男の足下を、劉旗をたなびかせた船団が通過する。
渓谷を流れる水流の速さに比して、その走行はゆったりと、安定したものだ。
明確にこちらの所在と動向を知り、かつ牽制するための行軍であった。
「――ほう?」
己が計が破れたにも関わらず、男の嘆息はどこか楽しげで、酷薄そうながらも口端は吊り上がる。
「さすがに気取られたか」
隙あらば揚州南部。厳白虎が旧領を掠め取って拠り所とせんと画策していたが、どうして中々。孫袁両軍を相手取った手腕と言い、揚州軍の新規司令官は奇のてらいはないが、その決断と行動は非凡なほど大胆で速く、しかも的確であった。
もっとも、そうでなくては面白くもない。自分と同等にこの世界に呼ばれた者たちが、この程度であろうはずもない。それゆえの、笑みである。
「……向こうが気づいているともなれば、狙撃の恐れもあります。ここはお退きになるべきかと」
可憐なる従者がそう進言するのに、男は頷き返した。
「無論、引き上げる。だが、それも無用の心配ではある。奴らとて強いて我らと事を構える心算ではあるまい」
「であれば、彼らはなんのためにここまで進出を?」
「第一に、我らと同様の威力偵察。第二に、有事の際にはここまで行動圏を引き伸ばせるという誇示であろうよ」
そう答えた男の足下で、一人の少女が筆を走らせている。
地を掴むようにして背を丸め身をかがめ、書き損じの紙片をかき集めたものであろうものに、男の知るところの神代文字に似た羅列や図を書き連ねていく。時折、思い出したように頭にかぶせた丸帽子の上から、意味があるのか指をガシガシと前後させる。
「……あの規模の軍船をこの川幅に!? となると行軍速度は……ふむ、なるほど! そうとなれば、兵糧の消費量とそこから割り出される乗員の数は……」
という独語から解るとおり、完全に彼女自身の世界に没入していた。
同輩の醜態と不敬に眉をひそめた楽進こと凪が、諌めようとしたがそれを制したのは男自身であった。
「
男がその名を呼ぶと、少女が緩やかに頭をもたげた。
「戦を学ぶのは、楽しいか」
「はい! 伝え聞く遠方の名将同士の邂逅! そして楊業軍の寡兵にして一方的な蹂躙! この時代に生まれて良かったー!」
あけすけに声を張り上げ灰色の目を輝かせて我が身をかき抱いて身悶えする少女に、男はさしたる嫌悪も好意も見せずに言葉を落とした。
「ならば覚えておけ。この世にただ一つとして同じ戦などない。微に入り細を穿つがごとく書き記せば、かえって障りとなることもある。己が肌と頭に叩き込み、自由にそれを出し入れできるよう努めることだ」
その訓戒を受けて、
「はいっ! 師父!」
と、元気だけは良く応答して掌と拳とを合わせた。
まったくらしくないことを言った、と男は我ながら思い、眠るがごとく目を細めた。
「それと、留守の
「差し当たってはドゼーを派遣せよ。ちょうど
「よろしいのですか? おそらく、劉度軍の背後には」
「分かっている。孫家の要請を受けての掃討作戦よ。だが、あえて従属勢力を差し向けるということは、荊南に割く余剰がないということに相違ない。主力は荊州に守備と揚州の攻略とに置いている」
劉表を討って支配領を拡充した孫堅軍ではあったが、その陣容は領地に比して薄まった。劉表はじめ大半の将官が袁術軍にさらわれたことが痛手であったことだろう。
その隙に、自分はこの大陸南部の厳白虎や劉表など反揚荊州勢力の旧臣、志々雄に蹂躙された士家の遺臣、そして沙摩柯ら南部の異民族を扇動し、糾合して取りまとめる。
無論、自分に反する者らの登場もあるだろう。この世界において、彼ら主従はことに異物だ。こうして一勢力を成した今でさえも、常に偏見と好奇の視線はつきまとう。
だが、この肌寒さが心地良い。
聖上の恩恵から突き離され、徒手空拳で己が勢力を作り上げる。現王朝も帝の威光も漢民族であることにも阿らない、理想国家を自らの才腕のみで築き上げる。
この大事業の、なんと痛快なことか。
「――よろしいのですか?」
それを踏まえて、そして溜まりかねた様子で、従者シチーリヤは進み出て言った。
「私が、お側に再びお仕えすることを、お許しいただけるのですか」
「どういうことだ」
「……すでにお気づきでしょう。私は」
「お前は俺にとって良き副官であった。最期の一瞬まで、そこに何者かの意思が介在していようとも。そしてこれからもな」
「……!」
伏せかけていた目と顔を持ち上げる美少年に、男は背を預けるがごとくに向けた。それに郭淮が続き、楽進が寄り添う。
「以後も我が智を支えよ、シチーリヤ」
そう促されて、彼は
「……はい!」
人形として、作られたものでも指示されたものでもない、己が真情に従い破顔した。
前述の通り、男たちは異物であった。
やや鋭利にすぎるきらいはあれど容貌に優れ、気宇は大きくそれに相応の才器を持ち合わせている。
ただ、同様に天下に理想を掲げ勇翔する群雄たちと違う点は、彼らには獣の耳尾が生えていたことであった。
男の名は、ライコウ。
聖賢と冠される、彼の世界随一の智慧者であり、革命児であった。
〜〜〜
陸口より撤収していく袁術軍を、ライコウ軍の別働隊は対岸の竹林にて、その存在自体を秘しつつ監視していた。
その栗色の蓬髪を風に靡かせ、少女が兵と竹の合間を疾駆する。
「しゅばーっ!」
奇声とともに踵で地を削りながら、その先頭に躍り出る。
「ライコウ軍第一の幕僚
「うるっさい。こちとら隠密任務中だっつの」
踊り込んで来た
「それで、大将は?」
彼女の黒山の手勢を主力とする軽歩兵による斥候部隊、その長を目で捜す自称幹部に、張燕は顎をしゃくって断崖に立つ男たちを見た。
その副将は、精悍な若者であった。
むろん、馬謖よりも年長ではあるものの、精悍な顔立ちの、未だ幼さの残る顔立ち。だがそれは実際に若いのか、童顔なのか判別がつきかねるところである。
黒衣の軍服をまとう細身は、骨格がしっかりしている。腕を組み、竹をしならせもたれかかる今も、一分の隙も見せない。よしんば刺客が不意打ちを仕掛けたとして、腰の大刀をまたたく間に抜いて両断してしまうだろう。
しかしそれでいて武張ったところがない。沈着でその所作には荒々しいところがなく、まるで静かに降り積もる雪のような青年であった。
その細められた眼差しが、聚鉄山に向けられていた。
「ほうほう?」
丸みを帯びたしたり顔に掌を当てながら、青年に馬謖は並び立った。
「いーい所に目をつけますなぁ。『高きによって低きを視るは、勢い既に破竹』と言いましてですねぇ」
「悪いが兵法の話じゃなく、オレが山を眺めていたのはただの個人的な感傷だ……やはり、同じ山でも勝手は違う」
苦笑とともに青年は、少女を懐近くまで迎え入れた。
じっとりとした、険のある眼差しで、馬謖は青年へと詰め寄った。
「じゃあユキムラさん、ちゃんと敵も見ずにぼんやり山見てただけってことですか?」
「いや、きちんと撤収と動員兵力、行軍速度は見届けた」
――実のところ、山ばかりではなく、あの軍にも興味があった。突き詰めて言えば、それを率いる水将に。
(本当に、あの水軍を指揮しているのはオレの知る貴方なのか……? 高杉さん)
守るべき
命をくれ、と言われた。死にたくないと。血を吐きながらのその言葉が、今も耳に残っている。
こうして互いに蘇り、互いの宿業から解き放たれて再会すれば、友と成り得るのだろうか……?
「大将殿ー」
唐突に黙り込んだ『ユキムラ』を、訝しげに見つめていた馬謖であったが、すぐに身を転じて今度は大将自身に向かって声をかけた。
興味も表情も、ころころと移り変わる、せわしない少女であった。
「聞こえている。すぐに、陣払いを始める」
と短く切り返したのは、中華風の装いの男であった。彼がこの陣営における、最年長と思われた。
中華と言ってもその軍装は胡服のそれに近く、どこか荒涼とした、北の風を常に伴っている。
だが峻厳な彼も彼とて、どこか尾を引く感じの眼差しで、袁術水軍が長江に残した波紋を顧みた。
「貴方も、知己がいましたか」
自身のことも踏まえてそう軽く気紛れに問うた青年将校に、
「父がいた」
と抑揚なく答えた。
旧友かもしれない男がいた『ユキムラ』よりも、よほど深刻な運命の皮肉であろう。
「どちらが?」
高杉ではまずなかろう。となれば、残るは二将。遠目に見る限りでは、そのいずれでもさもありなんという佇まいの武門ではあったが。
「どちらもだ」
北の武人は、冗談としか聞こえないことを、冗談とは取れぬ調子で告げて去っていった。