「はっ!」
裂帛の気合いとともに華蝶仮面は跳躍。
ともすれば船そのものが保つのがやっとという急流の中、跳躍するや高速で移動する船上に降り立つ。
水面を打って大きく船体が跳ね上がる。抱き合う三姉妹の身柄が軽く浮き上がり、爾来歌唄いに特化した喉より悲鳴が絞られる。
「ほう、てっきり別の船に乗り移るかと思いきや、部下を見捨てて戦場より脱けた男にしては意外に勇猛なことよ」
「抜かせっ、我輩の逃げる時は我輩が選ぶ! 我輩の運命は我輩が決めるっ!」
強く嘯く。
無論、打算あってのことだ。限られて不安定な足場。質もいる。よって仮面の勇士の長柄物は、かえって不利というものだ。
「面白い男だ。……悪党とは言え、いや悪党なればこそ、その肝の据わりは嫌いではない。多少見通しは甘くはあるが、そこもまた愛嬌と言ったところか。退治のしがいがある」
華蝶仮面は槍を短く持ち直す。
そして一文字を切って突いた。ただ一歩も動かず、長短自在、伸縮自在。久秀が奴にとっての死地皆した空間を、穂先が自由に泳ぎ回る。
「ぬ、ぐ……!」
久秀は背に回していた自身の武器を展開させて防いだ。
異様なほどに湾曲した、短尺の鎌刃。それを旋回させて火花を散らすも防戦一方にして反撃の猶予はなし。
とりわけ強烈な刺突が、久秀の体を崩す。そこで華蝶仮面は一歩踏み出し、我が身を懸命に押し留めた久秀に肉薄する。
「何故劉虞様を暗殺した? そして……何故公孫賛殿にその罪を擦りつけた?」
そのうえで、その武技同様に静かに鋭く問う。
「罪を、擦りつけただと?」
笑止千万、と久秀は押されながらも鼻を鳴らす。
「我輩はただ奴がいずれ為すであろうことを代行してやったに過ぎん」
「戯言を」
「この諍い以前にも、公孫賛は劉虞から兵や物資を奪っておったではないか。あの二人は、いずれにせよ殺し合う運命にあったのよ。もし真に無実であれば、声高にそれを主張したではないか? それをせぬのは、後ろめたい感情があるゆえではないのか? んん?」
粘着質に問い返す。
だが、蝶面の女は、なお刃圧を緩めない。
「……そういう人なのだ。自分の感情を偽れぬ、弱さに嘘がつけない」
「だからこそ奴は人主たる器量などない。天下を差配し、静謐をもらたせる者ではない。貴様もそう感じたればこそ距離を取ったのであろう? 趙……いや蝶面冠者」
彼女の本名をちらつかせ動揺を誘う。そのうえで自身は渾身の力を出し切ってその武威に抗いつつ、
「胡車ー児!」
と、この世界で得た己の部下の名を呼ばわる。
次の瞬間、何知らぬ素振りで櫂を操っていた水夫が、その身を切り返した。
深編みの傘を水面に放り黒髪を晒し、懐中より抜き放った数口の短刀を華蝶の面へと投げつける。
無論その程度の奇襲で揺らぐ程度の武人ではなく、翻った銀穂が一閃のみでもってそれらを
「おぉ、なんだお主そんなところにおったのか?」
「そりゃまぁさっきお付き合いするって言ったじゃないですかぁ。……あれ? じゃあ今までどこにいると思ってたんですか」
「なーに、怪力速足ということであれば、
「誰ですかそれ。……まぁ、お望みならそうしますというかそれしかないんで我慢してくださーい」
言うが早いか、胡車児は久秀の細い腰をかっさらうようにして抱え込み、そして自身ごと川の中へと傾けていく。
「では諸君、また会おう!」
悪漢一笑。
久秀と胡車児は、急流のしぶきの中へと飛び込んで、姿を消した。
「……確かに、これで死ぬような男ではないだろうな」
華蝶仮面は柄に刺さった短刀を引き抜き、嘆息する。跳ね上がってかかった雫をぬぐうことなく、彼らの痕跡を探るも、もはや追うことは能わなかった。
とりあえず彼女の急務は、取り残された名も知れぬ娘たちを安全な岸にたどり着かせるべく、櫂を取った。
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せき込みながら、胡車児影奈は主人の身柄を引きずり、水場から脱して息を整えた。
だが、主人の方はどうか。
「おーい」
頬を叩いて反応を確かめるも、ただでさえ白い顔から血色を喪って動く気配がない。
元より黄河はその急流がために知られた天下随一の水の難所である。
その濁流に呑まれては常人なれば無事では済まず、過去幾度となくその暴を鎮めるべく生贄が河神に捧げられたが効果なし。
「いや、ぶっちゃけお前らが直訴すればよくね?」
と正論とともに祭主や役人がお偉いさんにブン投げられたがついぞ帰ってこなかった、という逸話は無学な影奈にも伝わっている。
「……死亡確認」
もはや、その命は断たれたと判断してよかろう。
そこで彼のために影奈は悲しみ、久秀が腕を胸の前に合わせてやった。
そして願わくば彼の三魂七魄――いや十魄ぐらいかもしれないが――せめて来世では善良であらんことを。
【松永久秀……戦死】
「脈ぐらい取らんかぁっ!」
そこで久秀が目覚めた。
「なぁんだ、生きてたじゃないですかー」
頭突き気味に跳ね上がった久秀の額を巧みに避け、影奈は言った。
「それで、これからどうするんです松永殿? 結局
久秀以外の人間はまず愛用しないである独特の衣服を絞り、答えて曰く、
「さてどうしたものかよ……公孫賛に降って三好よろしく内より蚕食するも良し。袁紹に身を寄せるも良し……むっふふう、すべては我輩の胸三寸よ」
「はぁ……よーするに、無計画の行き当たりばったりってことですか」
――かくして、黄巾の乱は史実よりも小規模かつ穏当となりながらも、戦乱の口火となり、そして真っ先に消えていった。
当初の目的が果たされたことにより、また劉備たち義勇軍が周辺を保護して自衛自立と中立の構えを取ったことにより、公孫賛と袁紹は互いに集中することが可能となり、河北は一応の安定期を迎えることとなった。
【黄巾党……滅亡】