恋姫星霜譚   作:大島海峡

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漢(一):穢れた中庸

 漢帝国。

 すでにして劉氏が王莽より政権を取り戻して二百年ほどが過ぎ、その治世を支え続けてきた基盤にも歪みが生じ始めていた。

 戴くのは自身の権限の多くが剥奪されているという自覚さえない、怠惰な皇帝。官僚の間で不正や権力争いが横行し、そんな社稷の腐敗に群雄はすでに蒼天已に死すを悟り、手前勝手に洛外で勢力を拡張して覇を競い、まつろわぬ民や賊徒が跋扈する。

 

 が、さながら目の届く箇所のみ雑に履き清められた一室のごとく。

 未曾有の民衆反乱も発生せず、また宦官と外戚一派の衝突も起こらず、その混乱に乗じた涼州軍閥の乱入も未然に防がれた都それ自体は、静謐さが維持されて、まるでこの世に現出した楽土とさえ思われていた。

 

 しかし、それは未発の病魔がただ潜在したのみに過ぎず、歪な形でそれは発露の兆しを見せ始めていた。

 

 〜〜〜

 

 盧植、子幹。真名を風鈴。

 廷臣の中でも屈指の良識派として知られる女性で、年の頃に見合わぬ幼い顔立ちと、またそれに反した肉体の豊満さというさながら天女のような容姿も相まって、臣民問わずその人望は高い。

 だが今、常に柔和さを称えていた彼女の表情には、わずかながらに翳りが生じていた。

 

 その彼女が、同僚に出会したのは宮城の階の先であった。

 

「やぁ、風鈴」

 その姓に相応の朱色の髪を靡かせて、今より参内せんとしている彼女は、口端を左右非対称に歪め、眼を眇めた。

 

「例の教え子たちのために連日連夜の出仕かい。精が出ることだねぇ」

「う、うん……」

「あまり、臣としてはよろしくないなぁ。公務に私事をねじ込むのは、天下の義人盧植将軍らしからぬ振る舞いじゃあないかな」

 

 多分に自覚のあることゆえ、控えめに微笑み返すよりほかない風鈴に、彼女は粘っこく畳み掛けた。

 

「そういう貴女はどうなの、朱儁(しゅしゅん)

 

 見兼ねてか、その横合いから口を挟むようにして現れたのは、皇甫嵩(こうほすう)義真(ぎしん)である。

 こちらはその字の通りに、武人としての分を外さぬ実直な人柄ゆえに、主に軍部よりの信任厚き人であった。

 

「やあ、楼杏(ろうあん)。これはまたぶしつけだね」

「真名で呼ばないで頂戴。私がその名を委ねたのは、共に漢を憂える勇士に対して。宦官たちと結託して出世に憑りつかれた佞臣にではないわ」

「ふん、やたら辛辣に言ってくれるじゃあないか。賄賂を出し惜しんだばかりに中常侍(ちゅうじょうじ)に反感を買って背後から梯子を外されるより、よほど利巧な生き方だと思うがね」

 と、盧植の事績を、彼女の目前にて引き合いに出し、楼杏の眉をさらに引きつらせた。

「呆れた。そうまでして権力にしがみつきたいのかしら……さっきの続きだけれど、そんな私欲にまみれた貴女に、風鈴を蔑む資格なんてないわ」

「言ってるが良いさ。さて、私はもう行くよ。清貧を気取って閑職に飛ばされた君らより、よほどやることがあるのだからね」

 

 などと悪態を去り際に吐き捨てつつ、朱儁は肩で風を切るように登殿していった。

 

「……雲雀(ひばり)ちゃん」

 と、物憂げな貌を伏せた僚友に、楼杏は優しく手を置いた。

「真名で呼ぶ必要なんてないわよ、あんな女。私からも、陛下には申し上げるわ。教え子たちのことは抜きとしても、曹操軍の北上は危険すぎる。彼女が河北を制すれば、あるいはこちらまで呑み込まれてしまう」

「……そうね。うん、ありがとう」

「だから、あんなヤツの嫌味になんて負けちゃだめよ」

 

 それに対しては曖昧に頷きつつ、風鈴は旧友の去っていった方向へとずっと眼鏡の奥底で視線を注ぎ続けていたのであった。

 

 ~~~

 

 朱儁。字を公偉(こうい)。真名を雲雀という。

 叩き上げの軍人が呼ばれて参じたのは、帝の足下ではなく、妖しげな香を焚き込めた豪奢な一室であった。

 

()()()朱儁殿には、ご存じなきことかもしれぬが」

 主となっているのは、丁子であろうか。あるいは西域より取り寄せたる香料もあるいは混ざっているかもしれない。

 ともかくも少し眉間の辺りが痛んでくるような強烈な芳香の中で、その男とも女とも、老いも若きも定かではない、人のかたちをした何かは紅を塗った唇を蠢かせた。

 

「かつて、この国には名宰相と呼ぶに足る男がいた。そして、一人の子息がその後を襲った。漢王朝大将軍という、奴には過ぎた位をな」

「……」

「その男、梁冀(りょうき)はさしたる才もなく大権を手にし、奢侈を極め国庫を傾かせ、果てには『自分に悪口を言った』という理由で十歳たらずの帝さえも手に掛けた」

「歴史の御教授でしたら、またの機会に。張譲(ちょうじょう)殿」

 

 帝の近くにあって諸事の世話や取り次ぎを役務とする十常侍(じゅうじょうじ)の筆頭は、鼻筋を反らして自らの茶を煎れた。

 

「なに、確認作業だよ将軍。そして確認というのは手順こそが肝要だ。関係のないように思えてこれは大いに関係のある起源の話である」

 勿体ぶったその物言いに、本来であれば遥かに上役である朱儁への敬意は微塵も感じられない。

 世話役というだけあって、喫茶の一連の所作は見事なものではあったが、あくまでそれは己自身のためだけの手並であった。

 

「では、その暴政の最中にあって、諸子百官は何していたか? ……何もしていない。皆耳目を塞ぎ、帝が弑されようと気づかぬふりをした。何故だと思う?」

「……その権威が己に及ぶのを恐れてのことでしょうか」

「違うな」

 

 妖星のごとき目をかっと開き、張譲は歯を見せて答えた。

 

宦官(われら)憎しがゆえだ。儒に則らば我らが穢れ物であるがゆえだ。ゆえに外戚が暴威を振るおうと、我らがそれにとって代わるよりましだと、そう考えたのだ。一天万乗の天子様が公然とお命を縮められるという最悪の結末を経てなお、だ。せいぜい幼き趙忠(ちょうちゅう)の葬儀にケチをつけて、その亡父の棺を暴いて憂さを晴らす程度しか、奴らはしていない。嗚呼、桓帝(かんてい)のお嘆きが、今このわたしの耳にも聴こえてくるようだ」

 

 さも誠心があるかのごとく天井を仰ぎ、空涙をこぼす張譲を、雲雀は悟られぬ程度の冷ややかさで見遣った。

 

「そして、宦官は帝の御為立った。本来何の力も持ち得ぬはずの宦官が、巨悪を打倒したのだ」

「連座した文武百官は余さず処罰され、社稷は空となったとか」

「……が、恥知らずにも儒者や党人どもは己らを顧みることなく、また我らを敵視し、外戚を立てた」

「しかし皇統をつなぐためにも、御子は成さねばならず、どうあっても外戚は不可欠となりましょう」

「無論承知している。わたしとて、何も官吏どもと好んで争っているわけではない。己らの領分を超えることは本意ではないのだ。が……」

 

 と、張譲は向き直って言った。

 

「出る杭は叩かねばならぬ。朝廷内における力の均衡を調整し、第二第三の梁冀を生まぬこと。それこそが、我ら十常侍に与えられた役割と自負するところである」

 

 では李膺(りよう)竇武(とうぶ)は梁冀の成り損ないであったのか。

 そんな皮肉な笑みを愛想と受け取ったのか。張譲は嫣然と頷き返し、革を鞣すがごとき手つきで、雲雀の肩の輪郭に触れた。

 

「それを踏まえて今一度確かめおくぞ将軍。そなたの役目は我らの目となり口となり軍部に働きかけることだ。このところ、やれ劉備だとかなんとかだとかの件で、盧植や皇甫嵩が跳ねっ返っておるようだが、我らの許しなくしてみだりに軍を動かすことは許さぬ」

「心得ております」

「ならば良い。差し当たっては、何進(かしん)姉妹さえ押さえておけば奴らには何も出来まい。ゆめゆめ監視を怠り迂闊な接触をさせるなよ……さもなくばせっかく便宜を図って救ってやったそなたの恩人、また不運な目に見舞われようぞ」

「――ははっ」

 

 表情を押し殺して、雲雀は自身よりもはるかに小柄な相手に低頭したのであった。

 

 ~~~

 

 張譲の部屋を出るなり、雲雀は猛烈に顔を洗いたくなった。

 帝には目通りを願い出ずに、兵舎の井戸にて冷水を顔面に叩きつけた。

 

 そこに人の気配を感じ、顔を上げた。

 

「――やぁ、将軍?」

 

 そう言って声をかけたのは、楼杏でも風鈴でもない。

 若い、男の貴人である。そして、天の御遣いであった。その涼やかで颯爽たる風貌と御遣いという虚名にいたく興を惹かれたとして、珍しくあの帝が自発的に判断のうえ、胡騎(こき)校尉(こうい)へと任じていた。

 将軍、と呼ぶのはそのためではなく、彼がおのれの国では北辺を鎮護する将軍であったことに由来しているが。

 

「貴方には、相応しからぬ匂いがする」

 と、出し抜けに男は言った。

 

「また、張譲に呼ばれていたのか」

「奴の許諾なしに、この朝廷では何事も出来ない。たとえそれが大将軍であろうと、天の御遣いであろうともね」

 

 眠るがごとくに細められた御遣いの目が、何か言いたげであった。

 それが何なのかは、雲雀には解っている。解っていてやっている己を、どこかで腹立たしくも思う甘さが、まだ彼女の内にもあった。

 そのささくれが、つい無用の口を叩かせた。

 

「聞けば、将軍の世界(くに)では、公家なる文官と武士とに分かれ、そして政権さえも武士とやらに奪われつつあるとか? はてさて、どちらの国も似たり寄ったりの事情を抱えているとみえるが、どちらが上等なのだろうね」

 

 男は容易には答えなかった。

「かつて、ある老人と、国というものについて語ったことがある」

 充分に間を置いてから、きまじめに口を開いた。

 

「その時には、答えは出ずじまいではあったが、それでも民草とはなんなのか。それを忘れて国は語れない。そういう結論には、達した。民の一語も出ないその問いに、私は答えるすべを持たない」

 肺腑に切り込むような物言いであった。

 それは、遁辞だろうと雲雀は思った。いや、そう思い、哂いたかった。

 だが、楼杏らに向けたようには上手く表情は作れず、やや頬を引きつらせたのみであった。

 

 目礼とともに、男は去っていく。

 雲雀はそれを苦々し気に見送った。

 

 自分の振る舞いが、間違っているとは思わない。

 やたら清廉たるを求める楼杏や風鈴にも、夢を追うがごとく漠然と理想を示すあの男にも問われればそう即答できる覚悟がある。

 

 誰かが、繋ぎ止めねばならない。

 負わねばならぬ業なのだ。

 被らなければならない汚穢であった。

 

 でなければ、武断と文治、禁裏の内外の軋轢で、このような砂でこしらえたような社稷などたちまちのうちに分解してしまうに違いない。たまたまその役を務められるのが、己であっただけの話ではないか。

 

 雲雀は蒼天を仰ぐ。

 中だけくり抜いたかのようではあるが、周囲には分厚く淀んだ雲がかかっている。

 その様相にも、朱公偉は静かに腹の底を煮やした。

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