恋姫星霜譚   作:大島海峡

111 / 165
孫堅(六):お前は家族か(後)

 蓮華は最重量の足取りにて、総大将孫堅の、安陸(あんりく)の陣所を訪れていた。

 陣所と言っても半ば隠居所のような装いである。

 今回限りの配剤か恒久的なものか。長子孫策に指揮を任せて一線を引いた母は、長江の流れを汲む堀に釣り糸を垂らしている。その肉体の内に抱え込んでいるのは、末妹の小蓮である。

 

 隠居と言っても寂しい光景とはならず、絶えず官民問わず多く入り混じるのは、いかにも出鱈目な人気を得ている母らしいといえばらしい。

 

「応、どうした仲謀」

 皆の手前、娘を字で呼んだ。

「……申し訳ありません」

 母の悠々自適を邪魔したことと、この凶報と失態に先んじて。二重の意味を込めて蓮華は謝った。

「お預かりしていた御遣いシグルド、賊の刃に掛かりました」

 

「そうかよ」

 母の釣竿が、やや重みが加わり撓む。

「私の監督が行き届かず、有為の人材を喪いました。むろん、姉様にも報告済みです」

「なら、伯符の判断を仰げ。それとも、何かおねだりでもしたいのか」

 いえ、と蓮華は言葉を濁した。ここに来るまではただおのが失態の自己申告のつもりであった。

 だが、事後策や対案を用意していない報告に、いったい何の意味があるのか。あるいは炎蓮の言う通り、自分は何かを求めてわざわざ自陣から引き返してきたのか。

 

(……叱られに来たのか、私は?)

 

 思えば姉に伝えた時、彼女は痛ましげな苦笑とともに、妹の肩を叩いた。

 そのうえで、九江の敗軍をまとめ、切り上げるようにとの指示を受けた。その時から、痛みを帯びた煩悶は強くなったような気がする。

 

 誰かに、男の傷心を汲めずあたら犬死させた咎を、責めて欲しかったのではないか、と。

 

「母様っ、見てみてっ! 竿、引いてるよ!」

 場の空気の重さを読まぬゆえか、それとも読んだがゆえか。

 上下に揺れる竿を認め、炎蓮の腕の内で妹がはしゃぐ。

 

「おぉ、そうか。今魚籠取ってくるからなァ」

 おおらかにそう言いつつ、母が竿を娘に握らせて立ち上がった。

 部下から寄越された籠を手にせんとする彼女を、蓮華は追った。

 

孫家(かぞく)になれなかった野郎の犬死なぞ、いちいちオレらが気にする必要などあるか?」

 ぞんざいに吐き捨てられた言葉に、蓮華は愕然とした。

 

「あぁ、だがまぁちょうど良い塩梅の手の引き頃だな。これを口実に、軍を退かせろ。公路にも、いい加減独り立ちさせてやらねぇとな」

 

 なんて事なさげに苦笑とともに袁術を想う炎蓮の感情を追い切れず、蓮華はしばしその場に立ち尽くしていた。

 

 〜〜〜

 

 桟橋を渡る蓮華の足は速く粗い。

 いったい何に苛立っているのか。好いてもいない男の死に振り回される己にか。あるいはそれを雑事と切り捨てた母にか。

 

(私は今、どちら側に立っているの)

 

 荊州戦を終えて以降の孫文台には、わずかならず変化が覗えた。

 どこが、と問われれば難しいが、それでも強いて言語化するなれば、極端になった。

 民草にも分け隔てなく接する豪放さはそのまま、豊かな情愛と懐の深さを持つ器量人。

 だが、一旦己が情を抱いたものにはとことん甘くかつ執着し、一方で無関心なものについては、酷薄な対応をする。嫌いな者については徹底的にそれを破壊せんとする。

 かつ、いつその愛憎が切り替わるか。境目が定かではない。

 日に日にその乖離は広がっていく。

 

 皆は笑みを向けてその情愛に謝す一方で、その裏ではいつ自分が彼女の怒りに触れてその爪牙に引き裂かれるか、気が気でない。

 実際に、すでに降伏した荊州の儒者や学者のうち、些細な失言や失礼から南海覇王の錆となった者が何人かいた。

「まるで、虎が放し飼いにされているような……」

 心持ちであることは、言葉にせずとも暗黙の了解となっていた。

 

 ふと想う。

 苛政は虎よりも猛なり。だが悪政暴政を敷くよりも、あの母が鎮座し続ける限りは、民は心休まることなないのではないか。

 炎蓮がいる限り、薄荷は帰参したとて縊り殺されるだけなのではないか。

 

 ――孫文台は、荊州北上の途にあって、薄命の暁将として散った方が

 

 ごん、と蓮華は着岸する軍船の体に額と拳を叩きつけた。

(何という事を……なんておぞましいことを!!)

 一片でも、一瞬でも考えてはならないことだった。

 己が空想に蓮華は戦慄した。

 

「やぁ、孫権」

 

 その疚しさゆえに、背後から掛けられた声に、大仰なまでに蓮華は反応した。

 声の主は、黒絹の髪の端をふんわりと浮かび上がらせながら、小首を傾げた。

 

「どうかしたかい?」

 まずいところを、嫌な相手に見られたものである。

 その気まずさ自体は包み隠さず、蓮華はサーシャなる愛称の少女を苦い顔で顧みた。

 彼女の悪感情は伝わっているだろうに、それに対する反応はおくびにも出さず、サーシャは言った。

 

「シグルドさんのこと、聞いたよ。気の毒なことだった」

「気の毒だと?」

 蓮華は、おのが唇が抗いようのない力の作用によって、不自然に吊り上がるのを感じた。

 

「はっきり言ったらどうだ? 御遣いを孫家(お前たち)は使い捨てたのだと」

「そんなことは」

 

 異国の戦姫はやや細まった肩をすくめて見せた。

 

「ただそうだな……あえて言うなら、君は気負いすぎだ。シグルドさんの死は、君の責任じゃない。ただ、間が悪かったんだ」

 

 また、慰められた。「お前のせいじゃない」と言われた。

 まるで自分だけが聞き分けなくむずがる童のようではないか。

 

「あぁ、そうだ」

 だが、それでも。

 稚拙であろうと甘かろうとも。欺瞞であろうと偽善であろうと。

 譲れぬこの一線が、己が真芯であった。

 

「シグルド殿は、私が……孫家が殺したのよ」

 納得いっていないのは、自分自身だ。

 認める。同情してしまった。

「せっかく無念の死からこの中華へと生き返ったあの人を、私たちは何ら希望も持たせられないままに殺してしまった! ひどすぎるわ、こんなのッ、どうしようもなく、申し訳なく思うのよ」

 

 口調も感情も乱れて吐露する蓮華を、サーシャは黙って見つめていた。

 その訳知り顔が、なお神経を逆立てて、蓮華は御遣いへと詰め寄った。

 

「それを認めた上で、貴様は……貴女は、悪くないと言うの!?」

 

 が、激情をぶつけられてもなお、静やかにその双眸を細めるだけであった。

「……家のことはともかくとして、君はひとつ思い違いをしている」

 その目の形を留めたままに、唇が動く。

「僕らは、鎖で繋がれた奴隷じゃないよ」

 と。

 

「剣を捧げる相手を選ぶ自由を、対する敵を選択する余地を、僕らは等しく与えられていた。この世界に何を見出すのかもね」

「……」

「たしかに、シグルドさんのように自分を見失ってしがらみに絡みとられる人もいると思うけど、そういうままならなさも含めて、この第二の命は僕たちの人生だ……どうしようもないほどにはね」

 

 サーシャの論理は、見た目の年齢不相応に達観し、老成している。

 過剰な期待は寄せず、しかして確実に前を向いている。

 ただそれが故に、子守唄のごとくに彼女の声は蓮華の心拍を鎮めた。

 

「だから僕は、せっかくもらったこのチャンスを精一杯に生きてみるつもりだ。君はどうかな? 何がしたい?」

「私、は」

 

 自分は彼女のようにはなれないと蓮華は率直に自認した。

 あるいは目の前の女剣士はかつては肉体や立場に枷を負った人物であったかもしれないが、今は自由な立場である彼女は、やはり蓮華とは違う。

 

 自分には、家族も天下も切り捨てられない。

 ただ、己が裁量と権限の及ぶ限り、今回のごとき悲劇は引き起こさない。

 孫家に、天下に恥ずべき振る舞いは決してすまい。

 今はただひたすらに、そう誓うしかない。

 

「……良い顔だ」

 目の前の少女がふっと微笑んだ。

「何に行き着いたのかは聞かないよ。ただ、孫権のあるべき姿がこの世界に顕れることを、願う」

「蓮華」

「ん?」

 

 ひらりと、超人的な跳躍力で軍船に乗り上げた戦姫に、石を含んだようなぎこちない物言いであらためて言った。

 

「蓮華で良い……いい加減、孫権孫権と呼ばれるのも収まりが悪くなってきた」

 少年っぽくサーシャは歯を見せた。

「うん、それも良い真名(ひびき)だ」

 

 この異物異端だらけの大天下。

 そこへの歩み寄りを孫仲謀は、先ず黒髪の戦姫より始めた。

 

 〜〜〜

 

 軍事計画の急変を余儀なくされた孫家軍。

 しかしてその隙は、僅かな時間と箇所でしかなかった。

 凡人ならば見落としか、でなければ罠を疑い二の足を踏むような、針か綱の如き機を、揚州軍副将は決して見逃さなかった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。