恋姫星霜譚   作:大島海峡

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漢(七):転落

 鏑矢が天へと上がっていく。

 紅に輝くものが、数条の軌道を描いて。

 

 ひゅるひゅると奏でられる音は、どこか物悲しく聞こえる。

 こと、そこに敵陣を蹂躙する馬蹄の音が轟かなかったとなれば、なおのこと。

 

「え……? 公孫賛、動け……公孫白珪! 何故動かん!?」

 いくら乱戦だとて、あの高さから見えぬはずがない。聞き漏らすはずがない。

 

「ええいっ、ついに呆けたとでも申すか! やむを得ん、直接に伝令を遣わし、あの駄馬どもの尻を叩けっ」

 だが現実を無視して思考を硬直させ、当初の目的を墨守する。

 何進がこの停滞の理由を悟り、そして絶望するのは今少し後のこととなる。

 

 〜〜〜

 

 一方で、鏑矢が打ち上がる前に智者たちの中には気がつく者もいた。

 特にいち早く察知しえたのは、諸葛亮であった。

 

 劉備軍将兵に釣られたことによる司馬懿の遊撃軍の分散は彼女自身も望むところではあったが、その後易々と、望外もせず公孫賛軍に背後の丘陵を明け渡したことで疑念が生じ、そして驚嘆するに至った。

 

 帷幄を飛び出した朱里は声と小さな肉体を震わせ、

「桃香様……義真将軍。今すぐ主力を右翼側へ傾注してください……いえ、鈴々ちゃんだけでも、未だ混乱しているかの陣へ潜り込ませ、動く前に『彼女』を」

 と今までに聞いたことのない低い声で進言する。もはや「はわわ」と口にする気力さえ残されていなかった。

 

 え? と小首を傾げる桃香の裏で、雛里も皇甫嵩も、そこでようやくハッと息を飲み込み、瞳孔を開け広げた。

 

「まさか……っ剣里さんが言いたかったのは、このこと……っ? で、でもこれは……あまりに……!」

 動揺しつつもそれでも、自分の為さねばならぬことのために鳳雛は、皇甫嵩へと進言するべく不安げな顔を向けた。

 

「いずれも、登らせた以上もう遅い! 陣形を方円に切り替え! 後退して戦線を縮小し、中央を固めよ!」

 

 だが皇甫嵩は、その一言を発する前に鋭く下知を新たに下した。

 

「し、しかし勢いを取り戻したばかりの先手の董承様が、納得しますかどうか」

「この異変に気づかずまた上将の命にも背くとあれば、援護の必要なし! 最悪見限る!」

 

 温厚で沈着な表情から一転。眼鏡の奥底で剣呑な眼差しとなって部下の反論も許さぬ厳格な雰囲気を帯びた彼女に対し、佐将の桃香は未だ要領を得ないままに立ち尽くしている。

 魯鈍なようでいて、しかして恐れはない。あまりに場違いな空気を持つ少女は確かにある意味大器であるらしかった。

 

 両軍師は顔を見合わせた。その心許なさげな表情は、分からないのではなく打ち明けたくないがゆえ。主人の心痛が如何ばかりになるかという不安がゆえである。

 やがて意を決し、頷き合った彼女たちは、断定に近い敵の策の推測と、その中心人物の名を告げた。

 

 〜〜〜

 

「……ま、普通は考えが及ばねぇし、考えつくようなもんでもないわな」

 半ば晴れつつある霧、そこに未だ半ば我が身を埋める青狼は、そう呟いて唇を歪めた。

 

 策それ自体が、ではない。

 内通者を作ることなど、中華史上事例はいくらでも存在する。

 思い及ばぬというのは、人選の話。

 

 曹操と、公孫賛。

 漢王朝を巻き込んだこの騒動の、そもそもの発端となった二人。

 劉虞謀殺を名分に兵を繰り出し、応戦し、互いに身内を、友を奪われながら今日に至るまでに殺し合ってきた。

 果てにその確執と因縁は朝廷を含めた周辺諸勢力内にまで及び、戦線は過剰に肥大化した。

 その両名が、

 

 

 

「今更になって、結託するなんてことはな」

 

 

 

 ――公孫賛、離反。


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