曹操軍の旗色が悪いことは、もはや兵士たちにさえ明らかなことであった。
否、前線に在って本能で危機を嗅ぎ取る彼らは、その辺りの感覚において馬上の凡将よりも鋭い。
こと、今日に至るまでに黄巾から袁紹と敗亡を重ねてきた青州兵においては、特に過敏である。
その賊兵たちの中核にいるのが、三人の男たちである。
互いに本当の名は知らない。
見るからに粗暴で魯鈍そうな大柄のが『デク』。
その矮躯さえ持て余すほどの賢さも感じられない浅薄な『チビ』。
そんな彼らよりかは年齢分いくらかマシな分別はあるが、やはり大元はごろつきの性根である『アニキ』。
もっとも、彼らが別に指揮官や部隊長というわけではなかった。
彼らがいるところに同族意識か似たようなあぶれ者たちが離散集合をくり返す。そう言った類の人種である。
そんな彼らは今また、人生の岐路に、矢面に立たされた。
すなわちこの苦境に在って、退くべきか、退かざるべきかという二択である。
もっとも、おおよそは後者を択ぶ。
「もう曹操は駄目だ! 逃げましょうぜアニキ!」
とチビが喚き立てるように。いつものように。
そうやって彼らは乱世をやり過ごして来たのだから。
だが。
そのままで良いのか。いつものように。変わらないままで。
俄に変心したとか突如に使命感が芽生えたとかいう訳ではない。
それは常にアニキと呼ばれた男の内に沈んでいた疑問であり、尋常ならざるこの状況が自覚できる辺りにまで表出させた感情に過ぎない。
「あ、アニキ!?」
知れず、彼の足は逃げ崩れる同胞とは逆の方向へと向いていた。
もはやその下半身には感覚がない。別の生き物に乗せられたがごとく転進した兄貴分に驚愕し、
「何やってんだよ、ガラでもねぇ!」
「うるせぇ!」
勢い弟分の制止を振り切って叱り飛ばしたアニキであったが、かと言って確たる方策も思い定めないままの蛮行であった。
およそその内情は理とは程遠い。
(け、けどよぉ……天和ちゃんたちも見捨てて袁紹のところから逃げ出した挙句に、ここでも逃げ出したら、いよいよ俺らには逃げる場所も居場所も無くなっちまうんかねぇかってよぉ)
今更自分に出来ることはない。英雄になれないことは良く弁えている。
帰農する機会はいくらでもあった。苦み走った顔役に太々しく顎で扱き使われ、朝から晩まで鍬振るい種を播く。だがそれでも、命のやりとりをするよりかは余程マシだともう分かってもいる。
それなのに、今なお剣だの槍だのを握っている。足を竦ませ、震えながら。顔面の孔という孔からは、絶え間なく体液が流れ出る。
そんな彼を支えているのは、勇ではない。
この戦が、今後の中華の舵取りを決める大戦だと冷汗にまみれた肌身で感じる。だがこの一戦からも背を向けてしまえば、正真正銘、何者でもない塵芥となってしまうのではないか。その恐怖であった。
ならば、せめて。
せめて一太刀、せめて一歩。
(何もカッコつけようってのとかそうゆうんじゃねぇんだ! けど、ここまで俺が、いいや俺らがしがみついて来たこととか考えたら、この場にいて何かしたって胸を張りたくなってな。い、いやそうじゃなくても良い、この一歩で蹴躓いて後々笑い話にでもなりゃヨォ、それで良いじゃねぇかよ)
今この瞬間に、生きて、立ち会ったというその確たる証が、自分の中で欲しかった。そのために、今、アニキは踏み出した。
とその決断と等しくして、対する皇甫嵩軍は攻勢に出た。
敵が怯んだと見るや、遊兵を作らず前面に弓兵を展開させ、斉射をもって追い討ちをかける。華美さはないがその即断と練り上げられた用兵術はまさしく歴戦の手腕によるものである。
飛来する矢の中、アニキは駆けだした。
が、半歩と満たないその移動距離の間に、矢雨が本降りとなるかどうかの間際という辺りにて。
アニキの眉間で、物悲しくなるほどの快音が響いた。
流れ矢が額と頭蓋を射抜いたがゆえだと気づいたのは、力なく膝を地についた時であった。
「は、はは……空っぽで、やがんの」
最期の言葉は嘆きか、自嘲か。
口端に浮いたは、苦笑か充足か。
それすら定かとはならないままに、敵味方の兵に名もなき男の骸は蹂躙されて、原型を留めることはなかったという。
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「青州兵、潰走!」
「二陣のロイド殿が防いでおりますが、こちらも劣勢!」
「さらに左翼側も敵先鋒の勢い、止まらず!」
「中央の三将、関羽一人にかかりきりです!」
「さらに公孫賛がその隙に丘陵を占拠!」
相次いで舞い込む凶報に、帷幄の桂花は苛立ちとそれに伴う舌打ちを隠さなかった。
「なんとしてでも食い止めなさいっ! 司馬懿は何をやっているのッ、そのための遊撃軍でしょう!」
小さな躰のどこからそれほどまでの大音量が絞り出されるか。苦笑しながら、かつ悠然と、席を立った華琳はその前を通り過ぎた。
「前線に出る」
覇王の一言は幕内を騒然とさせ、彼女の集めたあらゆる智者をも狼狽えさせた。
「お、お待ちください! 例の仕掛けが未だ確かとも言えず……むしろこの状況が多少なりとも好転しない限りは……っ」
「だからこそ往くのよ。私が動くことで敵方を惹きつける。そうすれば、仲達にせよ『彼女』にせよ、動きやすくなるでしょうよ」
「しかし……」
なお愛主の身を案じ食い下がる桂花らを喝破し、かつ己に言い聞かせるかのように、華琳は高らかに宣った
「この曹孟徳においての勝利とは、天下とは、座して皿の上に運ばれてくるものに非ず。泥と敵味方の血に塗れて自らの手で掴むものである!」
その王の論を持ち出されては、王佐であれども王者そのものではない家臣らにこれ以上の諫止は能わず。近侍より自らの鎌を受け取った華琳は、その切っ先を前方へと向けた。
「出撃!」
……だが、その動きこそ何進もまた望んでいたものである。
曹操動くの報せを受けた大将軍は隠すことなく我が意を得たりと哄笑し、
「公孫賛へ鏑矢を放て! ……曹操を、撃滅せよ!」
と鋭く命じた。
一雑兵の遺した想念が届くべくもないものの、その死にまつわる動きを皮切りに、天下争覇のこの会戦も、終局を迎えつつあった。
【アニキ/恋姫……戦死】