九江のほとりへ、孫家の船団は駐留した。
物資や兵員を上陸させるその中に、甘寧がいた。そして、つい先ごろまで劉表軍の客将であり虜囚となっていたシグルドがいる。
いずれも荊州旧権劉表軍とは浅からぬ因縁を持ち、それがゆえに先鋒を任せられた両名である。
「分かるか、この選抜の意味が」
いくばくかぶりに馬上の人となったシグルドに、甘寧は問いかけた。
投げた視線の先に待ち構えているのは、切り立った崖に拵えられた砦。棲まうは、江賊である。また、黄祖より離反して彼らと結託した劉表兵残党であった。反発するまでならまだしも、旧地奪還がための兵糧物資の確保と称し、近隣の村々を襲撃していたのでこれは看過できない。ゆえに劉耀討伐の片手間に征伐してしまおうというのが、名目である。
しかしながら砦を占拠するニ勢力にも、甘寧の見知った顔があるという。シグルドもまた同様であった。
「我らに求められるのは、勇武のみではない。あの古巣の亡霊を駆逐し、新参者が孫家に対する忠義を証明する。そのための陣立てだ」
「……あぁ」
「また、戦略的にも大いに意義がある。一見これは、此度の劉耀攻めの援軍とは無関係に思えるが、九江は揚州に対する恒久的な拠点だ。いずれ袁術に先んじてかの地を奪取するためのな」
「あぁ……」
「おい、聞いているのか?」
「聞いている」
鷹揚に、否茫洋と頷いた貴公子の首筋に、鈴の音とともに切先が突きつけられる。
「これは貴様の腑抜け様を叩き直すための荒療治でもある。だが、もしそれでも気萎えが治らず我が軍の妨げとなるようなら、その時は」
「分かっている」
それにも生返事をするシグルドに、剣を納めた少女はため息を吐いた。
この鈴鳴りの女水賊は半信半疑であっただろうが、シグルドは事実情報として漏らさず言われたことを呑み込んでいた。
だが、感情はまるで死んでしまったようである。
(私は、何をしているのだろう)
彼女らが悪人ではないととうに分かっている。大望あって天下を切り従えんとしていると。
一時は梟首にされたアーダンも、その出自が定かとなると丁重に弔ってくれた。この悪党相手の先陣も、居心地の悪かろう己の立場を少しでも良くしようという、彼らなりの配慮であったろう。
だが、守るべき友はすでにいない。
悪党といえ、半ばは同胞。その成敗の後に先に待ち受けているのは、不毛な侵略行為ではないか。
これ以上、なんの、ために?
軍を進め、勝手知ったる甘寧と指図のもと、彼女の子飼いの手勢が雄声をあげて搦手より攻めかかる。だが堅固に拠り、後のない敵方もまた死兵と化して抵抗する。
彼女がそうして敵を引きつけている間に、シグルドが騎兵を率いて正面から攻めかかって突撃する。あるいは可逆でもあっただろう。彼女とは指揮官として毛並みが違う。他ならぬ甘寧からの申し出は、妥当なものであったとシグルドは思う。
そして半ばまでは、その作戦は奏功した。
シグルドの武人としての肉体は、精神の状態如何に関わらず、自動的に動いた。
かつて大陸を横断する征旅を敢行した、仕上がった体躯と武練。それをもって突っ込んだ。遠慮すべき理由も、惜しむべき命もなかったのだから、単身での突破力はいかほどのものか。
常人では苦労する難所を片手の手綱捌きで上り詰め、並み居る賊兵を片手斬りで薙ぎ倒し、単騎駆け。背に追い縋る部下をも置き捨てて。
だが、賊兵とて元は正規兵である。弱卒であったと言え、元は学術の水都の部曲である。内には知恵者も紛れていた。
思考があった。思惑があった。相手を嵌めんとする思慮があった。
正面を破ったシグルドに、頭上に潜んでいた伏兵が矢戦を仕掛けた。
風切る羽音とともに降り注ぐ矢を、シグルドは仰ぎ見た。
ぞんざいな一閃は、その多くを叩き割ったが、除き損ねた一矢が、シグルドの腹に突き立った。
貫かれた箇所が不自然に熱を持った。おそらくは即効性の毒の類であろう、とシグルドは他人事のように診断した。
白馬より転がり落ちる無様は侵さなかった。だが、世界が揺らぐ。意識が溶ける。不安定になった視界の先で、騎兵が追いついてくるのが見えた。
だが、もう良い。
もう、良い。
すべてに。
疲れた。
〜〜〜
「……どうしてこうなった!?」
半死の降将を抱えて九江より撤退した思春に、中軍を統率していた蓮華は詰め寄った。件の傷病者、戦犯を収容した医室の手前、咎める声は激しくも控えめである。
無論、あらましのみを聞いても、彼女に非がないことは承知している。
それでも、先鋒の予期せぬ失態は、排他的ながらも穏当な孫仲謀を当惑させるに充分であった。
「……面目次第もありません」
極力私情を交えず説明し、不必要な弁解をしなかった思春。彼女は、主君の叱責を浴びてようやく自身の見解を示した。
「さりとて蓮華様。お分かりでしょう? あの男は、その心は、すでに死んでいたのです。夏口で。守るべき者を守れなかった、あの瞬間に。……私とて、貴方を喪えばそうなるかもしれないのです」
「くっ……」
そうだ。分かっている。分かっているつもりであった。だがあえて
『結局、あなた方の家族なんて言葉は口先だけ。本当に大事なのは自分と血のつながりのあるものだけ。それ以外はあたしたちのように、より便利で使い勝手の良い駒を得れば体よく入れ替える』
己の内より浮かんできたのは、凌統が吐き捨てた怨嗟。
そして、嫌っているはずの天の御遣い、その内の一人の男の死に揺らぐ己がいる。
王者とは、どうすることが正しいのか。
すべてを愛して赦し、迎え入れるべき度量を示すことか。
それともどうあっても容れられぬ事物を、その者のためにも毅然と跳ね除ける峻厳さか。
双極に在って孫権は、迷い惑う。
〜〜〜
そして数日間熱病に浮かされていたシグルドは、もはや持ち直す気力も意欲もなく、そのまま枯れ果てるようにして死んだ。
今わの際、青髪の貴公子は何者かの名を口にしたというが、その発音が耳慣れぬものであったことと、滑舌自体がもはや定かであったことから、ついに聞き取る者はいなかった。
その音調が甘やかで穏やかなものであったことから、おそらくは彼にとって大事な女性であったことのみが、窺い知れるのみである。
【シグルド/ファイアーエムブレム 聖戦の系譜……戦死】