最初こそ就任を渋っていたが、青州軍都督という役柄も存外悪くないと、ヤン・ウェンリーは考えを改め始めていた。
何しろ、わずらわしい出兵もない。せいぜいが跋扈する黄巾賊残党の掃討であり、それも方針を示せば沮授ら袁紹の遺臣たちで十分に対応できる規模と質である。
自分の仕事としてはどういう理屈か同盟の公用語に自動翻訳される文書に目を通し、逆に伝わるかどうかの分からない署名を書いて円の構想する施作を認可する。
沮授主導による領地経営を嫌った
「あとは、紅茶とブランデーさえあれば言うことなしなんだがな」
聞けば同勢力のロブとか言う中世騎士にはワインやエールなどを取り寄せ、あるいは醸成して与えていたと言うが、それと同じように都合をつけてくれないものだろうか、と切望するところである。
サングラスで目元を覆い居館の中庭で寝そべる青洲軍司令官の顔を、真上から覗き見る中年男がいた。
グレーとブラウンを混成させた髪と瞳。シャープなラインを描く顎。
それらが皮肉げに傾かせ、あるいは揺らめかせながら、目下の指揮官を眺めつつ、故意的に嘆息してみせた。
「やれやれ。生前の念願叶ったり、というわけですか、提督」
「そうでもないさ。どこでも色々と不満や不足はあるものだよ、中将」
「それは労働の対価として得るものですよ。私にユリアンの真似事をさせんでいただきたい」
容赦だとか呵責だとかのない悪態を苦笑で流して、ヤンは起き上がった。
到底上官へと向ける言葉と態度ではないものの、今となってはその応酬も懐かしい。
一瞬、だが強烈に脳裏をかすめた、亜麻色の少年の記憶。
それは重たげな呼気へと還元されて放出され、半ばそれをごまかすようにして帽子をかぶり直した。
「……そういえば、ずっと確認を怠っていたんだが」
「なんです?」
「その、ユリアン達は」
「もし私の背に見た顔が並んでいたら、後ろ蹴にしてでも追い返していますとも」
その不良中年、ワルター・フォン・シェーンコップはシニカルに笑った。
「ただ小官は自分で考えていた以上に若い者たちからの人望が薄かったようでしてね。まぁ最早仕上げの段階に入っていたことですし、上手いことやったんでしょうよ」
「……そうか」
それについての安堵は、包み隠さず露呈させた。
何でもいい。理想だとか遺志だとかに後継が殉ずる必要はない。夢破れたとしても、生きてさえいてくれればそれで。
「ま、私としてもやり残したことがないでもないですが、若者たちの楽しみまで奪ってしまうのもどうかと思いましてね。一足先に天国だとかヴァルハラだとかを巡って良い席を確保してやろうと狙っていたわけですが、まさかこんなアミューズメントパークに迷い出るとは思っても見ませんでした」
「アミューズメントパーク」
とヤンは鸚鵡のように返した。
この陸戦のプロフェッショナルの肝の太さをして、この世界は驚愕と困惑に相当するのだろう。その揶揄には多少の苦味がある。
(まぁ、ポプラン辺りなら雀躍しそうなものだが)
「過去の確認作業はともかく提督、そろそろ未来の航路について定めませんか」
「はっ、遊園地の幽霊役の未来ね」
「とんでもない。私はともかく貴方はVIP待遇ですよ。この娯楽を思い切り堪能しろと何者かにチケットを渡された」
断定じみた強い口調で、シェーンコップは説いた。
「私が呼ばれたのですから、貴方ほどの才幹の持ち主が選ばれないわけがないとは踏んでいたのですがね。まさかこんなところでまで怠惰にパジャマのまま、ベンチの上で不貞寝しているとは思わなかった。これでは他のキャストも興ざめってもんです」
「君たちの助けも借りず、ここまで生き延びたんだ。そこは素直に評価してくれても良いんじゃないか?」
草原に寝そべっていたゆえ、枯れ草を絡め取った同盟軍服をつまみ上げながら、ヤンは苦笑した。
「まぁそこについてはね。ですが、そのことや小官と再会出来たことも含めて、何か天命めいたものを感じませんか」
いいや全く、とヤンは即座に否定を入れたかった。だがこの指嗾癖を持つ伊達男は、そう答えることも勘定に入れているような気がした。
「君は相変わらず見合わない服を仕立てようとしてくれているようだね、シェーンコップ中将」
ヤンはこの似非運命論者を睨み上げた。
「余計なお節介だとは承知していますよ。ですが、貴方にしか見合わないサイズですよ。『民主主義の先駆者』という服はね」
押し黙った上官に対して、押し売りのセールスマンのようにシェーンコップは不敵で魅力ある笑みを称えて畳み掛けた。
「この群雄割拠の世に民主主義の種を蒔く。これ以上貴方にとって意義のある事業もないのではありませんかな?」
「かつてはルドルフの再来を求められ、そして今はハイネセンの真似事か。君の示唆にはずいぶんと振れ幅があるようだね、中将」
「貴方の内に明確な指標がない以上、原典に学ぶのも一つの視点では? そもそもイデオロギーというのは追従者あってのもので、創始者が自身の商標権を主張するものでもないでしょう。ハイネセンとその脱出団だって、救いの手を民主主義という掘り起こした化石に求めたに過ぎません」
ヤンは肩をすくめて歩き出した。
これ以上の問答をしたくもなかったし、必要も感じなかった。あるいは、それこそ明確に拒絶する理由が自身の中には存在しえなかったがためであるのかもしれない。
あえてその駆け引き自体を、男女の恋愛のように楽しむ向きがあるシェーンコップも、即断即決を強いることもなく、ヤンに従った。
だがどちらにせよ、思索の時間は終わりを告げた。
「た……たいへーん! 大変なのーっ!」
曹操軍出向役、于禁文則。
彼女が、息せき切って足下に踊り込んできたからであった。
日ごろ大事にしているファッションもヘアスタイルもそぞろになった彼女を助け起こしながら、
「青州黄巾党に、動きでもあったかい?」
「そっちは無事、沮授ちゃんがやっつけて……じゃなくて!」
告げられたのは、敵襲の報ではなく、むしろ味方の主体の暴挙。
すなわち、夏候惇軍が洛陽を占拠したとの報であった。
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袁紹の居館を縮小改築した北海の政庁は、その旧主が息絶えた時と等しき動揺を奔らせていた。
曹操の暴挙と、それが失敗に終わったという顛末を知らされた麗羽の遺臣たちは、こぞって自分たちが何もしない内に逆賊となったことを悟り、狼狽していた。
というより、ひとしきり叫んで震えあがっているのは、もっぱら斗詩であったが。
「やったやったやったなぁ、いつかやらかすとは思ってたけど、とんでもない博打じゃないか!」
猪々子は喜んでいるのか怒っているのかわからない調子で、少なくとも興奮しているのは明確な様子ではしゃいでいた。
「それで賭けに敗けてちゃ意味ないよ、猪々子くん」
と、忌々しげに円が掌で机上を叩いた。
「しかし曹操め、こっちに断りもなく、勝手なことを……!」
「なるほど、お嬢様は乱世の楽しみ方を心得ていらっしゃる」
冗談めかしく、曰くありげなことを口にしたシェーンコップを、その円が横目で睨む。
形ばかりの委縮を見せる自身の副官を呆れながら見遣った後、
「それで文則、曹操閣下からは何と?」
「う、うう……それが『すべての責任はこちらで取るゆえ、引き続き青州の保守に尽力すべし』とかなんとかって便りが来たの!」
「なんだ、それならカンタンじゃないか。いつもみたいにきったない言葉使って部隊を調練してれば」
「ひとつ前の話抜け落ちたの!? 今はそれどころじゃないのー!」
むしろ袁紹サイドよりも板挟みになっている于禁の狼狽ぶりこそ、顕著である。
いや、逆に彼女や斗詩などが哀れになるほどにパニックになっているからこそ、他の皆が落ち着けている、という側面もある。そこまで狙っての割り当てであるならば、それは紛れもなく曹孟徳の人事の妙というものである。
――そこまで人の本質を視ることに長けた人間が、かくも粗末なプランを立案するだろうか?
「文則」
そこであらためてヤンは、首座より少女に尋ねた。
「報告に上がったうち、朝廷側の捕虜は皆無だったんだね?」
「そうなの!」
「せめて陛下の玉体を確保さえ出来ていれば……」
悔しがる円をひとまずは置いて、ヤンは問いを重ねた。
「皇帝も、その妹姫も、大将軍何進も十常侍も、皇甫嵩も朱儁も盧植も……誰も?」
「だからそう言ってるの! 徐庶ちゃんが朝廷側に寝返ったせいでだーれも捕まらなかったの!」
名を挙げた辺りで、円にも何かしら悟るところがあったらしく、息を呑む音が横合より聞こえてきた。
「あの……まさか」
おずおずと尋ねんとする円を、そっと手で制する。
まだ断定すべきではないし、あえて衆目の場で披露すべき答え合わせではない。
「
「では、その眼鏡に適わずすでに計画が破綻していたとしたら?」
シェーンコップが意地の悪い質問をした。
対してヤンは、所作を示してそれに所作をもって示して答えた。
すなわち、いつものように。『頭を掻いて誤魔化すさ』と。
「いずれにしても、出撃の辞令が下っていない以上は下手に動くことは得策ではない。東の守りを固めて、袁術軍の北上を警戒することがせいぜいだ。あえて我々に知らせなかったのは、いざ計が破れた時になって、その追及に巻き込まないようにという、レディの配慮であるように私は思える」
一部を除けば、いつもの自然体で素朴な、悪様に言えば覇気もなく冴えない彼とは想像のつかない滑らかなる弁舌に、一同は呑まれていた。
その一部の内に入る件の不良中年は、何か悪辣なことを進言したげな様子ではあったが、さすがに衆目の場でそれを言語化することは控えたようだった。
「……なぁ、ところでさ。なんでいつの間にかヤンのダンナがあたいらのこと仕切ってんだ?」
中には、そもそもそこから理解が及んでおらず、純粋にそう首を捻る少女もいた訳だが。
兎にも角にも、かくして自勢力の暴走、天下の震撼とはまるで対照的に、東部は平穏ならずとも安定はしていたのだった。