恋姫星霜譚   作:大島海峡

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漢(八):潮目の中の去就(後)

 中軍が割れた。

 総大将何進が我先に逃げ出したとも、あるいは昏倒して運ばれていったとも伝え聞く。

 いずれにせよこの一転した戦局はもはやかの大将軍の器量で覆せるものではないのだろう。せめて今少し踏ん張っていてくれれば、やりようはあった。少なくとも、離反者の後続は防げたものを、と楼杏は臍を噛む。

 

 もはや一体誰が指揮を執り、何を目的として結成された軍なのかさえ分からない。

 そのような集団を、利なしと見て次に裏切るのは、張楊か、公孫閥の御遣いか、あるいは朱儁か。

 

 風鈴が裏切ることなどあるまいが、それがゆえに彼女の安否が危ぶまれる。

 そして、陳留王劉協の所在も。

 

「……董承、あるかッ!」

 強権を用いて自陣にまで退がらせていた董承をそう呼ばわると、慌てて件の女が駆け寄ってきた。

 

「玄徳さんも聞いて……この戦、どうやら負けが決まったようね」

「何を仰せか! 我ら栄えある漢の忠臣! 各々が粉骨砕身に命を尽くせば、覆せぬ劣勢などありましょうや!?」

「そうですっ、まだ分かりません。これも、白蓮ちゃんの策戦のうちなのかも」

 

 まぁこれは予測の範疇の反応である。

 もはや勝算など立てられぬという軍師たちの沈黙も。

 

「志の高さは認めるけど、貴女たちが潰えたらそれこそその意志の敗北よ。今は、後事の策として漢王朝の生存の種を方々に蒔く。玄徳さん、貴女は友人たちと合流しなさい。そのための道は、私が拓く」

「そんな……でも! 将軍や先生たちがまだいるのに!」

「心配しないで、むざと討たれるつもりもないわ。適当なところで切り抜ける気よ。貴女にもしものことがあれば、それこそお師さんに顔向けできないじゃない」

 口調は優しく、眼鏡の奥にそれ以上の抗弁を認めぬ強さを帯びて、楼杏は退去を命じた。

 

「わ、私は……? また、敵を防ぎますか!?」

 不安げに董承が問う。前線に再投入するつもりなら、呼び戻しはすまい。

 と言うよりも、勢いが勝っていた時ならばともかく、正直に言えば指示や行動が空回りするだけかえって皇甫嵩軍本隊の阻害となるのだ。

 

「貴女は本陣に戻り、殿下の身柄を確保して頂戴」

「は……」

「良いわね? これは今後の漢王朝の趨勢を決める重要な任務よ……曹操の手に、二つも玉があるということだけは、避けなければならない」

 

 何進の言い分ではないが。

 劉虞亡き今、かの聡明な劉氏こそが漢王朝の再興の希望である。なんとしても落ち延びさせる。それが今自分たちが履行すべき、唯一にして最大の義務である。

 

「……はいッ分かりました!」

 ややあった沈黙と、それに比してあまりに軽い応諾が、わずかに引っかかったものの、あえて確かめることはしなかった。その余裕もなかった。

 神速夏侯淵の軍は、もはやその矢が楼杏の足下に届くまでに肉薄してきている。

 

 彼女らを送り出した楼杏は、あらためて前線に首を向ける。

「……さすがに、状況が状況だもの。最後まで粘るぐらいの意地は見せてくれるんでしょうね? ……雲雀」

 かつての旧友の真名を、小さく口にしながら。

 

 〜〜〜

 

「……まったくもって、あぁはなりたくないもんさね」

 車駕に乗せられて眼下を逃亡していく何進らの一団を見送りながら、冷ややかに張楊は言った。

 だがこれによって、漢軍を称する叛徒どもの運命は決定した。

 問題はそれを受けての自分らの去就である。

 

「これはもう曹操殿に降るほかありませんな。さっそく奴らを捕らえて手土産としましょうや」

「待て待て待て、早まるな」

 配下の潘鳳(はんほう)が後ろ向きに意気込むのを、彼女は制した。

 

 曹操側につく以外に選択肢はない。問題は、その寝返り方である。

 最善は、公孫賛がそうしたであろうように、事前に内応の約定を取り付けるべきだったのだろう。だがそれも、つい今し方まで義経が張り付いていたのだから迂闊に出来なかった。

 この戦場において勝ち馬に乗じたとして、曹操の心証はよろしくないのではないか。それよりかはこのまま上党城に籠り、涼州の馬騰韓遂やあるいは遼東の公孫一族、匈奴の影をちらつかせながら有利な条件を引き出すか。

 

(いやいや、そんなもん怒りを買ってすり潰されるのがオチか? でもここまで手段を選ばず勝ちを急いだってことは、長く南方を空けるわけにはいかないってことだろうし……ウーム)

 

 鼻を利かせての逡巡に、苛立ちを見せたのは件の楊醜である。

 この少壮の男は、彼女の沈黙を優柔と見てとった。

 

「よろしいッ、では我が討ってくるゆえ、そこで見ているが宜しかろう!」

 と息巻く。

 この賊上がりが純然たる功名心ではなく、姉妹の宝物目当てであろうことは想像に難くない。

 

 だが張楊は、翻ったその背の奥に、重く冷たい気配を、死の気配を嗅ぎ取った。

 

「……ッ、戻れ! 楊醜!」

 と声を張ったがすでに遅し。

 あわれ賊将は、箒星のごとき閃光に穿たれた。

 

「やはり次に裏切るのは、貴様か……張楊」

「げぇっ、趙雲!」

 

 ありえぬはずだった。

 眼下より見る限り、軍を割った趙雲は駆け下る直後に、『司馬』旗の遊軍に捕捉された。

 騎将二勇に挟み込まれ、その兵はなす術なく圧殺された。

 

 てっきりその中で彼女も犠牲になったものと見ていたが……切り抜けたというのか。

 率いた兵を救わずして置き去りにしてむざむざ殺させ、自身も馬を無くしながら。自他の軍の血にまみれながら。

 

「これ以上身内から恥は出さぬ……裏切る者はことごとく(ころ)し尽くす」

 槍で貫いた骸を足で抜き取った彼女は、俯いたままに血槍を張楊へと傾けた。

 彼女とは、面識がないでもない。かつて武者修行の彼女の一団に宿を貸したこともある。

 その時には、おのれの美学に確かな自負を持つ、もっと軽やかな空気をまとった純一の闘士であったはずだが。

 ……おそらくは、この戦場が、ここに至るまでの戦局が、彼女の尊厳を陵辱し、破壊した。

 今ここにいるのは、もはやあの頃の清廉な義士ではない。まるで……

 

「まるで、夜叉の如くよな、蝶面冠者」

 退がろうとした半歩後ろに、ふと気配が湧いた。

 振り返るまでもなく、背後に現れた怪人は張楊の双肩を掴み、押し留めた。

 

「なんだこのオッサン!?」

「オッサンではない! 大悪党松永久秀、曹操殿の意向を伝えに罷り越した次第。えー、曰く『戦いに参加せず中立を貫いたその判断力、敬意に値する。さしたる恩賞は与えられぬが、河内太守として引き続きこの地を任せるわぁ』とのことよ」

 

 曹操には会ったことはないが、確実に似てないであろう声真似とともに、張楊の肩を抱きながら共に前に進み出た蜘蛛の装束の男は、含み笑いとともに、趙雲と対峙した。

 

「松永ぁ……!」

「おぉ怖い怖い。よほど、ひどい目に遭ったのであろうのう。可哀想になぁ」

「黙れ、すべては貴様が、貴様から、狂ったのだ!」

「如何にも! ……と、言いたいところだが、そうではあるまい」

 

 声の調子を落とした男の影に、隠密らしき女が寄り添う。

 張楊と目が合うと、真顔のまま唇の前に指を立てた。

 

「お主の周囲が、おかしくなったわけではない。他ならぬ貴様の正義(狂気)に、皆がついていけなくなっただけよ」

 と、本心から憐れむが如き声調で、久秀なる怪人は続けた。

「善であろうと悪であろうと、己の価値観を突き詰める者は、押し並べて物狂いよ。そして孤独となる。(かぶ)くとはそういうことよ。そしてその道に小娘、お主は耐えられなかった」

「……」

「仕掛けて置いてなんだが……つまらぬ顛末だわぃ。今のお主を見れば、興醒めも良いところだ」

「もう、良い。分かった」

 

 亡霊の如く虚ろな顔で上体を揺らした趙雲は、その袂から蝶の意匠の面を取り出した。それを地面に叩きつけるや、踵で踏み砕いた。

 

「もはや、戯れ合いは終いだ。私はただ今の私として、私のしてきたこと、してこなかったこと。それによって生まれた全ての汚穢を、消し潰す……!」

 

 趙雲は、並の者では居合わせただけで卒倒してしまいそうな、殺意の塊と化した。久秀は道化者じみた調子で、肩を竦めた。

 

「ふん、我輩よりももっと相応しい相手がほれ、背後に迫っておるぞ」

 この言葉は、こけ脅しではない。事実、黒々とした噴煙が巻き上がっている。それを突き破った騎兵が、丘陵を駆け上りて趙雲の背に迫っていた。

 間合いに入るや、槍の一閃がその騎馬勢の先鋒の首を刎ね飛ばす。

 が、止まらない。趙雲にさえ劣らぬ殺気を漲らせた異装の騎兵らは、尋常ならざる喚声をあげ、死をも恐れぬ狂気の形相で趙雲の身柄へと殺到する。

 

「虎豹騎……! 曹子和の残滓風情が!」

 

 無論一個の技量は子竜の槍術とは較ぶべくもないが、数と感情とでその騎馬隊は趙雲を押す。

 

 直後、松永の細作らしい少女が放った紙の球が、着地と共に粉塵を作る。

 その帷の中、冷笑を浮かべた久秀は、

「己の所業によって生まれた汚穢とやらを消し潰すのだろう? ならば、存分にそうするが良いわ」

 という捨て台詞をとともに、張楊とその兵を伴いその場を後にする。

 

 ――取り残されたのは、奇声を上げて殺し合う、獣たちであった。




別に星が嫌いでもないはずなのに、なんでこうなったのか僕でも分かりません。
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