恋姫星霜譚   作:大島海峡

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漢(三):嗅覚と智と経験と

「……大将軍様におかれましてはご無事で何よりでございました」

 河内の女太守張楊(ちょうよう)は笑みを繕いながら、何進を労った。

 歳の頃は二十歳を過ぎたあたりで何進よりは幾らか年下。眉の濃さがやや悩みどころの娘であった。

 

 面通しの場が設けられるまでにかなりの時間と人を介し、かつ対面がかなったこの時においても、かの大将軍は自身の足を水桶に突っ込み、侍女に揉ませて労らせている、という有様である。

 

 そして、自身の名や素性など、いかにも興味がないといった風に手を振った。

 

「窮屈で辺鄙な土地だが、まぁ良かろう。一時の忍耐と思い受け入れようぞ。曹操を討ち果たすまでのな」

 褒めているのか貶されているのか。というかそもそもはこちらに向けられた言葉であったのか。

 忿懣に満ちた大将軍の前で膝を屈して首を垂れながらも、張楊はそれとなく観察していた。

 

「……まこと、よくぞご無事で。大将軍様の私邸がまず襲撃されたと聞き及んでおります」

 

 よほどの屈辱であったのだろう。横を向いて烈しく目尻を引き絞る。

「し、失礼しました! 出過ぎたことを申しました!」

 その怒りも、低頭平身して詫びる自身の姿も、張楊にとっては予想の範疇である。その上で、この肉屋上がりの出方を窺った。

 

「一時は捕われたが番兵を斬って逃げてきたのよ」

「はい?」

「ふん、冗談だ……余とて武に身を置くものぞ。鞭を手に取り敵の将兵を打擲し、包囲を切り抜けて参ったのだ」

 

 自分でも拙い洒落だと思ったのだろう。

 苦しげにそう答えた女に、「左様、でございますか」と短く相槌を打った。

 自分たちを迎え入れた河内太守のことなど最早眼中にないかのように、桶を蹴って立ち上がった。女官が悲鳴をあげ、その飛沫が張楊の頬を打ったが、もはや気にせぬようにずんずんと歩き出す。

 

「すでに諸侯に早馬を飛ばし号令をかけた! 程なくして先軍万馬の大軍勢がこの地を埋め尽くし、我が下知のもと、曹にまつわることごとくを、この中華に棲めぬように駆逐すべし!」

 

 そう高らかに号した女は、もはや張楊のことはおろか、曹操への憎念さえも忘れている気がした。

 ただあるのは、諸氏が己の足下に跪く、その想像のうえの恍惚であった。

 

 一応の礼とともに退出した張楊は、待機していた穆順(ぼくじゅん)へ肩をすくめてみせた。

「栄達は我も望むところだが、あぁはなりたくないものだ」

 と嘆息しつつ、

「それで、曹操軍本隊の動きは?」

「西進しつつ、公孫賛旧領を制圧。司馬懿なる者の手勢が壺関も攻落させ、ほどなく上党に迫る勢いとのこと」

「ふーん、退かないんだな」

 曰くありげに首を動かした張楊は、おのが鼻の先端がむず痒くなり、スンと鳴らした。

 微妙な空気の変化を、彼女自身が知覚せぬままに感じ取ったがゆえの、無意識の行動であった。

 

「……なんか、嫌な予感がするよなぁ。立場上陛下たちを受け入れざるを得なかったが、このまま属していていいものか?」

 

 張楊、字は稚叔(ちしゅく)

 その知名度は他の群雄に較べれば著しく低いものの、それでも都と雛、黄河と山野、匈奴や大勢力との狭間にあってみずからの軍と土地を維持し続ける一群の当主であった。

 

 ~~~

 

 その張楊の嗅覚はほぼ本能的なものではあったが、かの若き俊英たちの智もまた、同様の困惑と結論に行き着いていた。

 

「おかしいです……撤退しないなんて絶対におかしい」

「黄河以北を捨てて豫洲宛州を中心に防衛線を張り直すのが次善策のはずなんです……なのにどうして……何を見落としているというの?」

 

 河内でとりあえず官軍の末席に加わった劉備軍中の、その智の双壁たる朱里に雛里は、睦事のごとくに囁き合いながら、額を突き合わせて地図と睨めっこをしていた。

 

「まぁまぁ、お茶……はないけどお湯沸かしたから一緒に飲もう?」

 そのあまりの根の詰めように気を揉んだ桃香がそうささやかに申し入れたが、それにさえ気づかぬほどに両名は熱中していた。

「あう」

 消沈する主人に生暖かい苦笑を手向けつつ、一応の参謀格として、愛紗もまた進み出て割り入った。

 

「そう深刻視することもあるまい。あるいは考えなしの、進退窮まっての玉砕特攻かもしれぬではないか」

 これは半ば、二人の緊張を和ますための助言ではあったのだが、逆効果だったようだ。それはありえぬと頑なに首を振る二人に、愛紗は嘆息した。

 

「……あのっ」

 と、そこに進み出てきたのは、呂蒙であった。

 煮詰まった両軍師を見かねてのことだったか。いつにない積極性で。あるいは本人自身が望んでそうしたわけではなく、衝動的なものであったのかもしれない。

 

「あの、その……ここまでの状況を整理して、一つ思い当たることがあるのですが」

「下がっていろ……悪いが其方が口を挟んでどうこうできる話でも」

「ううん。こういう時だから、みんなの意見もちゃんと聞かなきゃだよ?」

 たしなめる愛紗とは対照的に、義姉は乗り気である。腰をかがめて片眼鏡に合わせた桃香は

亞莎(あーしぇ)ちゃんは何を思いついたのかな?」

 天から舞い降りた仙女がごとく微笑みかける。すると、息を吸うだけで乱心してしまいそうなほど緊張していた呂蒙の表情からこわばりが抜けた。

 ――どうにも、こういうところでは到底自分は義姉に及ばぬことを思い知らされた。

 

 一拍子置いてから彼女が紡いだのは、

 

「この状況、囲魏(ぎをかこみ)救趙(ちょうをすくう)に似たり」

 

 というものだった。

 

「…………えーと、なんだっけそれ?」

 問うた桃香自身が、困ったように小首を傾げるので、愛紗は答えた。

「故事です。孫臏(そんぴん)が包囲された同盟国を救わんがために、敵国の首都を攻め、転身した侵攻軍を有利な地形に誘い込んだという。だがその話の要点は、兵力を分散させることにある。逆に我らは無事合流を果たし、帝の玉体をお守りして河内上党を抑え、まとまった戦力を確保している。天地人いずれの有する我らとその故事の、いったいどこが似ているというのだ?」

「で、でも」

 呂蒙が珍しく食い下がって反論した。

 

「でもあの詔のために、我々は潜伏先をその作戦ごと放棄してここへ赴かざるをえなくなりました。その状況があの……以前雲長さまより聞いた桂陵(けいりょう)の戦いにどことなく似てるんじゃないかと」

 

 愛紗の後ろで、にわかに気配がせり上がった。ここまで反応らしい反応を示してはくれなかった朱里たちが、何かに弾かれたように屹立したことによるものだった。

 悲痛と驚愕に歪みながらも、爛々と輝く龍鳳の眼差しは、停滞からの打破を意味していた。

 

「――ありえない」

 彼女らに先んじて声をあげたのは、愛紗であった。

「我らを潜伏先から決戦の場に引きずり出す。ただそのためだけに、帝と都と詔勅を餌にしたと、そう言いたいのか?」

 

 ばかげている。鯨で雑魚を吊り上げるようなものではないか。

 恐ろしい空想、いやそう言うことさえ憚られるような妄想の類ではないか。

 一笑とともにそう否定したかったが、代わり愛紗の白皙から伝ったのは、冷汗であった。

 均整の取れた武人の肉体の内で、心の臓が暴れて四肢を小刻みに揺らしていた。

 

「でも……いくらなんでも……何進さまを取り逃すというのがまずありえないことです」

 か細い声で、朱里が言い、唱和するがごとく雛里が続いた。

「加えてここ河内は黄河を後ろに持つ、いわば背水の陣。加えて大軍を十全に展開できる余地がありません……もし曹操軍が最初から、この地を戦場として目をつけ、失敗を装って大将軍さまを怒らせて詔を乱発させ、我らをあえて集結させていたとしたのなら」

 

 ――そのうえで、万が一この軍勢が正面から破られるようなことがあれば。

 天地が覆る。あらゆる道理も、正義も喪われ、曹操の無道を阻む者が、この河北や中原から存在しなくなる。

 

「愛紗ちゃん」

 経験がためか。あるいは彼女の肉体に眠る劉邦の血や魂がそうさせるのか。

 こういう時の、劉備玄徳の判断は速い。

 無言のうちにその意図を目で受け取った愛紗は、首肯とともに鈴々を叩き起こし、また朱里を伴って盧植につなぎをつけるべく脚を急がせた。

 

 出立の際に一度、愛紗は自陣を顧みた。

 留守を任された雛里はその場から動かず立ち尽くしたようで、

 

「……まさか……」

 

 と、その小さな唇が動いた気がした。

 

 ~~~

 

「なに、盧植が?」

「はい、『ここに集められたは曹操の策謀。その術中に完全に陥る前に、現段階の兵力のみで南進し、都を急襲して奪回すべし』と大将軍へ具申したとの由」

「それで、何進はなんと?」

「まともに取り合わなかったそうです。また、盧植自身も確たる論拠あっての進言ではなく、駆け込んで来た弟子たちに代弁を頼まれてのことで、それ以上は強いては押し出せなかったようで」

 天幕の下、密偵からの報告を受けた張譲の頬には、冷笑が浮かんでいた。

 

 が、そのすべても益体もないことだとは思ってはいなかった。卑賎の者の取るに足らぬ妄言とは。そもそも、宦官自体が本来であれば蔑まれる側である。いかに相手が矮小な出自であろうと、聞くべき点があれば採り入れることもやぶさかではない。

 

「なるほど中々に鋭き考察ではある。何進の脱出に不審な点があるのも確かだ。が、その意見には大きな見落としがある」

「と、言われますと?」

「まず第一に、洛陽を焼け野にするのを厭うたがゆえに脱出したのだ。それを今取って返し攻めるとなれば、本末転倒ではないか?」

 

 せせら笑いながら、張譲は丹念に煎れた自身の茶を杯に注いだ。

 

「第二に、この河内を退避先に選んだのは、他ならぬ私だ。まさか神でもあるまいに、曹騰(そうとう)が孫ごときに我が思惑を操ることができるはずも」

 

 そう言いさした、まさにその刹那。

 剣閃のごとき直感が、張譲の首筋を襲った。手首のあたりまで茶が大きく跳んで溢れた。

 

「――待て」

 十常侍筆頭、張譲。

 宮廷の権謀術数を支配してきたこの宦官は、その海千山千の老獪さゆえに気づいてしまった。

 自身の呟きを切欠に。その仕組みに。

 

「待て、待て待て待て、待て……!」

 

 杞憂に過ぎぬと思っていたが、その欠落を埋められる存在を、知っている。

 とするならば、その者を用いた曹操の、次なる一手も自然見えてくる。

 ともすれば己以上に、天を天とも思わぬ、その鬼手を。

 

 悟ってより後、小刻みに震える腕をもう一方で押さえ込み、杯をゆっくりと文机の面へと下した張譲は、声を上ずらせながらあらためてその密偵へと尋ねた。

 

 

 

()は今、どこにいる?」

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