「下策も下策」
十常侍筆頭張譲は、すでに洛外へと脱出していた。のみならず、帝も劉協も、皇甫嵩以下宿将らも同伴である。
目指す退避先は、
「大方、玉体を奪い公孫賛討伐の勅でも戴かんとしたのであろうが、僭越にも程があろう。そして軽挙に過ぎるわ。我らの『網』が張られておるのが、禁裏洛中のみとでも思うたか」
自身の天蓋つきの車にてそう呟き、羽扇で仰ぎながら背後を顧みた。
「よくぞ知らせてくれた。徐庶よ」
剣を佩いた少女へ嫣然と笑みを向けつつ、美貌の宦官は誉めた。
「恐れ入ります」
ニコリともせずかつて闇に生きていた少女は俯いた。
「しかし良いのかね? せっかく日の目に当たらせてくれた主君であろうに……あえて裏切りの汚名を被ってまで、何を求める?」
細められた眼の奥底が獲物を探るような獣性の輝きを放つ。
「曹操の寄寓に甘んじたは、あくまで自身の母との安寧がため。彼女自身に忠誠心はありません。そして小心ゆえ、帝を拉致するなどという大それた企てなど受け入れられるはずもなく、千々に乱れし我が方寸を鎮めるべく、旧縁に縋り張譲さまの下に馳せ参じた次第」
自身の鼓動を抑え込むがごとく、徐庶こと剣里は服と胸肉を掌にて押し潰した。
「そして張譲さまに求めるのも、ひとえにその安寧。願わくば、母の安泰と、分相応の官職さえいただければと」
「ふうん、寡欲なことよな」
含むような調子で張譲は相槌を打った。
「して、当座は如何する?」
「すでにして母を奪い返し、こちらへお連れしております。密告と併せてすでに曹操陣中に知れ渡っていることでしょう。願わくば、このままお側にお仕えさせていただきたく。それと」
「何かな」
「先のお約束の証となるもの、お預けいただけましょうや」
切っ先のごとき気配を身の内に忍ばせて、剣里はねだった。
しばし沈思していた張譲ではあったが、勘定が終わったらしい頃合いに懐中より一対の玉飾りを取り出して手渡した。
「事が済んだ後は、それを持って我が邸宅を訪れるが良かろう……まぁ、屋敷が敵に荒らされていなければの話だがな」
と冗談めかしく言うのを、剣里は頭を下げつつ受け取った。
「張譲様」
後方へと下がった剣里と入れ替わるように、一人の女将軍が進み出た。
おそらくは、張譲と癒着しているともっぱらの噂の人、朱儁であろう。
「仰せの通りに退却の指揮を執りましたが、しかし……事前に分かっていたのなら迎撃も出来たものを」
「そして都を戦場とするかね」
「なれば、伏兵どもを事前に拿捕しその悪だくみを吐かせては」
「奴らの悪辣なところは、分散して兵を潜入させていたところだろうよ。徐庶も、すべての潜伏先を把握していたわけではないそうだ。無理にこれを一つ潰したところで、何ほどのこともない。その間に他は逃げ出し、捕らえた者を尋問したとて、曹操は知らぬ存ぜぬで通すであろう」
それに、と海千山千の宦官は、その美貌を歪めて付け加えた。
「これは何進の手落ちである……いい加減、あの肉屋とその妹も降ろし時だろう。姉の方は曹操に首を刎ねられている頃合いかな?」
「残念ながら、いえ、喜ばしいことに」
朱儁は真顔で伝えた。
「何進大将軍様、命からがら曹操軍の包囲をくぐり抜けて都を脱出。こちらへの合流を求めているとの由」
「ほう? それはそれは。次期大将軍は貴殿でも良いと思ったのだがね」
「……御冗談を」
剣里同様の沈痛な面持ちで、朱儁は首を振った。
この国の、ある意味においては最高権力者なのだから、誰しも自然、そういう渋い態度となるのだろう。
「が、私からも貴殿に伺いたいことがあったのだがね?」
「は。何でしょう?」
「何故、直前とは言え盧植、皇甫嵩に襲撃を伝えた?」
「……」
朱儁は、顔を背けて黄河へと視線を投げた。
その岸では辛くも曹操軍の魔手から脱し、テキパキと迎撃と渡河の準備両方を並行して推し進める、両将軍の姿が見えた。
「あのまま何も知らせぬままに曹操軍に討たせてやれば良かったものを」
その朱儁の横顔に、羽扇でぬるい風を送りつける。
「迎撃に彼女たちの声望と能力は不可欠です。今はまだ……生かすだけの価値があるかと」
傍目から見ても、かなり苦しい朱儁の言い分であった。
だが、確かに一度散らした官軍の兵を召集するためには、旗頭としては何進や朱儁では不十分だろう。
それを汲んでか、意味深な笑みを含ませ張譲は扇ぐその手を止めた。
「それで張譲様、いつになったら都へ帝を御還しすることができるのです?」
そこに、新たな客が現れた。
趙忠。張譲の後輩にして、信任、もといその依存性はその先達よりも上、何太后に匹敵するであろうという青髪の娘である。
「心配いたすな。程なく上党にて河北の諸侯を糾合し、大逆人どもに天誅を加えん。しかるのち、堂々と凱旋するのだ」
張譲の目に、らしくもない情のごとき色が浮いた。
伝え聞くところによれば、幼い頃両親と死別し、かつその葬式を心なき廷臣に踏みにじられた時、哀れに思い引き取ったのが張譲であるという。なんとまぁ本当に、らしくもない馴れ初めであろう。
「まぁ、疾く帰りたいなどと我儘を言うようであれば、あのような駄肉、山野にでも捨て置けば良いぞ?」
――それは、大よそ朝臣として吐いてはならぬ諧謔であった。
「おのれで考える頭を持たず、快楽を貪り余計なことに関心や感情を向けないのが美徳の娘よ。それさえ無くしては、もはや何の価値もない。幸い劉協様もこちらにおわすゆえ、そちらに挿げ替えれば良いだけの話だ」
さすがに声量には憚りこそあれ、それを平然と口に出来るあたり、都から切り離されてもなお権勢を維持できる十常侍筆頭の怖さがある。
趙忠もまた、それには異論をはさまぬままに、粛々と、静々と頭を下げた。
垂れた青髪の奥底の表情は、伺い知れない。
もはや自分は居ても居なくとも良い存在であると自覚した剣里は、一応の辞去を述べたのちその場を離れた。
しばらく黄河沿いに歩いたあたりで、握りしめた掌を開き、張譲から下げ渡された品を検めた。
思わず、笑いが出そうになった。
その因果を知ってか知らずか。その玉飾りの意匠は龍と鳳凰であった。誇張されて見開かれたその眼は、自身の悪業を蔑視するかのごとき向きがあった。
腹の底、方寸が、冷え切っている。一度総身がぶるりと震えるのを、彼女は抑えることができなかった。
「――分からないよ、あんたらみたいなのにはね」
握りつぶそうかとも思ったが、淡く碧の光沢を放つそれらを、剣里にはどうあっても毀すことができなかった。