恋姫星霜譚   作:大島海峡

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漢(八):潮目の中の去就(前)

 ――公孫賛、叛く。

 その凶報に触れた時、風鈴に驚きや弟子に裏切られた怒りはなかった。

 元来他者を憎めぬ為人というのもあるが、去来したのは

(やっぱり……)

 という諦観と、それに付随する我が身の不甲斐なさ。

 

 開戦前夜に神妙に謝った教え子を見た時から予感はあった。

 こうすることでしか、彼女が救われないということも。

 

 伝え聞くところによれば、董承は使者として赴いた際に劉虞のことで彼女を非難し、罪に服せよと恫喝したらしい。

 そして帰陣して後も、方々にその非を鳴らして回り、あまつさえ上奏の準備さえ独自に始めていたという。

 潔癖なのが彼女の美点でもあるが、同時に大いなる欠点でもある。

 よしんば勝利したとして、そこに白蓮の居場所はない。

 生き残る術は、これしかなかった。

 

 それを跳ね除けることのできなかった自分に、朝廷に、咎める権利などありはしないのだ。

 

「……ごめんねぇ」

 君子面をして、本当に大切な者を守り切れなかった悔い。悪に奔らせてしまった慚愧。

 それらに悲しげに目を伏せながらもしかし、次に顔を上げた時には凛然たる戦乙女の顔となって鋭く叱咤した。

 

「狼狽えず反転! 全軍が体勢を立て直すまで、我らは裏切り者の公孫賛軍を迎撃し、時を稼ぐ!」

 

 せめて最後まで漢朝の臣として、そして越えるべき壁として。

 教え子の覚悟を受け止めるべく、盧植軍は転身を始めたのだった。

 

 〜〜〜

 

 変異は伝播する。

 公孫賛の概ねの兵士たちが知るのは、まず事が起こった手近なところからだった。

 

「そもそも徐庶が裏切者だった時点で、接触した公孫賛めも疑うべきだったのだろうな……」

 独りごちた朱儁こと雲雀は、やがて自陣を本格的に襲うであろう大恐慌を覚悟し、祈るが如く瞑目した。

 単純な兵力や形勢に限った話ではない。

 公孫賛の援護、河北の静謐。

 この主無しの軍がなお掲げる大義の第一義の喪失を意味している。

 ほどなくして、後ろより外様の味方が崩れ立つであろう。

 

(しかし、まぁ)

 なんたる有様。

 なんたる無様。

 ここまで自分が濁流を呑み、清流と繋ぎ留めてきた朝廷は、ただ一朝一夕にて露と消えた。

 

(私を意識してのことではないだろうが、曲がりなりにも漢の上将の骨折りを、よくもまぁここまでコケにしてくれたものだ)

 

 だがそんな自嘲をよそに、不愉快な現実は時と共に迫ってくる。

 

「夏侯惇軍、一転して攻勢に打って出てきました!」

「徐庶の分隊が北畠殿を迂回、こちらの側背に回りつつあります!」

「敵はこの機を待っていたんだから、乗じてくるのは当たり前だ! 北畠ならばまだある程度は持ち堪えられる。逆さ雁の隊列にて徐庶を待ち受け、これを防ぎつつ戦線を縮小!」

 

 矢継ぎ早にもたらされる凶報、刻々と悪化していく戦局を、努めて正気を維持しつついなしていく。

 そこに、張飛が陣中に踊り込んで、

「み、水……」

 と甕に無断で手を伸ばす。

「ちょっと疲れてきたから戻ってきたのだ!」

 と明るく言う彼女を、無言で雲雀は盗み見た。

 なるほど挑発に乗ったかに見え……いや実際本気で夏侯惇は引っかかったのだろうが……驚異的ながらも体のつくりそれ自体は未成熟な少女と、武人として完成され、かつ無意識下で体力の配分を考えた動かし方を心得ている夏侯惇とでは、長期戦ともなれば差が生じるのだろう。

 まして、そこに敵の怪力無双の士が援護に出れば、なおのこと。

 

「でもすぐに戻ってあいつらをコテンパンにしてくるのだ!」

「いや、良い時に戻ってきた」

 息を整えた途端にたちまち気を吐く張飛に、雲雀は言った。

 

「君のお友達が裏切った」

「にゃっ!?」

「公孫賛が曹操に寝返ったと言っている。今は彼女の軍でも動揺が起こっているが、いずれ統制を取り戻して坂落としで風鈴の軍を切り崩すだろう。君は前線には帰らず、そのまま劉備と合流した方が良い」

 

 頓狂な声をあげて目を丸くし、燕の少女は固まった。だが、ややあってからその目の色と形に正気と勇気が戻ってきて、前線に足を切り返した。

 

「おい、人の話聞いてたのかい」

「まだ前線ではそのことを知らない兵士たちが戦ってるのだ! ほっとく訳にはいかないのだ!」

「そっちの始末は私がやっておく。無関係の君は退け」

 

 ……と言ったところで、義姉ではない奸臣の言葉など聞く耳を持つまい。

 果たして無視して死地へと引き返さんと首巻きを翻す娘を、

 

「輔弼たらんとする者、進むべき時と退くべき時を知れ、張翼徳」

 と低く叱りつけた。

 顧みて睨みつけてくる少女の圧を年季の精神力でかろうじて跳ね除けた彼女は、あらためて正論を打った。

「『ルォォ』だとか『ルァァ』だとか大喝吐いて一将が鋒を揮えば戦局が覆る時代は、もはや終わったのだよ。それはあの呂布とて例外ではない。つまるところ将とは、命を捨てるべき時とそうでない時を見極めるものだ……この不毛な戦場は、君や君の主君の本懐ではあるまい」

 

 前面から押し出してくる熱と重圧が、増してきている。

 その中心に在る片目の将を、雲雀は指差した。

 

「ルァァァ! どこだ張飛ィ! 引っ込んでないで私と戦えええぇ!」

「それとも、夏候惇(あんなの)と同類となりたいか?」

「……いや、遠慮しとくのだ」

 

 激する人はより激しく荒ぶる者を見て己を恥じる。

 張飛とてその例外ではなく、やがてその場を立ち去った。

 その間際、振り返った彼女の眼差しに映った己は、どう見えたのか。

 国の凋落を招いた、曹操に劣らぬ逆臣か。もしかしたら漢の忠臣と見直されたか。いや、そのような資格などないことは彼女自身がよく弁えている。それに、散々しでかしておいて『実はあの人は良い(ひと)でした』などと言われるのは、性に合わない。

 

 後の史家は、創作者は、己を保身に奔った滑稽な半端者として描くだろう。それでいいと思っている。そう蔑まれる覚悟のうえで、この役を買って出た。

 

「――ただ、それでもこの時ばかりは、せめて顕家殿やあの小娘を安泰とするまでは、良い軍人でいなければな」

 

 敵の攻勢がさらに強まる。線ではなく、面での攻めに転じ始めた。

 溌剌とした軍だ。柔軟性がある。率いる各将の毛色も違う。こういう軍は知勇兼備の将を押し揃えた精鋭よりも、ともすれば敵しがたい。こと、雲雀のごとき正攻の将においては。

 

 だが、その苦境に在って、いやなればこそ朱公偉は、汚点だらけの人生において初めて濁りの無い充溢を感じていた。

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