恋姫星霜譚   作:大島海峡

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漢(五):暗夜長陣(後)

「……一応、兵の流出は止まりました。ですが、それでも当初の見積もりの三分の一しか残りませんでした」

 

 如何な名将とて、一度敗亡の匂いを嗅ぎつけた兵士たちを引き留めるのは難しい。そのことをあらためて噛み締めながら、風鈴は軍議の席でそう報告した。

 

「さらに、敵軍が上党に差し迫りつつあります。壺関が落ちた後も抵抗を続ける袁紹の旧臣らから、救援要請が発せられております」

 と便乗する形で凶報をもたらしたのは、張楊である。それを頭を痛ましげに片腕で支える何進は、

 

「殿下……いやさ陛下は何処に座す?」

 と、まったく別の話題に触れた。

 

「大将軍様、未だ劉協様は天子ではございません。そうされたいのであれば、正式な禅譲をお受けしてからそうお呼びするべきです」

 楼杏の直言に、ますます何進は昂ったように喚き立てた。

「詭弁を申すな! 今我らが帝を擁さねば、大義のうえで我らが押し負けるではないか! で!? 結局劉協様は!」

「……繊細なお方です。ただただ姉君様のことを案じ心痛め、勉学に励んでおられます」

「要するに、現実を受け入れられず引きこもっておられるということだろう……悠長に本などお読みいただくような状況ではない! 陣頭にお立ちいただくとか建設的な発言をなされよというのではない! せめて次期皇帝として皆の前にお姿を見せ、あらためて姦雄討滅の詔を発して正義は変わらず我らにありと示していただく!」

「未だ曹操側の内通者がいるかも知れないのに、衆目に晒させるわけにもいかんでしょう」

 嫌味ったらしい調子で雲雀が返す。

 

「おう、事あるごとに我が意に背く貴様が、やはり裏切者ということも考えられるがな」

 などと買い言葉で何進が冷笑を浮かべる。両者の間で穏やかならざる気配が醸され、その不味い空気の滞留を楼杏が咳で払った。

 

「とにかく! 今は曹操軍の迎撃を優先すべきです。来るはずのない援軍を待ち、過ぎたことの議論を重ねるよりも、先んじて要所を押さえて曹操軍本隊の西進に備えるべきです」

「……南下し、都を直撃すべきではないのか」

「恐れながら、その機は逸しました。今あえて渡河をすれば、曹操軍に挟撃されます」

 

 そう説く風鈴の胸にも、暗い後悔が過ぎる。

 あの時、桃香たちの言葉を真摯に受け止め、もっとしっかり何進に進言していれば、もっと別の結果があったはずである。

 

「とすれば、主戦場はこの并州、ということになりましょうな」

 あまり気乗りしない様子で、末席より張楊が言った。

「張楊殿、とすれば軍を展開できる場はどこになりましょうか」

 頷き返した風鈴が尋ねれば、張楊は上党の一区画を指し示した。

 四方を山に囲まれた、いわば盆地である。

 

「あの、それであれば一つ提案が」

 白蓮の副将待遇で軍議に参加していた桃香が、その背に立ったままおずおずと言った。

 

「であれば、上党の口を抑えて侵攻を防ぎつつ、予備に回される予定の一軍を鄴城へと回し、その背後を脅かしてはどうでしょう。そうすれば、曹操さん達も決戦を前に貴重な一部を割かざるを得ず、比較的有利な条件で戦えるものって朱里ちゃ……一案があるんですけれども」

 恐らくそれは、彼女自身の考えでは無く、その軍師たる朱里の発案だろう。この議場が開く前に、ここまでの流れを先読みしていたに相違ない。

 

「誰だ貴様は? 下郎のせせこましい策などいちいち採り上げていられるか。下がりおろう」

 だが、虚しくその有効打は言下に退けられた。

 

「なるほどねぇ」

 と、雲雀が皮肉っぽく笑い、またも何進に睨まれた。

「いやね、大将軍様への疑いが今、私の中で解かれたというだけの話ですよ」

 本人自身は不審げに眉を顰めただけではあったが、風鈴にも言葉にしないまでも察せられるところがあった。

 

 要するに、曹操が何進を穏当に官軍へ送り返したのは、彼女に仕切らせた方が都合が良いからだ。

 決して愚劣な指揮官ではないのだが、もはや現状は彼女が独力で対処できる範疇を超えている。にも関わらず、本人自身は報復戦に率先して乗り出す気でいるし、その矜持の高さゆえに自身の器量と理解を超えるものには排他的となる。

 

 自分が桃香の案を後押しすればそれは、教え子ゆえの贔屓と見られ、やはり何進の態度をより頑なにさせるだろう。となれば、戦が始まり変化する状況の中で誤った判断を何進は下しかねない。

 その恐れが、縋るような桃香の目つきに対しても風鈴に沈黙を選ばせた。

 

「では、次の方策を私から」

 と楼杏が進み出て言った。

「確かに劉備殿の案には魅力がありますが、その結果膠着を生み、持久戦ともなれば兵糧を持たない我々が一層の不利となります。短期決戦が望ましいかと思います」

「うむ、それで具体的な陣立ては何とする?」

「大将軍様と殿下は中央に陣していただき、両翼を私と子幹とで敵に攻勢を加えます。そして要点はここから」

 

 と、楼杏は眼鏡を閃かせて筆を取り、製図に線を引いた。

 執った筆先の示すところは、右翼側の裏手に当たる山麓である。

 

「その攻勢に紛れさせ、一軍をこの高所に進めます。……皆さんの何人かは承知ですが、曹操は多く優秀な幕僚を抱えてはいますが、基本的には独力の人です。両翼の主導権を握れないとあれば、状況を打破するべく自ら押し出してくるでしょう」

「そこを、高所からの逆落としにて……いや中央両翼から包囲し、一挙に曹操を討ち取ると言うわけか」

 

 理解を示した大将軍に、楼杏は強く頷いた。

 風鈴としても、次善の策としては申し分ないとは思った。奇のてらいこそないものの、いかにも歴戦の皇甫嵩らしい、即興とは思えない老練で手堅い陣立てである。雲雀も何も言わず、平素の憎まれ口を閉じている。

 

「大将軍様、この公孫伯珪も皇甫将軍の意見に賛同します」

 と、そこで白蓮が起立して言った。初めて弟子間で意見が割れた。

 

「そして願わくばその別働隊の任、私にお授け下さい」

 といつになく、強い口調で続ける。

「奴は妹と従弟たち、数多家臣戦友らの仇です。私の手でその首を挙げたい」

「白蓮ちゃん……」

 未だ顔色は戻らないものの、その目には往時以上の気合と悲壮さが宿っている。

 

「曹操は自身の尊大さと悪行によりて身を滅ぼす、というわけか」

 何進はそう呟いて、強い毒気を持つ嘲りを浮かべた。

「良かろう。その策を採る」

「お待ちください、大将軍様」

「決めたのだ。子幹よ。もはや考えを改める気はないぞ」

「……分かりました。であれば、少しその案に修正を加えたく存じます」

「修正だと?」

 

 訝る何進と皇甫嵩の前で、盧植は言った。

 

「願わくば、私は万難を排するべく別働隊の介添に回りたいと思います。左右いずれかの指揮は、公偉将軍と、あとその麾下の御遣い殿にお任せいただきたく」

 その意外な提案に、雲雀と白蓮、両名の目が丸くなる。

「まぁ良いわ。その辺りの細々とした打ち合わせは貴様らで詰めていくが良かろう」

 勿体ぶって進言してきた割にはどうでも良かったな、と言わんばかりに雑に手を振られ、漢王朝の三羽烏にある程度の裁量が委ねられた辺りで、軍議は切り上げとなった。

 

 〜〜〜

 

「……すみません、風鈴先生」

「良いのよ〜、こちらこそごめんなさいね、白蓮ちゃん。そんな思い詰めてしまうまで、何もしてあげられなくて」

 本陣夜営地より出て、すっかりやつれた頬を包み込みながら、精一杯の慈愛を風鈴は示した。

 

「……ほんとうに、ごめんなさい」

 それでもなお、詫び足りないと言うのは生来の愚直さゆえか。

 風鈴は首を振って身体を離した。

 

「あなたは、あなたの進むべき道を進みなさい」

 白蓮は張り詰めた息をそのまま呑み込んだ。水面の如く揺れ動いていた瞳の輝きが、師の訓戒を受けて定まったようであった。

「では、準備に入りますのでこれにて……行こうか、桃香」

「え、あ、うん……先生、それじゃあまた!」

 

 自陣へと出立していった愛弟子たちを見送った後、風鈴は思わせぶりなため息をこぼした。

 

「戦の前に、そのため息は不吉じゃない」

 師弟水入らずの時間を慮ってか。それから間を置いて悪戯っぽい感じで楼杏が語りかけてきた。

「ええと、ごめんなさい。何か用事? 話しそびれたことでもあったかしら」

「あったわよ……どうして、朱儁との部署替えを希望した?」

「……まぁ、言った通り、もしもの備えって感じかしら。雲雀ちゃんは、そんなに信頼できない?」

「手元に置いていた方が安心よ」

「ですって、あなたはどう思う?」

 

 と、陣幕の裏へと風鈴は声をかけた。

 朱色の女将軍は、バツが悪そうに背を丸めてその影から現れた。

 

「彼女の将器は決して汚れ衰えてなどいないと私は信じている。先手となっている胡騎校尉殿は言うに及ばず……というより天凛が備わっているお方。そんな人たちを戦力に組み込まないのは、炊いたばかりのご飯をそのまま固まるまで放置するようなものではないかしら?」

 

 ふんだ、と楼杏は歳不相応に拗ねてそっぽを向いてしまった。だが拒んではいない。

 それに苦笑しながら、今度は億劫そうに接近しつつあった雲雀へと話題を転じる。

 

「雲雀ちゃん、宦官たちの様子は?」

「残された十常侍含め、もはや腑抜けて人畜無害な生き物だよ。全てを取り仕切っていたのは張譲だ。その張譲があぁも無惨に殺され、自分らは帝や趙忠に見捨てられては、すでに軍政に口を差し挟む気概もないだろうに」

 

 あれほど敵視し、いずれその特権は奪わねばならないと考えていた相手。

 そのあまりの凋落ぶりに、さすがに憐憫の情も湧きかねなかった。

 

「皮肉なものね」

 楼杏が言った。

「十常侍の無力化、何進一派の追放。月さん達が思い描き、ついに成し得なかった理想を、おそらく漢王朝の権威などまるで気にしていない曹操が、たった一夜で実現してしまった」

「そして我らはその旧弊の加担者としてまとめて片付けられる、というわけさ」

 雲雀が叩く軽口に、楼杏は冷ややかに睨み返した。

「冗談だよ」と彼女は肩をすくめて見せた。

 

「だからと言って、この行いが肯定されて良いわけがない」

 珍しくきっぱりと言い切った風鈴に、ふたりはそれぞれなりの重みをもって頷いた。

 

「でもね」

 二人の間に立った彼女は、両手を僚友たちに差し伸ばして繋ぎ止める。

「やっと社稷を糺せるところまで来た。たしかに窮地には違いないけど、曹操さんに勝てば、その先に私たちの夢が続いている」

 わずかに逡巡を見せた後に雲雀と楼杏は向かい合った。互いの瞳を覗き込み、そして確かめ合った。

 すなわち、漢朝に異心ありや、なきやと。

 

「だから私たちもやり直しましょう。ここまではいくつもの間違いを犯したかもしれない。手を携えて進むべきだった。これからも道を外れ、ひょっとしたらまた袂を別つこともあるかも分からない。それでも、この戦だけは共に戦い抜きましょう」

 

 強く、しかし優しく卵を暖めるように友人たちの手を握りしめる風鈴。

 その手には確かに握り返す感触があった。

 そして互いに合図するでもなく見上げた空には、満ちた月が白く輝いていた。

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