「孫、文台……」
詠は凍り付いた声で、その名を呼ぶ。彼女だけではない。むろん、後続でその兵たちが続く。
まさか、もう突破されたのか。指揮官は離脱したとはいえ、皆死ぬつもりでここまでついてきた精強なる西涼兵たちが。
「久しぶりだな。
およそ追い詰めた敵に対するものとは思えない気安さで、人虎は語り掛ける。
まるで詠などその場に居ないかのように、歯牙にもかけない。たとえ彼女がその先回りして月を庇う位置につこうとも、視線さえも合わせない。
逃げるにしても、すでに包囲は済んでいる。退くにもあるのは断崖と激流。
元より天朝に背きし身。たとえ降伏しても、待っているのは首を刎ねられる命運。
――ならば。
詠は、臥した李傕だったモノを、そっと見つめた。
そして、彼女もまた、嫌っていたかの悪女に詫びた。
疑ってごめん。見損なっていてごめん。そして……命を使って稼いだ時間さえも、無駄にしたことへの、謝罪。
詠は月の手を握る。力強さがある。だが、泣きたくなるなるほどにか細く、柔らかい。
「ごめんね、月。ボクが、不甲斐ないばかりに」
「ううん。私の方こそ……辛い役目をさせてきたよね」
……果たして、次の
求めていたのは万一の生か。あるいは自らの手での幕引きか。
「これからもずっと、友達だからね」
「うん」
いずれにせよ、感傷的であり衝動的であり、それが互いに、双子がごとくに同調し、強調し合ったことは言うまでもない。
「待っ……! 早まるなァ!!」
軍師らしき孫家の女の制止などもはや耳にも入らない。
儚く微笑み合った少女たちは互いの手を握りしめて、そして崖下へと身を投じた。
〜〜〜
落下の音も、着水音も、紛れて聴こえない。
それだけ、渭水の流れに連なるこの瀑布は荒れている。今日に限って、一層に。
炎蓮は、差し伸ばした手を静かに引っ込めた。
まるでそれが己のものではないかのような無機質な目つきで、見下ろしていた。
感情の読み取れないその様子を、従者たちは怖気と共に見守っていた。
「祭」
「は、ははッ」
さしもの宿老も、そんな大殿に呼ばれれば声も肩も、否が応に萎縮するというものだった。
「帰るぞ」
「さ、さりとて」
「あるいはッ、幸運にも生きているかもしれません! どうか、下流を捜索することお許しください!」
そう進み出た冥琳に、つまらなさそうに睥睨しつつ、
「家族になることを拒み、立ち向かってくることもせず命を諦めるヤツなんざ、もうどうだって良いだろう」
「し、しかし……追い詰めすぎたのも予期せぬ乱戦となったことも我らの手落ち! なればこそどうか挽回の機をお授けください!」
「あぁあぁ、言いたいことはまぁ分かる。董卓の身柄を抑え、益州涼州奪取の旗頭とする。それが
「……如何にも」
「じゃあそっちは後回しだ。まずは東からカタァつけるぞ」
「揚州、ですか」
「ちょうど良い手駒を得たんだろう。いい試金石じゃねぇか」
血塗れの女王は、臣下たちの前で袖を翻した。
「……虎の牙には、窮鳥さえも止まらぬてか」
などと、低く嗤い声を立てながら。