長らくの宿敵をようやく制して成都へと帰城した劉焉軍ではあったが、待ち受けていたのは物々しい気配であった。
いや、城が荒廃しているという物理的な変化によるものではない。一時はロイエンタールに支配された本拠ではあったが、それでも彼は城邑を焼いたり破ったりする低俗な賊ではなかった。
あえて言うならば、城壁の内に潜む……瘴気がごときもの。
桔梗あたりもそれを嗅ぎ取って眉をひそめている。
あるいは、拒まれると思っていた分厚い城門が開く。
「おとうちゃーん!」
……と、その内より駆け出したるは、それとは対照的に小柄で、能天気が衣をまとっているが如き小娘である。
劉璋、字を季玉。この益州劉氏に残された、唯一無二の嫡子である。
「
問うその声は、重く硬い。娘の身が安泰なのは喜ばしいことなのだろうが、戦地に赴かずなお城に居留していたのか。その理由は、あまり多くは考えられない。
「ぷっぷっぷー、チンタラ無駄に戦を長引かせてたお父ちゃんと一緒にしないでよねー、もーとーっくに終わらせちゃったもんねぇー」
対して、その軽薄さが否応なしに不安を加速させる。
その劉璋の背に、のっそりと異形の影が姿を見せる。
血のにじむ布を総身に捲いた、顔さえ見えぬ魔の剣士。そしてその従者らしき猛者たち。先に見せた瘴気の源は、彼らである。
「じゃじゃーん! 志々雄さんたちでぇーす! 南から来てたのは、あたし達に協力してくれるかららしくてさー! まっ、それを受け入れるのも、次期益州牧の器量っていう、ネ!」
灰峰は頭痛とともに瞑目した。
本気で信じたのか。そんな戯言を。それでわざわざ天険の要害を通過させ、わざわざ成都の堅城に入れさせたというのか。その軍勢を。ロランたちはそれを止めなかったのか。
「……あンの、馬鹿モンが」
桔梗が口汚く低く罵るのを灰峰も止めない。隼も、さすがに擁護出来かねるらしく唖然と口を開きっぱなしとしていた。
その異形の男が、隠された貌をせせら嗤い歪めた。
「不肖のガキを持つと苦労するな、えぇ? 劉君郎」
「へ、不肖、へ?」
事態が呑み込めていないのは、自分が何をしたのか。読めていないのは当の劉璋のみである。
「動くんじゃねぇ」
そう言いながら、刃を娘の首筋を背後から回して羽交い締めとしたのは、見るからに荒くれた、異相の男である。
機先を制されたアシェラッドは、密かに死角より奔らせんとしていた刃を、中途で止めた。
そして、娘を質と取った男の貌を視るなり、この不遜なる老海賊が、にわかに表情を揺らがせた。
「ビョルン……!」
「よぉ、アシェラッド……妙なところで会うな。まぁ、ここがヴァルハラってんならそれもアリか」
どうやら、両者は知らぬ仲ではないらしい。それも、好悪を容易に分けかねるほど因果の絡み合った。ビョルンなる賊の眉間に刻まれた、どこか気まずそうな陰影が、それを物語っていた。
そして、城郭の内よりは、にわかに大音声が轟いた。
怒号、喚声、断末魔。生命を振り絞るがごとく発せられるそれは、おそらくは守備軍のもの。民のもの。わざわざ招き寄せたこの悪鬼……志々雄の軍勢に虐殺される音。
壁上の劉旗は倒され、代わり、張徐程陸の四姓が立ち上る。
「え、え? どういうことお父ちゃん!? ねぇ、どういうこと!?」
と猿がごとく涙声で喚き立てる劉璋に、さしもの劉焉も、冷酷な陰謀家の表情を破って、突き上げる怒りのまま声を張った。
「何故……何故最初の命を遵守しない!? 何故外来者の言い分など容易く信じた!?」
重なる混乱に父からの叱責。ぐるぐると目を回しながら、この愚娘は、金切り声で怒鳴り返した。
「だって……だって法正が言ったもん! 『彼らと合流して、成都まで案内しろ』って!」
――劉焉の周囲だけ、しんと霜に覆われたかのようになった。
おそらくは、劉璋本人は十に一も状況を把握できてはいないのだろうが、恥も外聞もない弁明は、いくつかの疑問を晴らすに十分だった。
何故、彼らの行軍がかくも早かったのか。
何故、この娘はともかくとしてロランがあっさりとその提案を信じてしまったのか。
それは、この謀略が身内の……自身の軍師から生じたものであるからに他ならなかった。
彼の驚愕と思考の隙を突くがごとく、当の女は主人であるはずの劉焉の傍を離れ、すり抜けた。
そのあまりの自然な変わり身に、誰ひとりとて遮る者は、いなかった。
彼女は……法孝直は、涙で頬を濡らす劉璋の前に、立った。
「ね、ねぇそうでしょ宵!? 貴女からも、何か言って……ぐえっ!?」
劉璋の腹に、思いっきり体重の乗った宵の膝が入れられた。
いかに華奢な彼女といえど、惰弱な小娘を喪心させるに十分な威力だった。
「せめてこっちにオレが来てから言えや。どこまで足りてねぇんだ、このバカは」
「法正、貴様……!」
「えぇそうですよ。つまりはそういうことです。ちなみに、孟達はじめいくつかの
歯噛みする張任に、さらりと同胞殺しの示唆を告白する法正。
烈しい嫌悪の眼差しとともに、桔梗が吼えた。
「何故じゃ孝直!? 何故に、厚く遇されておきながら、お館様を裏切る!?」
かつての友誼もどこへやら。半ば無視するかたちで、法正はその身柄越しに旧主を覗き見た。
「劉焉殿、貴方は過日尋ねられましたな。『賈龍の死に対し、恨むところがあるか』などと」
その白皙に、じわじわと血の色がにじむ。陰気の袋を破り、険しさが次第に勝りつつある。
「恨んでねぇわけが……無ぇだろうがァッ!!」
――そして、憎悪の想念が露わとなった。
「二十年間、ずっとこの時を願い続けてきた! アンタの破滅を、アンタの王国の崩壊を! アンタが後生大事にしてきたことごとくがブッ壊れる様を、見せてやりたかった! ようやくその念願が叶う時だ! アンタが蒔いた因果の種が、二十年かけてようやく芽吹いた結果なんだよこれは!!」
そして溜めに溜め続けたその本心が、彼女の背を仰け反らせ、壊れたような高笑いをさせた。
直視に堪えぬその有様に、灰峰は賈龍を想った。張魯の母を回顧し、葦名一心はじめかつての御遣いたちが浮かび上がった。
これが、こんなものが……かつての死闘の結末だとでも。
だが消沈する劉焉が視たもの。それは城内より軽装の志々雄兵を蹴散らして突き出る、黒い嵐であった。
否、暴風ごとき勢いの、黒い甲冑武者。狂戦士じみた様相で大剣を振るい、敵兵を圧倒する。
本人曰く、その剣銘は『デュランダル』。
異名を黒騎士。名をロラン。
不意を突かれ手傷を負い、軍馬軍勢を奪われた彼だったが、なお士魂を萎えさせず、その宝剣に足る堂々たる体躯をもって、志々雄を背後から急襲せんとする。
「あ、すんませーん。守将の
見慣れない……おそらくは敵方の、飄々とした姫将軍が城壁の上、張旗の下軽い調子で声をかけた。そこには、主君に対する志々雄への敬意も不安も何もない。
対して自身の危機にある志々雄自身、動じた様子もなく、
「ディミトリ」
……と、後列に控えていた男をけしかけてきた。
否、それは人か、獣か。
高速で動き、白黒の毛皮を靡かせて割り込んだ金髪隻眼の青年は、異形の槍を手にしている。だが、それを用いず、逆の手を鋭く伸ばして
むんず
……と、ロランの顔面を掴んだ。
しかし力一辺倒ではなく、狡猾にも足払いも用いて黒騎士の体勢を崩すと、そのまま一気に地へとロランの後頭部を叩きつけた。地が割れ、乾いた土片が無数に浮かび上がる。
鎧袖一触である。それのみで、荒れ狂うロランを青年は昏倒させた。
「殺すな。御遣いは生かして捕らえておきたい」
志々雄の謀臣と思しき男が、むっつりとした表情のまま言った。
灰峰は、彼が本来無双の士であることを知っている。それこそ、本来であればこの怪力の男と互角以上に渡り合えるほどの。
セルベリアのヴァルキュリアの力は使えない。彼らにそれを使わせないために、殊更に法正はロイエンタールの動きのみを拡大して伝えてきたのだろう。使用を決めたのは自分だが、そうして促したのは法正だ。思えば、その違和感に気づくべきだった。
だが、ただでは済まさない。ロランの決死の突撃も失敗に終わったが、その客人の無償の挺身を、決して無駄にはしない。
「桔梗、やれ」
「お館様!? さりとて、それでは御身が……御息女が」
「構わぬ。全ては我らが蒔いた種だ……お前や彼らは関わるな」
その短いやり取りで、互いを知ったる桔梗は灰峰の意図と覚悟を知った。
ぐっと唇を噛んだ桔梗は
「……御免ッ!」
という断りの下に、弾込め自体は密かに済ませていた轟天砲を弾いた。
一路志々雄を狙うかに思われたその弾道はしかし、直撃することなくその手前に着地する。外したわけではなく、桔梗老練の技術力によるものだ。
巻き上がる噴煙。それにまみれ、喉を痛ませながら、灰峰は
「各自、散開!」
と鋭く命じた。
それを受けて、文字通り将兵たちは煙に巻いて手勢を率いて逃散していく。
「ぬぅ、逃すな! 追え!」
志々雄の軍師が喚き立てるも、遅い。
対して劉焉軍はここまでロイエンタール相手に出ては退くの戦いをしていたことが奏功し、こういう時の動きは速い。
そして、土煙が開ければ、そこにはごく限られた者しか残ってはいなかった。
逃げるに失敗した歩卒。
気絶しているロラン。
両手を降ってあっさりと恭順を示すアシェラッド。
そして……
「……肝心のアンタが捕まってりゃあ世話ねぇわな」
歩み寄る法正が、組み伏せられた灰峰を見下ろして呆れたように言った。
「自慢ではないが、俺は虚弱なのだよ。到底逃げ切れる足などないし、こんな雑兵どころか貴様と格闘したとて太刀打ち出来ん」
「本当に自慢にもなりゃしねぇし、言い回しがクッソ腹立つな……」
それに悪びれも恥もせず返す。
「そして、俺が逃げれば追撃は本格化してしまうだろう。そうなれば、全員逃げきれぬ」
さらに言うならば……と、ビョルンの担ぐ馬鹿娘を見た。
季玉。玲峰。愚かな娘。よも家督を継ぐことなどまるまいと、山々の険しさに身を慣らすより安泰の宮殿の中で、暖衣飽食を覚えさせた己に非がある。だが、もはや生まれてさえいなければとさえ思う。
「……せめて、瑁だけでも生きていたならば」
互いにこのような不幸な顛末にはならなかったろうに。
そしてそのような、ある種不幸な娘が質となったのを、どうして見捨てられようか。
「それでどうする? 今こそ賈龍の仇に報じるべく、俺を討つか?」
冷視する法正は、鼻を鳴らして答えた。
「ここで死なれちゃ、積もり積もった怨みは収まらねぇよ。アンタの目の前で、この国をブチ壊しちまうまでは、せいぜい生きててもらうさ」
「それが、賈龍の遺した想いを否定することとなってもか」
勝者の優越が、その問いの前に消えた。
睨む法正に、灰峰は淡々と続ける。
「たしかに、俺と旧友は道を違えた。だが方向が違ったというだけで、この国の安泰を願う気持ちの強さも純粋さも、変わりはしなかった。今お前は、愛した者の遺志さえも……ぐっ!」
灰峰の弁は、胸を踏みつけた法正の靴底によって遮られた。
「……なに、惚けたこと抜かしてんだ?」
滾る殺意が、彼女の瞳孔を開かせる。声が震えている。
先に語った本懐さえ無ければ、彼女は今にも足下の仇敵を縊り殺していたことだろう。
「んなこた百も承知で
そう黒き怨嗟を撒き散らした法正は、やや溜飲を下げたかのごとく身を退き、襟元を正す。
「牢にでも繋いでおけ」
そう言い捨てて、法正は踵を返した。
士卒らに引き立てられていく中、灰峰は瞑目し、旧友に詫びる。
せめて彼女だけは、と託された童女。それに謀略の何たるかを薫陶してきたのは、己自身だ。
その代償行為に、後悔はない。
悔いがあるとすれば、幼い彼女のその憎悪の根深さと、時とともにそれが癒されていくものと思い誤ったこと、なのだろう。
(だが、果たして――)
その憎悪の仇花は、己らや蜀への嫌悪のみで留まるのだろうか?
その枝葉は、いったいどこまで伸びていくのか……?
【劉焉……滅亡】