きしり、と満伯寧の奥歯が軋る。
尊敬する真田幸村。その差配を真似られることへの屈辱。それを許した己の不甲斐なさへの憤り。
だがそれらは、海防の判断力を鈍らせるには至らない。
(この状況は、この策は……似ては、似せているが、同一のものじゃない。なり得るはずがない)
そもそもの戦の意義が、彼らと我らでは根本から違っている。
先に幸村が仕掛けたは専守防衛であり、今の彼らは侵略戦争である。
乾坤一擲の奇襲戦は失敗に終わり、それでもなお諦めきれず小手先の術策で抵抗しているに過ぎない。
すでに戦う意義を見失っている。
――本当にそうか?
今彼らは本当に、
それにしては、あまりに統制が取れ過ぎている。
宛を取らなければ、否取ったとしても先がないと知りながら、あまりに手早く守勢に切り替えた。
……あの時、自分たちは、真田幸村は何のために兵を指揮していた?
その第一義としていたことは。領地居城を守護することか。董卓軍の撃破。名を中華の天に轟かせることか。
否。違う。
最優先されたことは。
「まさか……
鉄壁の守将の上体が、その不覚に大きく揺らいだ。
「海防?」
眉をしかめて訝しむエルトシャンを、海防はらしくもない表情で顧みた。
「してやられました……董卓はすでにしてこの戦場にはいません! あの軍は侵攻軍じゃないんですっ、主君を逃がすための、殿軍です!」
そこまで言い切ると、聡明な貴公子も敵の策の概要を察した。
つまりは、袁術がかつて勝てぬと踏んで己と張勲らとともに寿春へ脱走を図ったように、董卓もまた部下を犠牲に西へと撤退しようとしている。
違う点と言えば、彼女らが心底より主の人柄を慕い、護らんと身命を賭していることか。
「……どうする。この場を引き払って、追うか?」
「逆賊の逃亡先なんて限られてきますが……正面に敵を抱えたままに、確証もなく転身は危険過ぎます」
今この進退ままならぬ状況に持っていくことこそ、敵の目論見だった。
そしてこの状況に誘い込まれた時点で己らの負けは決まっている。
「曹操が子房殿は、大した姪御をお持ちね」
口を挟んで来たのは、体勢を立て丁奉である。
「承淵殿、この采配に心当たりでも?」
「賈駆は陰鬱にして悲壮な音調とは色が違っている。柔らかでありながら豪放なこの指揮ぶりは、恐らくその副官で長らく冷遇されてきた荀攸かと」
やや詩的な言い回しと共に、短く切り整えた指揮杖で空を切る紫紺の髪の少女に「なるほど」と曖昧に彼女は相槌を打つ。
「であれば説得は出来ないだろうか?」
――敵の総領が不在ならば、もう、このような無益な殺し合いなど良いのではないか。
エルトシャンの目がそう言外に訴えてくる。
「無理でしょうね、荀公達殿は柔和ながらも硬骨の士と聞いている。たとえ文若自身が説得に赴いたとしても、それに乗るかどうか。彼女自身が翻意したとして、他が説得に応じるわけがない。むしろ、彼女の身を危うくさせるだけよ。そうして同士討ちによる決着をお望みとあれば、策として用いても良いでしょうけどね」
と言う丁奉の返答に補足をするかたちで、海防も意見する。
「……エルトシャン殿が肩入れしたくなる気持ち、分からなくもない。でも」
と、自らの円盾の内より、あるものを抜き取りながら。
それは兵器などではなく、一枚の仮面。
顔全体を覆う形の、氷の如き質感を持つ海龍の面。
李典が朋輩オシュトルの面を打った時の試作品というものを、友誼の証として譲り受けたものだった。
高い身長と、それに見合わぬ優しげな童顔が、彼女の身体的な負い目であった。だがその気質は優しさとは正反対の、敵にも味方にも峻厳にして不退転の覚悟と気迫で対する鬼将であると自認している。
だからこそ、この竜の仮面を被る。
この善悪定かならぬ陣営において、自らが拠るべき旗幟を明らかとするために。
内においては綱紀粛正。外においては妥協も誘降も許さず。
「このたびの戦運び、この満寵にお任せいただいたはず。手を緩めるつもりは、ない」
一つとして、同じ戦場はない。
やはり、先の戦と此度の戦とでは、如何に猿真似を試みるとも大いに異なる。
我らには時間がある。兵力がある。余裕がある。大局的な優位がある。
「早馬はすでに飛ばしました。朱桓殿を餌に、丁奉殿と我らとで張遼を誘い出しつつ時として牽制。鉄心殿を呂布に当てて時を稼ぎ、敵に回復の暇を与えず、援軍が到着次第、押し包んでこれを殲滅する。あれに残るは、董卓にとっては貴重な忠臣信奉者。それを失えば、どこへ逃れようともはや彼女に再起の目はない」
「海防……」
「そもそもですね、エルトシャン殿」
面をつけたままに獅子王を顧みた彼女は、くぐもった声で言った。
「おそらく、彼女たちの勝ちでさえない」
事ここに至り。信じがたいことながら。
彼女には孫堅不在の理由の見当が、薄々つき始めていた。
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上庸より西へと続く断崖。
董卓は、というよりもその月を馬車に乗せて、詠と近侍女官は進む。
目指すは渭水本流。それより水路で西涼へ、故地へと帰る。
すでにその大半は韓遂の手に帰している。それに頼ることは剣呑だが、それでも背に腹は代えられぬ、と。
だが、向後のことにばかり心砕くこの知恵者は、今この時に頭上より向けられている獣たちの目を感知できずにいた。
孫旗を畳みつつも、必中の矢をつがえた、南方の牙獣たち。そしてその筆頭たる孫文台。
詠らの通過する断崖の上より回り込んだ彼女たちではあったが、その遭遇に戸惑っていたのは炎蓮を除く彼女たちも同様であった。
唐突に進路を変えてこの場での待ち伏せを指示した棟梁に、祭ら重臣でさえも半信半疑であった。
しかし彼女の野生の勘は老いてますます冴えて董卓が遁走とその退路を読み当てた。
「ほら見ろ」
と傲然と嘯く炎蓮を、一二も無く追従してきた新参古参の将兵らはあらためて畏敬の念を新たにした。
「仲穎に、久方ぶりに逢いに行くかァ」
……あるいは、純然たる恐怖だったのかもしれないが。
そして、それに遠方より対峙する少数の陣営がまた、孫家軍とはまた別の塊となって存在していた。
「……この目で見るまでは信じられなかったが」
と重たげに口を開いたのは、郭汜であった。
幻滅の眼差しを決死の脱出部隊に向けた彼女は、あらためて
「お前の言った通りだったな、李傕」
と、相方を顧みた。
「……あぁ」
しかして当の密告者は、鷹揚に頷くばかりである。
その様子に若干の不審を抱いた郭汜ではあったが、それにしても許せないのは董卓である。
「今なお敵と死闘を繰り広げておられる諸将を捨て置き己らの安泰のみ図るとは……配下を見殺しにする主君などもはや主君に非ず! 孫家より先んじてその身柄を確保し、手土産に、袁術方に降らん!」
そう憤ってみせるも、そもそも非を鳴らす権利があるのは今まさに見捨てられた――と郭汜が考えている――霞たちであり、参戦していない彼女ではないだろう。
あえて声高にまくし立てるのは、自身の行いを正当化したい一心がためにすぎない。
かくして、一つの時代を、それぞれのやり方で締めくくるべく、三種大小の勢力が、その限られた場に集結していた。