルト様」

 直後に頬に浮いた苦笑が、彼に一歩を踏み込ませた。

 

 惑う陣営において、唯一毅然とした所作とともに前へと進み出たキルヒアイスの姿は、他の何者を差しおいてもっとも目立つ構図となった。

 もはや茹でられ過ぎた青菜のごとく、しおしおとしている劉耀に、彼は面と向かった。

 

「揚州刺史さま」

「ウム? な、何かね。暇乞いかね?」

「いえ、閣下にお尋ねしたいことがございます」

「こんな時に?」

「こんな時、だからこそです」

 

 赤毛の大将は、怯える娘より視線を外さず、尋ねた。

 

「閣下は本望よりこの任地に就いたわけではありません。ですが……務めを果たそうという意欲は、お持ちですか」

 

 その問いかけに、劉耀はピエロじみた雰囲気を引き上げて息を呑んだ。

 常日頃の彼女を知る者であれば、十中八九は「持ち得ておられまい」と答えるだろう。

 だが、そうした彼らの軽侮に反し、そしてキルヒアイスがそれとなく見抜いていたように、色を喪った唇を浅く噛んで、なけなしの良心を揮わせて答えた。

 

「……たしかに、能うならば故郷に帰りたいともさ……だが、私は勅命を仰いでこの揚州にいる。この地を安んじよという、天子の御意志により。その詔が取り下げられない限りは……劉氏のはしくれとして……退くことは、できない」

 

 息も絶え絶え、だが譲れぬ意志を瞳の奥底に宿して、揚州刺史は毅然と背を反らして言い放った。

 もっともその一瞬後には、「できるかぎりね、できるかぎり」と総身を震わせながら付け足したが。

 

 彼女の決断はこの後どのような結果を生むかはさておくとして、キルヒアイスはその決意のほどを聞けて、その気高さを垣間見られて良かったと思った。

 

「わかりました。ではわたくしも『できるかぎり』を尽くしましょう」

 誠心より深々と礼をし、キルヒアイスはそう言った。

 

「……決まりだな」

 そこまで黙して成り行きを見守っていた吉兆がそう言ったことで、指揮権の移譲とキルヒアイス自身の梯子外しが決定的なものとなった。それは、張英派以外の皆が望むところであった。

 

「だが、具体的にはどうする?」

 首ごと向けて、赤玉党主は尋ねた。シャープな肉体ごと向き直り、新司令官は答えた。

 

「まずは戦略の見直しを。まず北部、袁術軍本隊に対しては、今川公に。あらためて彼と盟約を結び、物資面より支援します。これには、李厳将軍、韓浩将軍に担当してもらいましょう」

「えぇー、そんな細々とした地味作業、めんどくさ……ぎっ」

 

 隣に座る韓浩に、足の甲でも踏まれたらしい。

 李厳と呼ばれた新参の女武将が甘く緩めの顔つきが、苦悶がために引き締まる。

 

「わかった。託された以上は非才を尽くすよ」

 と、嫌味の無いさっぱりとした、少年的な語調で韓浩が二人分の返答をした。

 李厳も李厳で肩をすくめて、

 

「……ま、重要な局面で兵站を欠かすようなヤツなんかいませんて。そんなヤツの末路なんてまぁ、知れたモンですよ」

 消極的とも挑発的ともとれるような物言いで同意した。

 

「又兵衛殿と赤玉党のお二人には、豫章城まで退いて防戦を。劉耀閣下にも、そこで総大将として鎮座いただきます。楊奉将軍は、その護衛と守りの手配を」

「エェッ、私も!? できればその……本拠地でみんなを督戦するとかね」

「さっきできる限り務めを果たすって表明したばっかりじゃない」

「曲阿まで退けば、兵士(みんな)に逃げたと思われる」

「そうそう、ドーンと構えて動かなければ良いの」

 

 呆れたような目つきで総大将を軽く睨んだ少女たちは、それからキルヒアイスに意識を移した。

 

「で、今言った中に太史子義と徐公明(私ら)の名がないってことは?」

 と、授業を終わらせた幼年学校の生徒がごとく、目を輝かせる梨晏に、キルヒアイスは苦笑して首肯した。

 

「両将軍には、わたくしと共に、撃って出てもらいます」

 

 〜〜〜

 

 かくして、青州しかり、益州しかり。

 銀河の中で瞬いて消えた赤き仁星は、他と同じように再輝の兆しを見せ始める。

 

 その光を嘉したもうたものか。

 あるいは驕れる孫袁を罰したもうたものか。

 

 ――この時奇しくも一つの悲劇が、孫軍内部で起こっていた。

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