恋姫星霜譚   作:大島海峡

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漢(九):命を懸けて(中)

 唐突な死。

 その実感が唐突に、白湯の小さな背にのしかかる。

 目の前の董承は彼女が自裁するものと信じて疑わない様子であった。

 

 もはや、悲鳴をあげることさえままならない。反発どころか、一瞬でも気を抜けば即座に卒倒しかねないほどに、彼女はまたたく間に追い詰められていた。

 

 その無言を、従容としておのが運命を受け入れたとみなしたらしい。

「見事なお覚悟……ッ! 不肖この董承、介錯とともに御首級は何者の目にも触れぬところに埋葬させていただきます!」

 と、屹立とともに涙ぐむ。泣きたいのはこちらの方である。

 いやっ、というか細い否定の声が漏れる。留める者は何者もいない。本来その横暴を諫めるべき侍女たちもまた、何進らとともにどこぞへと消え失せた。

 

 白い輝きが、彼女の眼前を閃いた。

 

 

 

「――董承に、過ぎたる物が二つあり。伝国の玉璽に、殿下の身柄」

 

 

 

 だが、それは董承自身のものではなかった。

 謳うがごとくに節をつけてそう告げた朱儁が、気づけば董承の後ろで剣先を突きつけている。

 

「失せろ、下郎。お前如きに漢室の最期を飾られてたまるか」

「しゅ、朱儁……将軍、何故ここに」

「中央がいきなり崩れたからに決まってるだろう……子幹も敵の手に落ちた。以後、私と義真とで敗兵を取りまとめる。お前の出る幕じゃあない」

「だ……黙らっしゃい!」

 

 先の勇声から一転、声音を震えて上ずらせ、白湯の生命を縮めるはずだった切っ先を朱儁の眼前へと翻す。

 

「そもそもッ、殿下を貴公がごとき奸臣にお預けしたらそれこそ何に悪用されるものか知れたものではない! この……宦官に媚を売る変節者が!」

「……変節、ね」

 

 曰くありげに唇を歪めた朱儁は、ぶんぶんと剣を振って脅す董承の身越しに、白湯を覗きこんで来た。

 

「殿下、あなたは董卓、趙忠と計らい何姉妹を追い落とさんとした。そうですな?」

「な、なにを」

 狼狽えたのは、むしろ董承の方である。計画が露見したのは、白湯たちにも関わらずである。

 

「――では、何故にその計画が事前に露見したか……そして、何故このような小者がその類を受けずここで貴方を自殺させるような立場に置かれたか」

「そそ、それ以上言うなぁー!」

 まさか、と小さく漏らした白湯。すでに問いに対する答えとその真偽は、董承の態度から明らかであった。

 

「その女なんですよ、董卓を裏切り、何進に事の次第を密告したのは」

 

 それでもなお、信じられない、という目つきで白湯は董承を見遣った。

「い、いやその……それもまた、ひいては朝廷がため。かような暴挙に、殿下が加わるなどということは、あってはならぬのです」

 その秘事を露呈させられた董承は眼を泳がせながら、なお苦しい言い訳をする。

 いや、それはおそらく彼女なりの本心であり、こころよりの誠心忠義なのだろう。

 だからこそ――とうてい救いがたい。

 

「暴挙というのなら、今まさに貴様がしようとしていることじゃあないか」

「だ、黙れ! こうなれば、せめて貴様のごとき悪魔は……我が命を懸けて、一気に大事にサクッと誅してくれるッ」

 

 玉璽を手の内に握りしめて、決め台詞らしきものを気炎とともに吐く。

 だが、当然ながら武人としての経験の多寡がまるで違う。造作もなく朱儁は直剣を一閃させ、動揺する董承の得物を弾き飛ばし、返す刀を董承の喉元に突きつけた。

 

「もう一度言う――それを置いて消え失せろ。その玉璽も、この方も、お前の自己陶酔の道具じゃあない」

 喉奥から引き吊ったような奇声をあげた董承は、取り乱したままワッと玉璽を朱儁の方へと投げつけ、その隙に身を翻して遁走していった。

 

 玉璽を掴み取った朱儁は、冷ややかにそれを見下した後、

「御身も、こちらも、どうか預ける人間は慎重にお選びくださいませ」

 と諫めた。

 

「それとも、すべてを投げ出して本当に死ぬおつもりだったのですか?」

 肩をすぼめて委縮する白湯の耳にも、すでに敵の喚声がこちらに届いている。

「でも……しかし」

 せめて貴人としての矜持で体裁を取り繕った白湯は、毅然と言い返した。

「すでに敵は我らを包囲しているのではないか。董承の申したとおり、すでに退路などないも……のだ」

「では曹操に降るがよろしかろう」

 あっさりと、突き放すように朱儁は言った。

 

「さすれば、命だけは助かりましょう。その後の生涯は陛下の予備の傀儡でしかありませんが、平穏な人生を送ることが出来ましょう。大好きな御本を存分にお読みできることですし。むしろ、迂闊な勢力にその身が渡れば、それが却って天下を乱す火種となることは必至」

 ことさらに煽るような辛辣な物言いに、白湯は固く拳を握る。

 

(――それでも)

 その胸に渦巻くは朱儁の無礼に対する私憤ではない。彼女の言うに任せるほかない我が身の不甲斐なさ。そのうえでどうしても譲れぬ信念。友との約定。それが彼女を支える全てだ。

 

「それでも、わたしは自身の手で取り戻したかった。自分なりの治政(やりかた)で、あるべき(くに)のかたちに、戻したかった」

 

 絞り出すように白湯がそう言うと、朱儁は

「そうですか」

 と短く言った。

 肯定か、否定か、無関心か。

 左右非対称に歪んだ表情には、名状しがたい複雑な感情が込められているかのようでもあった。

 

「されば、今少し臣も非才を振り絞りましょうてか」

 吐き捨てるように言った朱儁は、傍らに一将を招き寄せた。

 仮面の武将。その奥には天の御遣い、その貴公子の相貌が秘められていることを、白湯は知っている。

 その男、北畠顕家に彼女は首を向けた。

 

「……過日に語った雑話の中に、北の僻地に皇子を強行軍で往来させたなどというのがあったな……あれが嘘八百でないことを祈る。それと同じことをやって欲しい」

「嘘ではない。が、状況は違う。それでも、やるしかないのだろう」

 嫌味もなく、即答した顕家に、朱儁は一瞬苦笑めいた表情を浮かべた。しかしすぐに身を切り返し、白湯を前へと進ませる。

「殿下、あとの案内は顕家卿が務めます。そして私と義真とで露払いを」

「それでその後、将軍はどうするの」

「さぁてね。何なら今度は曹操に媚でも売りますか」

 

 冗談めかしく言ったが、そのつもりならそもそもこんな危険な賭けには出ず、自分達を手土産に出頭すれば良い話だ。

 深く瞑目した白湯は、

「ごめんなさい」

 と小さく言った。

 

「別に、殿下に謝ってもらうことなど」

 と言いさす朱儁の言葉を遮るように、首を振る。

「わたし、将軍を誤解していたもん」

 今となっては何もかもが遅いが、月たちも自分も、身内だけで事に出る前にもっと他者の言葉に耳を傾けるべきだった。周到に、広く内外に理解者や聖賢を求めるべきだった。それこそが、天下の牛耳を執らんと欲する人間の、あるべき姿ではなかったか。

 

「ご冗談を。私は、世評通りの悪臣ですよ」

 朱儁はそう言って煙に撒いた。が、若干照れの入った調子で、顕家へと首を向けた。

 

「それで、どこを切り拓くつもりかね」

 と尋ねれば、顕家は仮面の奥でもなお、澄んだ声音で説いた。

「退路は断たれ、今更南下して河を渡ろうにも、追いつかれる。ならば、敵が殿下を擁してよも行くまい、という所を突破すれば良い」

 その指の示す先、さしもの白湯も朱儁も、顔を引き攣らせた。

 だが、彼女たちの衝撃より、敵の衝撃はその何倍でもあろう。

 

 顕家の示す先には、敵正面、曹操軍の本隊が差し迫っていた。

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