恋姫星霜譚   作:大島海峡

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孫堅(七):東興の失態

 江南、東興(とうこう)、孫軍前衛。

 そこに堤を作り要害と成さしめていた孫家でばあったが、別働にて地固めに動いていたシグルドが横死。それに関わる人事の再編により、立ち往生を食っていた。

 

 本来であれば渡河のために水流を緩めるという堤の工事も一休み。

 慰労と慰霊とを兼ねて、昼間より酒盛りを開いていた。

 

 その宴もたけなわ。

 ふと一兵が見上げれば、逆行の中、堤の上に小さな影がせり上がった。

 

 一瞬は腰を浮かせたが、その小ささと少なさから、彼は

(よも敵襲でもあるめぇ)

 と酩酊した頭で高をくくった。

 前衛と言っても所詮は手伝い戦。真の先陣は袁術軍の高杉水兵団であり、工作が主任なのである。

 

「んん……?」

 そう考えていた矢先、影が空を飛翔した。

 

 鳥か? 蜻蛉か?

 ――否、少女である。

 

 厳密に言えば、堤の上より駆け下った娘は、その中途で高らかに跳躍したのだが、彼の頭は正しくその構図を理解できる状態にはなかった。

 元来の身軽さと、斧の旋回を利用した常人離れした滞空時間も、そう錯覚させる一因となった。

 

 結果、彼は旋風となって舞い降りた少女の、斧の刃に巻き込まれた。その頭部は敵襲を触れ回るより先に血煙に沈んだ。

 

 そして誤解はもう一つある。

 なにも彼女は……揚州軍客将徐晃は、単身敵陣に斬り込みに来たわけではなかった。彼女はあくまで先遣に過ぎない。

 

 彼女の奇襲。生じた悲鳴が合図であった。

 それに呼応し、付近に潜伏していた軽船十数隻より、選りすぐりの精鋭がどっと突き出す。

 

 都合三千。

 これは真っ当に対すれば恐るるに足らぬものであったが、弛緩しきっていた孫堅軍を脅かすには、充分過ぎる数であった。

 

 〜〜〜

 

 雪蓮が急行した時、東興はすでに火の海と化していた。

 物資や天幕より燃え上がる火炎が天を舐め、地を焦がす。

 兵は右往左往し、盛んに鳴らされる銅鑼は、もはや危機以外何ら示すところがないという醜態であった。

 

 混沌としたその状況ゆえに、規律正しく襲撃者たちは引き返していくのは澄んで見えた。

 大斧の少女の差配のもと、撤退していく彼らを追わんとする雪蓮の前に、孤影が立ち塞がった。

 

「やーっ、露払いは買ってみるもんだね」

 

 ちょうど火の具合によって陰りとなっているゆえ、全貌は見えない。

 だが、すらっとしたその立ち姿と得物の堂々たる長尺、そして双肩より発せられる武威は、疑うべくもない。

 

「――太史子義!」

 

 太史慈。揚州の女傑。孫賁の攻略軍従軍中に出逢い、何度と小競り合いを続けてきた、好敵。

 激怒と喜悦。決して交わることのない感情を目元に同居させながら、雪蓮は焦土を蹴った。

 

 辞儀合い無用。初手より必殺の一閃。当然その程度の直線、容易に防いでのけると弁えたうえで。

 

 鉄が噛み合う音が、右往左往していた士卒の足を止め、一帯の喧騒を鎮めた。

 

 それは武というよりは舞。舞踊であった。

 

 ただしこの場合、物言わぬ木石や什器を得意げに破壊して格闘者を気取る人間を揶揄する表現ではない。

 いずれも本気、いずれも殺気。互いの生命を刈り取るために技術を惜しまず、工夫を練り、功夫を練る。

 だがその身のこなしは溌剌とし、互いに示し合わせたかのごとくに一つ手を過てば大惨事となりうる応酬を繰り広げている。

 生まれ持ってきた才覚、今までの培ってきた機略。それらを全力で打ち出せる相手の存在。それがゆえの歓喜であった。目の敵愾心はそのままに、両人の口端には、極上の笑みが浮かんでいる。

 

 その他者の介在できぬ時間において、傍観者たちは、おのが責務も危機も忘れてこの剣戟に立ち合えることを眼福に思い、かつ長く観戦できることを言葉に出せずとも求めた。

 

 だが蜜時というものは、実際にも体感にも短いものである。

 退いたのは、太史慈が先であった。すかさず雪蓮、これを追う。

 容易に離れさせず、相手に刃の置く。太史慈も太史慈で、堤防に上がり退きながらそれに応対して刃を振るうという、常人になし得ぬ技量でもって応じた。そして腰に秘していた小弓を雪蓮の死角より引き抜き、絞った。

 

 江東の姫丈夫。自身の眉間を抜かんとする鏃をしっかと睨むも、避けない。止まらない。僅かの速度も緩めない。

 その身に矢が達する直前、餓狼の如く、地面を這うが如く、頭を低めて雪蓮はさらに加速した。

 

 脳天を掠める風の圧、凶器の気配。それらをやり過ごした孫伯符の切先は、かすかに驚愕を浮かべる太史慈の喉笛を切り裂くはずであった。

 だが、突如としてその姿が消えた。否、堤防の頂点に達した太史慈の肉体は、長江の激流に投げ出されたのであった。

 

 咄嗟の出来事に足を踏み外した? 否、そんな間抜けであるものか。そも、逃げ道を意図していないわけがないだろう。

 雪蓮が眼下を望むと、そこには帆船があった。作戦を完遂したその船団はすでに発進している。その帆に我が身を受け止めさせた彼女が、船上に足をつけてべっと舌を出して愛嬌を見せた。返すものは、今の雪蓮には苦笑しか持ち得なかった。

 

 あとに残されたのは、奪うだけ奪われ、壊すだけ壊された自陣のみである。

(しかし、まさかね)

 太史慈に『戦闘』でなく『戦術』をさせる将がいるとは。

 ともすれば、柔らかな容貌と裏腹に、時として雪蓮以上の武辺者の面を見せる彼女に、作戦行動に従事させる器量の持ち主が、いたというのか、劉耀軍に。

 本来であればいい加減、柔弱な劉耀に見切りをつけて、肌が合うこちらについても良さそうなものであったろうに。

 それに針の如きこの隙を突いてくる目付けも、並の戦巧者のそれではない。

 

「いやいや、神速の救援、恐れ入ります。瞬く間に太史慈を退けるとは、さすが孫家お血筋じゃ」

 と声をかけたのは、元よりこの東興にいた部曲の一人である。

 初めは嫌味かと思ったが、どうやら媚を売らんとしているらしく、へへへとだらしなく相合を崩していた。

 

 その中年男の口元に、雪蓮は鼻先を突きつけた。

「な、何か?」

 何を勘違いしたものか。だらしなかった表情が、さらに締まりのないものとなる。

「なにか?」

 一度それに応えてニコリと笑み返したのも一瞬、鬼気迫る表情へと転じた雪蓮は、

「……戦場で悠長に酒なんか呑んでんじゃないわよっ!」

 と、その男の腹を蹴りつけて川面へと落とした。

 尾を引く断末魔の悲惨さから一見乱暴に見える仕打ちではあったが、蹴り落とす地点は選んでいる。しでかした事を想えば、相当に温情ある罰でもあった。

 

 掠めた矢が、半分切断していたらしい。その拍子に髪留めが千切れ、バラバラと長い髪が散った。

 

「荒れているな」

 苦笑とともに、褐色の義妹が寄ってきた。理知を眼鏡の奥底の双眸に閃かせた周瑜は、自然体に進言した。

「炎蓮様よりの指示だ。シグルド殿の死を名目に、我らは揚州より完全に手を引く」

「……気に入らないわね、えぇ、気に入らないわよ」

「だが、寿春攻めも難航しているとのことだ」

「今川は、そんなに強いの?」

 彼女の興味は、惰弱な味方よりも強敵に向けられていた。

 

「元より堅陣なのもあるが、ここに来て揚州からの支援が本格化してきた。あと、どうしてだか総司令官の『張勲閣下』がここのところ妙にやる気がなくてな。遠からず、揚州入りを断念して陶謙の掃討に主眼を置くことになるだろう」

「……豫章方面の高杉たちは」

「無論、知らずじまいだろうな」

「じゃあ、仕方ない。彼らにこちらの撤退を伝えて退くとしますか」

 

 自他の失敗をいつまでも引きずるのは己の性分ではない。そう見切りをつけて、雪蓮はさっぱりと決断した。

 

「それにこっちもこっちで、色々と問題が浮き彫りになってきたしね」

 天下を窺うがための、孫家の新基軸。そのための陣立ての試行錯誤が、この益無き援軍の主目的である。

 ゆえに、この敗北による目的は果たされたと言って良い。

 ここを守っていた情けない者らは、いずれも新参。元劉表軍の投降者であった。もちろん荊州閥の中でも勇者たちはいたが、その多くは左近やアーダンとともに散ったか、でなければ黄祖が抱え込んだままであろう。

 

「で、どうするの、こいつら? 今のままじゃ、まるで役に立たないわよ」

 自分達の部隊長が突き落とされたのを見て、ようやく東興の守備兵はおのが咎を痛感したかのように、肩を窄めて俯いた。

 

 冥琳は彼らを睨み回しながら、嘆息して言った。

「灸を据え、叩き直しておく必要があるだろうな……そろそろ蔵にしまい込んだものを、出す時が来たようだ」

 その役割を果たせる人物。雪蓮にもよく心当たりがあった。

「いつまでも律儀に操を立てて引き篭もっている、あの『荊州の盾』をね」

 

 〜〜〜

 

 キルヒアイスの採った方策は、ケレン味のない、ともすれば凡庸なものであったかもしれないが、その最低限の工程で最大の効果を引き出すことに成功していた。

 

 孫策らが素直に敗北を認めて撤退。本隊の停滞。それらを知った高杉、楊業、耶律休哥の三軍もまた、後援が得られない事を察して漢水を遡上して引き返した。

 

 自分らの土地が救われたことを知った揚州強襲部隊は、船上にて勝利に沸き立った。だがそれを率いるキルヒアイスの表情には、勝利への達成感と言ったものはなかった。緩やかに首を振る。穏やかに、だがぴしゃりとした物言いで新たな指示を飛ばす。

 

「全艦、進路を西へ。次なる敵へと備えます」

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