動揺は中軍に及ぶ。何進が察し得たのは、兵たちの動揺によってであった。
それに先んじて、その魁を司る関羽雲長は事態を察して、そして憤った。
「盧植殿の私塾では智勇仁いずれをも修められると思っていたが、どうやらそうではない者が混じっていたようだな! 桃香様と盧植殿の慈悲に触れ、大恩を受けながら、外道に奔るか、公孫賛!!」
その憤りは己にも向けられたものである。
己が不明を恥じよ、雲長。ただ主人の縁故というだけでかの奸悪を無条件で信じてしまった、自身を。
だが、まだ雪辱の機は眼前に残されている。
聞けば、趙雲は寡兵をもって曹操の宗族を討ち、あと一歩まで追い込みその心胆を寒からしめたという。
あの娘ならばよもこのような卑劣な行いには参加していまいと願うのみだが、今は彼女と、同じことをすれば良い。
幸いにして中央にあって強者はこの対峙した三者のみ。突破さえすればあとは物の数ではない。
この身を一矢と変えて敵中を穿ち、孟徳が金柑頭、血潮に染めん。
そう念じて絡み合わせて刃をぐいと押し込む。
この仮面男、完全に打ち倒すことは出来ずとも、一気に押し込みその脇をすり抜ける分には問題ないだろう。
あとは敵兵を盾に目くらましにとやり過ごし、追撃を振り切れば良い。
「お見事」
仮面男は言った。曇りのない称賛である。
「某も味方の策の全容は知る由もないが、それでも此方の勝ちに大きく傾いたことは互いに察せられるべきところだろう」
「……だから、どうしたというのか。尻尾を巻いて逃げろとでも」
何の罠か、誘いか。
迫合いを中断した男は、身を退いて構えを解いた。
「逆境に転じたと知りつつ、なおも勝利を目指して揺るがぬその剛直」
ゆえに、と。
草を摺るようにして足裏と地面を噛み合わせた彼は、呟くように宣った。
「その勇武に敬意を表し、
なに、と声を枯らした、その間際。
男が消えた。転瞬、愛紗の面貌を風が叩いた。
その風圧の帷を切り裂き、切っ先が彼女の頸を襲う。
間を詰められた? 自分が? かくも易く?
「くっ!?」
持って生まれた武才が、愛紗を活かした。
反射的に肉体に全速での退避を命じ、かろうじてその刺突を避けた。
だが、身体ごとの突き、当然そこには大きな隙な生じ――ない。攻めが途切れない。
狙いを絞った雁のごとく、翻った剣筋が愛紗の身目がけて叩き込まれる。
何たる重さ。何たる激しさ。
防ぐ……否、防ぐ、しか、ない。
本来の己では思い及ばないほどに、関雲長は押されまくる。
隠者にして槍の名手、紫虚上人はかく語りけり。
長柄と対する時、剣士には敵に三倍する技量が要求される、と。
なればこの男の武辺、如何ばかりというのか……?
ここまで来ると、男女の別、という以上に生物として根底として人とは異なるモノ、とさえ思えた。
二歩、三歩と、二合、四合と重ねるごとに、その身は向かうべき曹操から遠ざかっていく。
いや、もはや自身の進退さえ危うい。
攻めるも不可侵。
避けるも不可避。
防ぐも不可抗。
逆撃も不可逆。
あるいは当初の目論見通りの紛れることなど、不可能。
不可
不可
不可
不可
不可
だが、しかし。
(諦めてたまるか!)
何も持たざる少女でありながら、この乱れた天下をただ徳治をもって円満に収束させるという能わざる大望のために劉玄徳は起った。その王業を輔けよという天の思し召しが、いと貴きかの大仁と邂逅せしめたのではないか。そのおのれが、出来ぬと心折れて何とするのか。
全身全霊を、その半生を使い尽くし、愛紗はかの剣鬼に応える。
ただ考えて動くのでは遅きに失する。直感でもなお至らぬ。
ゆえに理をもって二手三手先の剣筋を予測し、直感をもってそれに全力を傾注する。
読みを外せばこの身は容易く両断されるだろう。
「はぁァ!」
されど、その投機的な蛮勇をもって、初めて愛紗は、自らの三倍する敵と拮抗の兆しを見せた。
撃ち合いの中、両者の位置が振り出しへと戻る。仕切り直しとなる。だが、息が上がっているのは愛紗のみである。
(この男、あるいは曹操以上に危険な男かもしれない)
いや、単純な武のみ限定すれば、間違いなくそうだ。
この鬼を、敬愛する主の下へと行かせてはならない。この身に代えてもその剣を止める。そしてこの男に比べれば以外の衛兵など物の数ではない。必ずや突破して、曹操の、首を……!
そう決死の想いで踏み出した彼女の前途に、その背後から矢が降り注いだ。
列を成して地に突き立ち、再び死合わんとした彼女らを止める。
顧みれば片眼鏡の部下が弓隊を押し出して現れている。
その少女をきつく睨む愛紗は、その袖を掴み上げた。
「子明ッ、何故止めた! あと一歩で、曹操を!」
「無理です!」
常であれば過剰なほど怯えて口を噤む呂蒙が、この時ばかりは食い下がった。
「無理です、関羽さま……! 少なくとも、貴女を犠牲にしてまでのそれは、玄徳さまの勝利ではありません!」
彼女へそっぽを向くようにして再び前線を顧みれば、矢避けに護衛の少女らが迫り出して、男を守りかつ反攻を窺っている。
これにて突破の目はなくなった。いや、抜けると思ったことがそもそも幻想だったのだろう。そう思うことにした。
「す、すみません……偉そうなことを」
「……いや、良い。むしろ、よく目を覚まさせてくれた」
ややぎこちなくその肩に手を置いた愛紗は、偃月刀を敵に傾けたままゆっくりと後退していく。
仮面の鬼は追撃を仕掛ける様子はないものの、ほか二人と押されまくった兵たちはそうは行くまい。
「ここは、私が殿となります……不安でしょうけど、どうか食い止めている間に、玄徳さまに合流を」
「不安なものか。先の読みといい今の諫言代わりの斉射といい、見事なものだった……すまぬが任せた」
もはやその将器の発露、疑う余地もない。いや、そもそも自分が頑なに認めなかっただけで、初めより持ち合わせていたのだろう。
ともすれば彼女は、自分よりも上の大将となれるほどの器量である、と。
(なんだか、見ていると背筋が薄ら寒くなるのは変わらないが)
それでも、それがゆえにこの場は頼もしく思える。
「死ぬな、とお前自身が言ったのだ。お前も、命を捨てるような真似だけは、してくれるなよ」
肩を一度強く叩いた愛紗は、祈りじみた調子で言を残してその場を後にしたのだった。
〜〜〜
四方八方見返しても、つい一瞬先の勝勢を想えば信じられぬ光景が広がっていた。
大将軍何進はついに自らは軍馬に跨ることなく立ち尽くし、総身の肉を震わせ、薄い唇を噛み締める。
「まさか……まさか、こんなことが……!」
これは夢だ、夢を見ているのだと傾は信じたかった。
だが前後に迫るのは不出来な夢想のような、現実の出来事である。
未だ完全には状況を把握し切れず狼狽える近臣らを鬼気を帯びた形相で睨み回した。
「騒ぐなぁ! 騒ぐな騒ぐな騒ぐな騒ぐなっ! 何も起こってはいない! 誰も裏切ってなどいない! これは夢ぞ、かかる悪夢に惑わされてはならぬ!!」
ここまで人臣位を極めてきたこの何遂高が、ただ一夜にして全てを喪う、何故敗亡する。自分は何もしていない。これほどの仕打ちを受ける謂れなど何もないはずだ。故に……
「これは夢だ、夢を見ているのだ」
そう繰言を捲し立て、目の焦点が定まらぬ何進の方こそ、この場にいる誰よりも混乱している。
そんな彼女は配下の目に映り込んで揺らぐ己の虚像に、かつて見た豚の姿を幻視した。
屠り殺されるだけに生きている存在。明日には食肉になっていることさえ知らず、愛憎も善悪もなく無垢に見上げる黒い眼。
そうはなりたくないと思った。
だから、だから自分は妹が宮に上がるその機を、逃がすことなく……!
「ここまでね」
――妙に耳に親しんだ音調が、傍らより鼓膜に達した。
振り返る間もなく強烈な殴打を側頭部に見舞われた傾は、
「はうっ」
と情けない声とともに、カクーンと膝を突いて、意識を手放した。
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不慣れなことゆえ力の加減などまるでわかりはしなかったが、所詮はそんな女の細腕である。よもや死んではいないだろう。
だが、あのまま立ったまま退くも進むも命じないまま立ち尽くされては、やがて敵に駆逐されるのは素人目にも判り切ったことだった。
大将軍昏倒す、となっても自身の身さえ守れず唖然としている近臣たちを見れば、どうすべきかは明らかだった。
自分とて、今あるこの富も権勢も、手放したくはない。
(けれども幸いにして)
敵将曹操は大層な『女色家』らしいと聞く。再びこの色香をもって中枢に取り込み、栄華を得ることも適うかもしれない。元は帝の情人という立場も箔となろう。
そのためにも、今はこの場を切り抜けることこそが大事。
――他の何者も、知ったことではない。
「何をしているの?」
女官や宦官らを見回しながら、瑞姫は手を打ち鳴らした」
「……撤収っ! 取るものも取りあえず……いえ、宝物もこの姉も、拾えるだけ拾って、さっさと逃げるわよ!」