恋姫星霜譚   作:大島海峡

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漢(四):地虫(★)

「こ、困ります! いくら張譲様と言えども、お休みのところを……!」

「どけ」

 

 慌てふためく宦官を押しのけ、張譲はそのとりわけ豪奢な帳の内へと入った。

 異変はすぐに鼻先で察知できた。

 鉄錆にも似た血潮の匂い。衛士はことごとく斃れている。目立った外傷も出血もない。最少の行程で、一声もあげることさえままならずに彼らは殺害されていた。

 そして彼らが護っていたはずの人物は、影さえ見えなくなっていた。

 ついて来ていた宦官が衣を裂くがごとき悲鳴をあげた。その過失と凄惨な光景とに打ちのめされて、その場に昏倒する者さえいた。

 

「これの、どこがお休みだ?」

 苛立ちながら褥に触れる。

 まだ温い。この惨事が起こってより、さほど時は経過していない。

 

「馬を出せ、私が直接追う」

「し、しかし……ほかの方々には?」

「身内の恥を晒す馬鹿が何処にいる? そもそも手勢を集めている暇はない。差し当たっては朱儁にのみ変事を伝えよ。今いる近衛は私に続け」

 

 静かに、鋭く指図を飛ばしながら、張譲は彼女の、徐庶元直の逃亡先を推察する。

 東から迫る曹操の本隊と合流した? 否、それは考えにくい山越えをするとは考えにくい。

 

(となれば、南か)

 

 船着き場までたどり着かれれば、面倒なことになる。

 おそらくはそこには、手引きをした仲間が待機しているはずだった。

 

 ~~~

 

 果たして徐庶の痕跡を急追していた張譲は、倒れ伏す少女を発見した。

「こやつ……義勇軍におりました娘です。如何なさいますか?」

「放っておけ。欺かれ、連れ出すための口実にでも使われたのであろうよ」

 馬上、言下に吐き捨てた張譲はしかし、その娘よりさらに先、ついに徐庶とそれに折り重なる女の影を視た。

 それはそうだろう。人を背負っての逃避行。馬で急げば追いつけぬところではない。

 

 向こうも、張譲が手にした炬火からこちらの存在を悟ったようであった。

 一端顧みるも、迷いなく全力の逃走を開始する。

 もはや偽装する必要もないか。あるいは目くらましのつもりか。頭からかぶっていた女の帛が、はらりと風に流れた。

 

 ――髪質だけは神秘の輝きを持つ豊満な少女……ただいまの帝その人の姿が、露わになった。

 

「徐庶ッ、貴様ぁぁぁ!」

 

 ここまで堪えていた憤怒を爆発させた張譲の意気に応じ、供を含めた馬脚もまた加速する。

 だが張譲はまだ冷静な部分を己の内に確保し、意志力をもって維持している。

 

「弓は射つな! 陛下に当たる!」

 矢をつがえた騎士たちにそう命じ、あくまで白兵戦をもって制圧を目論む。

 いかな徐庶の剣才と敏捷さをもってしても、容易には振り切れまい。ここからまだ黄河までは距離がある。

 

 ――が、帝を背負いながら全力で疾走する裏切者の行く手に、一台の馬車が停まっていた。

 一同がしまったと思った時にはすでに、徐庶はひらりとそこの幌の内に乗り込み、天の御遣いとおぼしき茶髪の男を御者としたそれが発進した。

 

 が、それで当然断念できるわけもなし。

 猛追する騎馬団であったが、にわかにその軍馬のうちの一部が嘶きをあげてにわかに棹立ちとなって騎手を振り落とした。

 

 見れば、徐庶は幌の内より鉄の菱を張譲たちの追跡路に地面に撒き散らしている。

「次から次へと悪あがきを……ッ」

 歯噛みした張譲ではあったが、諦めない。さらに加速し追いつくや、車の横合いへと馬を寄せて幌を剣で引き裂き、炬火を投げて空けた手でもって縁へと手をかけた。そこから帝の身柄を中抜きしようという算段であった。

 

 だが、その切れ目より張譲は、信じられぬ者を視た。居てはならぬ者が居た。

 徐庶のほかに、己が良く知る青い髪の娘が、帝の後頭部を自身の膝に置いていた。

 

(ふぁん)……ここで、何をしている」

 朝廷に絶大な影響力を誇った権謀家は、愕然として趙忠へと尋ねた。

 だが、彼女の方はさして驚きもせず冷ややかに養父を見返し、

 

「常に似ぬ、浅ましきお姿ですこと、張譲さま」

 と吐き捨てた。

 

「山野にでも捨て置けと、ご自身でおっしゃったではありませんか。その御方を曹操に預けることに、なんの不都合がありましょうや」

「なにを、言っている?」

 

 黄は懐より短刀を静かに抜いた。

「おい……なにをする気だ? やめろ、やめろォ!」

 何のためのものか。如何に用いるか。あえて考えるまでもないはずのその所作に、美貌の宦官は取り乱して声を荒げた。

 

 

「えい」

 

 

 その声は愛らしく。だが明確な殺意を憎悪をもって。

 縁にかけられたその指を、黄は易く切断した。

 あがる断末魔。支えを喪い宙に浮いた張譲は路上に転がり、その首を馬車の後輪が巻き込み、自然ならざる負荷を加えられたその頭部はあらぬ方向へとねじられた。

 

 ~~~

 

 ……張譲は、義娘への愛それ自体は人らしきものであったがゆえに、計算が狂ったことに気づいてはいなかった。

 彼の打算としては黄と帝……劉宏(りゅうこう)とを幼き頃より起居をともにさせることで、彼女に黄より与えられる情報のみがこの世のすべてだと思い込ませ、自分に都合の良いよう御するつもりであった。

 

 だが、それ以上に黄の方が、劉宏への並々ならぬ愛情を抱いてしまったのだ。

 それこそ、ありとあらゆる労苦をさせず、わずかな罵倒さえも許容できず、もしそれを侵す者があれば、たとえ義父であろうと容赦なく切り離すことを厭わぬほどに。

 

「ふゃっ?」

 車体が一度大きく揺れ動き、ようやくそこでかの殿上人は目を覚ました。

「どうしたの、黄? やけに騒がしいけれども」

 起き上がって寝ぼけ眼を擦る、無邪気な童女そのものという帝に、少し残念そうに間を取りながら黄は頭を下げた。

 

「お騒がせしてしまい申し訳もございません。地虫が車にへばりついておりましたので、追い払っておりました。どうもそれが車輪に挟まってしまったようで」

「まぁ、虫が? こんなに揺れるほどなんてよほど大きな虫なのね。ぜひ見てみたいわ!」

「いえいえ、本来であれば陛下のお目に触れることさえ汚らわしい、害虫ですわ」

 

 悠然と、だが徐庶にのみは察せられる微妙な酷薄さを口元に称え、彼女の忠臣は目を細めた。

 

「しかし、これよりは黄めがついておりますゆえ、何に煩わされることもございません。帰途はどうかお心安く」

「あら、もう都へと帰るのね。もう少し遊んでいたかったわ」

「えぇえぇ、でもあまり遠出をするのも危のうございますゆえ、今宵のお遊びはこれまでといたしましょう」

 

 ……何故都を出ることになったのか。何故戻るのか。そしてこれから何が起こり、今は一体何者が死んだのか。

 それら一切を知らされぬまま、ただ一夜限りの遊山と思い込んだまま、帝は帰洛する。

 

 黄は、最後に張譲のいたあたりを睥睨した。

 そこにこびりついた指の残骸を袂越しにつまみ、そして外へと投げ捨てたのであった。

 

 

 

【張譲/恋姫(オリジナル)……轢殺】

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