成都城内、政庁。
往時とはだいぶその列席者の顔ぶれは変わっている。
何より、首座が空席というのがその異例の最たるものだろう。
本来そこへ座る権利を持つ志々雄は戦後処理など知ったことかと、都市の中央の亭を居所と定め、それ以外を全て方治に投げてしまった。その方治も、次なる一手がために奔走の最中だ。
益州統治の実権は、おそらく方治や陸遜ら志々雄一派の参謀不在の一時的な措置であるにせよ、法正らに委ねられた。
「アシェラッドの監視は抜かるな。事を起こす可能性があるのは、間違いなくヤツだ」
「アシェラッド? 真っ先に恭順したようなあのおじいちゃんが?」
「真っ先に恭順したからこそ、だ」
異論を挟んだ僚友孟達を、宵は鋭く睨み返した。
「無論、ロランや劉焉の警戒を緩めろと言ってるんじゃない」
はいはい、と両手を挙げてとぼけて見せる孟達にこそ
その髪色同様に、灰色の女である。
基本的には利で傾く人間なのだが、時折思い出したかのように慈悲や矜持がために働くことがある。しかも、そういう時に限って、妙な悪運が奴に味方する。
「……さて、混迷極まる益州の現状を整理しようか。
呼ばれた末席の文官は、片膝をついて椅子に座りながら、宵を見ずして言った。
「まず内。重臣連中の内、儒者まがいの人道家どもは新政権の参画を拒絶ないし非難して投獄あるいは殺害。帰順組の内でも、ろくに働きもせず真っ先に志々雄殿に媚を売りに行った連中も同様の憂き目に遭った。ロラン殿は厳重に獄に繋ぎ、劉焉殿は特に抵抗の様子を見せてはいない。仔細はこれにまとめておいた。恭順した者の連署も押さえておいた」
「ふん、この混乱の中で手際の良いことだ。だが
絡むように、その不良文官の姓名をあえて呼ばわると、宵は言った。
「
その低く絞り出された恫喝は、周囲をたじろがせるに充分であった。
「はっ、仮にも旧主に手酷い扱いだな、孝直さんよ」
と、揶揄を返すほどの肝の太さを見せたのは、その費禕のみである。
「で? その逆賊無くしてどう今後の益州を運営していくつもりだ? まさかあの無法者どもを新州牧に推す訳じゃあるまい。名義だけは劉焉殿を立てるのか。あるいは劉璋殿を傀儡とするか」
「あの狂犬は肩書になんて興味なかろうよ。劉焉の名を使えば、大義名分が揺らぐ。かと言って、その馬鹿娘は、傀儡たる立場がなんなのかも弁えず喚きまくってウゼェことになるのは分かり切ってる……
宵は、列席する短髪の男を呼ばわり言った。
「寇氏の親子が荊州から流れて来てたよな? あれの母方が劉氏のはずだ。その娘、
「……子供のお守りとはねぇ」
「楽して甘い汁吸わせてやるってんだ。それに劉の血筋であれば、朝廷も強くは出られねぇだろ」
この時には、未だ曹操の北伐における奇跡的な勝利を益州の一派は未だ知らない。
まさか停滞していた彼女が、一夜にして朝廷を含めた中原一帯を手中に収めることになるなどとは、如何な智者であっても信じられぬことであった。
「内についてはそれで良い。で、外に逃げた連中の動きは?」
問われて答えたのは、棗である。
「冷苞は脱出しようとしたのを捕斬。厳顔とセルベリアは、持ち場の
「まさか」
宵は眉を吊り上げて笑った。彼女とて、孟達に彼女らを討てるなどとは到底考えていない。
「劉璝ごときは搦手からどうとでもなる。成都が落ち着いたらオレが潰しに行く。桔梗姐さん……巴については……そうだな。手駒はもうすぐ手に入る。それでダメなら志々雄殿らに押し付けるさ」
その二城についての秘策については詮索されることはなかった。問うてもこの陰険な軍師は不敵に笑み返すだけで他者に明かすことはない、と一様に知っていた。
だが、それでも問わねばならないことはある。
「……この乱世、劉焉殿のやり方ではいずれ益州は行き詰まる。だからここまでは、アタシらはアンタの賭けに乗ってきた」
費禕は、自らの橙色の長い髪と冠の隙間を弄り、そこに収められていた賽子を抜き取った。掌の内でそれを弄ぶ費禕は、水面に波紋を一つ立てるがごとき、静かな声調とともに薄く笑んだ。
「だがその先は? 奴らがあそこまで兇暴だとは思い及ばなかった。そして軍備の傾向を鑑みるに、歩兵の革鎧を多くかき集めているうえは目指すは水戦ではなく陸戦。荊州ではなく中原……都まで延焼させる気か?」
宵は軽く肩をすくめて席を立った。
訝しむ行政官、謀臣らからわずかに距離を取って、
「知った事かよ」
と呟いた。
聞こえるか聞こえぬか、という間合いの独語である。多くの者は聞き返したり、あるいはそもそも耳に入っていない。
「……なんてな」
宵は、彼女にしては軽やかな声で笑い声を立てた。
「まぁ志々雄殿には戦術家が多くとも、事務方は方治を除いていない。益州の内情に詳しい
と、冗談と恫喝を折半して言う彼女の凶相目がけ、費禕は無造作に賽子を投げた。
それを空中で握り掴んだ宵に、費禕は
「賽の目は預けておく……が、良き目であることを願う」
と、もったいつけたような言い回しとともに、その切れ長の目を伏せたのだった。
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その謀議もそれ以上の進展は見せずに解散となった後、宵は廊下の突き当たり、壁にもたれかかった堂々たる体躯を認めた。
「……これはこれは、ディミトリ殿。志々雄殿に言われ、我らの監視にでも来たんですか?」
人の形をしていながら、およそ人ならざる気配を持つその男に、臆することなく宵は尋ねた。
「俺も貴様らと同じように、奴を利用しているだけだ。どちらに肩入れする気もない。ただ、何かしらの手がかりを掴んだものかと立ち聞きしていたが、愚にもつかん泣き言ばかりだったな」
「それはまた大変なお耳汚しを。仇については我ら益州幕僚の側でも追って調査を推し進めて参りますので、それまでどうかお待ちいただけますよう」
暇なら手伝ってくれても良かろうものを。胸中でそう毒づきながらも上っ面にはおくびにも出さず、宵はその場を通り過ぎようとした。
「一つ聞きたい」
と、ディミトリなる御遣いは遠ざからんとするその背に尋ねた。
今まで復讐以外の何物にも興味を見せなかった男からの、質問である。
それこそ、人語を解さぬ虎が突然喋り出したかのような衝撃があった。
「貴様もまた復讐心から志々雄に加担し、そして事を成したと聞いた。今、貴様の胸に去来するものとは、なんだ?」
宵は思わず吹き出しそうになった。だがそれは、可笑しかったがゆえではない。むしろそれは、黒い怒りに由来する、歪なものだった。
「御冗談を。まだ遂げてはいませんよ……まだ終わらない。こんな程度では終わらせない」
「ではいつ終わる?」
「さぁてね」
おどけて見せたが、宵には判っている。
たとえ無惨に劉焉を嬲り殺したとて、あるいは益州を修羅の巷に変貌させたとて、きっと充足など得られまい、と。己の空洞を埋めるのは、昏い復讐の焔だ。それは腐り果てた漢に及び……そしてこの紛い物の、
賈龍の魂魄がそれを望まなかったとしても、もはや止めることは己でも能わず。
「……本当に許せないのは、そうして他者を振り切ってまで怨讐に固執する己自身で、そんな大馬鹿を磨り潰すまで、ですかね」
互いに仇持ちという共感がつい精神のタガを緩ませたか。
自嘲気味に呟いた宵に対し、ディミトリもまた、
「そうか……そうなのだろうな……」
と、伏せた隻眼と口元に感傷めいたものを浮かべた。初めて、人らしき感情を表に出した。
だがそれは互いに刹那的なものであった。
互いに挨拶もなく分かれた。
宵には向かうべき場所がある。城内に設けられた医局。そこには負傷兵と、漢中の五斗米教団から流れて来た医師団が屯していたが、その男はとりわけ別格の待遇であった。
負傷の具合と、そして惜しむべきその将才がために。
拝礼して張魯の弟子が症状を端的に伝えるのを流し聞き、別のことに想いを馳せる。
(どうせ、これもまた予期せぬ娯楽だなどとタカくくってんだろう? えぇ、『管理者』どの?)
管路。いや許劭か。
長らくこの世界に居座り、創造主を気取って散々に面白半分に人をコケにしてくれた、悪魔。
(今は高みの見物を決め込むが良いさ。アンタが抱え込んでるこの中華。オレがかき乱してブッ毀してやる)
怨嗟をまとい無言で佇む宵を不審がる医師を、彼女は手で下がらせて、自身は白い顔をして天蓋付きの寝台に横たわる、患者の隣に膝をつく。
「――そのためにもアンタにも、せいぜい働いてもらおうか? アンタだって、きっとこんなクソみてぇな世界、ブチのめしてやりたいだろう?」
甘く耳元で囁きながら、その指で瞼を開ける。
そこには黒と青、左右色違いの瞳が隠されていた。
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益州の政変より十数日後。
中原における曹操の台頭に比すれば、事態の深刻さは未だ皆無にせよ、情報としては近隣に伝わりつつあった。
董卓、そして件の益州。両方の監視を任ぜられたのは、黄忠こと紫苑であった。
名目上は引き続き劉表の家臣に列しているものの、大別すれば袁術軍、もといそれに鞍替えした黄祖の指揮下である。
とはいえ敵味方ともに動きなし。璃々を伴って川遊びに出た。
むろん、前線のことである。危険を孕んでいることは承知していた。
だが育ち盛りのわんぱく放題の娘。どうして抑えきることが出来ようか。
江夏に預ける、というのも手ではあろうが、家臣が主君を裏切り、その身柄を他国に差し出すこの大乱世、結局は自身の手で大切なものを守るよりほか、方法がないと紫苑は思い直した次第である。
それに、と短い手足を懸命に動かして川べりではしゃぐ愛娘を見た時の、多幸感は何にも換えがたい。救いのない情勢下ではあるが、それでも懸命に生きんとする活力が得られる。
「おかーさん?」
「え? あぁ、ごめんなさい。ちょっと、ぼーっとしてたみたい」
物思いにふけるあまり、つい娘を無視したと思ったが、どうやら璃々の呼び声はそれに起因したものではないらしい。
彼女は不思議そうにしながら、自身の背後を指で示した。
「だれか、たおれてる」
――と。
慌てて、というよりも本能的に、母は娘を自身の背の後ろに回した。
そして先んじて、かつ用心深く、璃々の差した男を観察する。
うつ伏せに川に沈む鬚の濃い、男の横顔の血の気はない。
下地自体は、まるで人の手によるものとは思えない見事の縫合の、黒い装束だが、それもここまで流れ着くまでの行程でか、ずたぼろとなっている。
「璃々、見では駄目」
観察する限り、どこぞの敗将が落ち延び杳として力尽き、行き倒れたものと思われる。
(この世の無情に負けてしまったのね、お気の毒……)
彼女が仏陀の信徒であれば、そう悲嘆して合掌していたところだろう。
だが、あ、と背後から漏れた璃々の声により、男の唇がかすかに息をしていることに気が付いた。
とりあえずは悪党の装いとは思えないので、紫苑は助け起こしてみずからの膝の上に置いた。
「う、ううぅ……閣下」
となおも、誰ぞを案じ、か細い声で呻くこの男は、此処に至るまでにどれほどのものを喪失し、望みを奪われてきたのか。それを想うと、他人ながらに胸が詰まりそうになる。
「だいじょうぶ……今はどうか……お心安らかに」
大分にこけたその頬を指の背で撫でつけながら、紫苑は慈母の眼差しと声を落としたのだった。