漢中。
かつて五斗米道の張魯の、手厚い福利厚生と彼女自身は望まなかった信仰心によって運営されてきたのももはや過去の栄光。
彼女が降伏、退去した後はロイエンタールによって管理されて来たが、彼もまた蜀攻めの最中に脱落し、行方知れず。
宙に浮いた支配権を、本来であれば
彼女は自身の兵力を漢中の一、二に城塞に分散して割り当てても到底守ることも反撃も出来ないと判断を下すや、ロイエンタールによって押収され、城の倉に納められていた信徒からの貢物を略奪し、それを陽平関に持ち込み要塞化。戦力を集中させることに終始する。
かくして人も富も去って空洞化した漢中が、かつての教祖に取って代わるまだ見ぬ仁徳に想いを馳せるのは必然であり、そこに敗走と流浪の果てに、かの大器が収まるのは、運命であったと言えるだろう。
〜〜〜
とは言え、かの劉備玄徳が大々的に彼の地に降り立ち、神の如く君臨したかと言えばそうではない。
彼女は、むしろ持たざる者である。
兵も無く、一部の忠臣たちは離散し、張魯の恩恵の残滓にすがって寄り集まった流民たちに混じ入るしかない、寄るべのない敗残の将。それが今の彼女だった。
だが、上党での勇戦。その圧倒的敗北になお心折れず奸雄に抵抗するその姿は声望として西国に伝わり、慕う者も多かった。
遠くの者はそうであったが、近くの者はどうであったか。
いやむしろ、その熱望は後者のほうが烈しかったかもしれない。
残った手勢を挙げて張衛が破壊した漢中の復興支援に当たった。
力は無くとも自ら率先して工夫たちとその作業に従事した。
智慧はなくとも、五斗米道の良識的遺臣たちと共に話し合い、時として諸葛孔明の智慧を彼らに惜しみなく分け与えた。
たとえ医技は持たずとも、病み疲れた者がいれば、親身に手を取り夜通し励ますことがあった。
ともすれば、欺瞞、偽善。為政者というよりも宗教家の手口であったかもしれない。彼女自身が、心底から人々を愛し、その救済を願っていたとしても。
だがその献身は、荒んだ益州の人心に蜜の如く染み込み、あるいは張魯以上の信頼を、短期間に獲得することに成功していた。
彼らが漢中に劉の仁旗を、と希うのに、おそらくはそれほど時を要さないであろう。
他の英傑から一足遅れて得たその時流に乗るかの如く。
漢中に流れ着き、あてもなく起居していた外れ星も、正式にそこに加らんとしていた。
〜〜〜
「ちたたぷ?」
「そう、そう掛け声とともに、肉を刻むらしい。私も受け売りだが」
夜天の下、男は鈴々の手を取り膝を乗せ、刃物を握らせ、鹿肉を切り株の上で叩いている。
堅物の愛紗をして、睦み合う男女のいやらしさがないように見えるのは、この両者の間にあまりに歳の隔たりがあるからだろう。
男は、もはや老境と言って余りある風情である。
おそらく敵に城を利用させないという思惑もあるのだろうが、漢中城は張衛の手によってもはや廃墟と言って良いほどに破壊され、野晒しに等しき状態となっていた。よってそのある種、野営の趣があり、そのふたりの料理の光景は微笑ましい。
……その握っている器具を見なければ。
「おぉー、よく切れるのだ! この庖丁」
と義妹は感嘆とともに目を輝かせるが、獲物の肉量を超えた長尺である。
というより、どう見ても庖丁は庖丁でも人斬り庖丁……刀の、それもきわめて業物のたぐいである。
「ええと、
「あぁ、またこれを握ることが出来て何よりだ。死に際し託したものだが、これが無くてはどうにも始まらん」
(……いいのだろうか、そんな大事なもので料理など)
それ以前に、あまり物騒なものでこれから胃に入れるものに触れてほしくはないのだが。
だが愛紗が問題にしているのは、実のところそこではない。
「妙なことを申しますが……我らはその刀に、そしてそのお名前に、憶えがあるのです」
――公孫賛配下の客将、土方歳三。
曹操軍の不意を討たんとして、返り討ちとなった指揮官。
ほぼ面識などないに等しいが、公孫賛に引き合わされた時に佩いていた刀と、今のそれは反りといい厚みといい、瓜二つなのである。
かと言って、騙りにしては背格好はともかく両者の年齢は離れすぎている。
――いずれが偽者とも、思えない。
「なに、不思議なことでもあるまい」
老いてなお色気ただよう流し目で、もうひとりの『土方歳三』は事もなげに答えた。
「語られる歴史のごとく、若くして函館で死した土方もいる。老いさらばえるまで虜囚の恥辱に耐え続けた土方もいる。おそらく分岐点はそこだ。そういう世界なのだろう? ここは」
はぁ、と愛紗は生返事。第三者にとっては要領の得ないことだが、本人はそれで納得しているだろうから、それ以上は追及をしなかった。
「ともあれ、ご助勢には感謝しております。おっつけ、途上ではぐれた子明や士元もここへ参りましょう。戦力を整え次第、行動に移りたいところではありますが……」
塁壁の上にいる桃香を見上げながら、愛紗は溜息をつく。
毎度のことながら、おのが主君の腰は重い。
たとえその意に染まらずとも、その意に染まないとしても。
劉備玄徳をさらに飛躍させる劇薬になってくれれば良いと願う。
今、その少女と対峙する『英雄』たちとの対談が。
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「答えは、すでに決まっているでしょう」
あえて確認するまでもないことを、紅の甲冑に身を包んだ貴人は進言する。
「先の略奪で、張衛ならびに五斗米道とかいう宗教勢力の人望は地に堕ちた。大義はこちらにある。今、貴女が凶賊討つべしと声をあげて兵を挙げれば、周辺の郡や部族はこぞって貴女につくでしょう」
だが、桃香は眉を下げたままに俯きながら、
「でも……張魯さんがここの元々の主なわけで、その妹さんを倒して土地を奪うっていうのは……それに、張衛さんだって、漢中を守りたいって気持ちはきっと一緒です。城を壊していった以上はもう襲うつもりはないってことなのかもしれないし、和解とかはできなくたって、戦わない道もあるんじゃないかな……」
道義に悖る、と彼女は拒む。だが、未だ王業に片足さえ掛けていないような状況で、手段や小義にこだわっている場合ではないだろうに。
「くだらん」
吐き捨てたのは、相対する彼女……エーデルガルト=フォン=フレスベルグのものではない。彼女たちの背後に立つ、若い男である。
黒と赤を基調としたその装束は、軍服というよりかは、学友ドロテアよろしく舞台に上がる役者のようだ。
だがそれに反し、何者に屈することを許さないような、気骨と危うさを併せ持つ険しい顔つき。それに相応しく、他者との関わりを遠ざけ、常に人の輪から外れた辺りにいる。その男が、珍しく動いて詰め寄り、口を開いた。
「じゃあ貴様は、生活を奪われたヤツらに泣き寝入りしろとでも言う気か? 自分の仲間を見捨てて自分の身を安泰を図るような弱者に頭を垂れろと」
(弱者、って)
大義を失ったとは言え、張衛が擁するのは宗教勢力の精鋭部隊で、接収しただけあって人員も物資も充実している。
彼の視点や思想は独特で、合理主義者のエーデルガルトにはついていけないところがあった。
「物資を返してもらえるよう、朱里ちゃんを立ててお願いする」
「返すわけないだろう。あぁいう奴らは、格下の人間から奪うことが当然の権利だと考える」
「でも、あきらめたくはない。少なくとも、取り返しのつかないことになることを、簡単には」
顔を近づけて凄む青年に、控えめながらも、劉備もまた見返し、視線を外さない。
相手が可憐な乙女でなければ、きっと彼は喉首を絞りあげていたことだろう。
しかし眇められた彼の眼差しはまるで、目の前の少女ではなく、その背の向こう側にいる、誰か旧知を見るかのようでもあった。
「付き合い切れん」
しばらくの睨みあいの後、鼻を鳴らして吐き捨て、彼は去っていった。
だが出奔する気であれば、見限る場面はいくらでも合った。不器用ながらも、存外に面倒見の良い男なのかもしれない。
その攻撃的な物言いも、翻意というよりは発奮を促しているように思える。
とはいえ、死を想像させる迫力であったことに違いはない。
脱力して腰をつける劉備に、咳払いしてエーデルガルトは言葉を投げた。
「
「いえ、それは出来ません」
「……なんで、そこは即答なのよ……」
異国の女皇は、思わず額に手をやった。
去っていった青年も扱いづらい人種に違いないが、それに対した少女もまた、難物である。調和対話をしきりに望むくせに、妙なところで意固地になり、他人の助言に耳を貸さない。
みずからが曹操と相容れない理由について、きりりと眦を吊り上げながら、こう答えた。
「曹操さんのやり方は、たしかに天下から戦の無くすための近道なのかもしれない。でも、そのために多くの恨みを買っています。きっとここから先は彼女も、中華の多くの人々が傷つく戦いが始まってしまう……それを、止めたいんです」
敵を多く作ったエーデルガルトからすれば、耳の痛い言葉ではある。
もっとも、そうした荊道を選んだことを、彼女は後悔していない。それ以外の道を、模索する余裕など常になかった。
「――ねぇ、玄徳。私も敗れたうえでここにいるから、あまり偉そうなことは言えないのだけれど、先達として忠告はさせてもらえるかしら」
と、いつになく下手に出た前置きとともに、エーデルガルトは言った。
「貴女の志の高さは認める。たとえ今は至弱の身だとしても、分不相応の夢だと哂うことはしない。けど、曹操の覇道を否定したとして、貴女自身はこの国をどうしたいの?」
「私……私、は……この地に住まうみんなを、笑顔に」
「どのようにして?」
劉備は答えない。予想はしていたが、それが今の彼女の限界でもあった。
「敵に対する反発の理由も曖昧。自分の理想も漠然としている。いったいそれで誰の心を説くというの? 民を本当の意味で安んずることができるの?」
良くも悪くも、自分と劉備は対極に位置している、とエーデルガルトは思った。
自分には、目指すべき形、その為になすべきことが多すぎた。
生まれついての特権の否定。超常の存在からの人類の脱却。そしていずれは、自国を蝕む闇との決別を……果たすはずだったのだ、と。
「おいおい、いくらなんでも詰め込み教育が過ぎるんじゃないのかい? お姫様」
と、揶揄が横合いから飛んできた。
脇を見れば、軍師孔明を連れ歩き、大股で近づいて来る男の姿が認められた。
歳の頃は、土方に次ぐ年長者だろう。飄々としつつも、長い手足の動きには無駄がない、歴戦のたたずまい。いかにも好漢然とはしているが、その目鼻立ちには貴種の気配がにじむ。
「ゼネテス、その呼び名は好きではないのだけど?」
吊り上がるエーデルガルトの眉と語調。むしろそれを楽しむかのように、肩をそびやかしてニヤリと笑い返す。
「じゃあ皇帝陛下とでも呼ぶか? 亡国の君主が一人そう名乗ったところで、虚しさが勝るだろうに」
「…………」
「そう怖い顔をするなよ。いやなに、お前さんのことは冗談言えるぐらいに気に入ってるんだ。知り合いに似てるもんでな」
「知り合い?」
「あぁ、俺の叔母だ」
「おば……ッ、喧嘩でも売りに来たのかしら?」
「おいおい、良い
劉備陣営において、エーデルガルトが話の通じる相手といえば、清濁併せ呑んだという点において、土方とこのゼネテスだろう。
――が、その物言いはどうにも好きになれない。
「が、こいつは冗談じゃなくて、急報だ」
懊悩の最中にある劉備をそれとなくかばい、助け起こすようにしながら、ゼネテスは言った。
「はわわ! 桃香さま! 敵が来ちゃいました!」
「落ち着けって、それじゃ伝わらんだろうが」
と、息せき切ってまくし立てる諸葛亮のことにもフォローに回り、少女たちが落ち着くのを待ってから、彼自身の口からその報をもたらした。
「張衛のヤツ、今更になって漢中が惜しくなったらしい。手勢を挙げてこちらに進軍中だ」
「そんな……どうしてッ!?」
「た、多分……劉焉さまを捕まえた志々雄さんの益州の完全支配が予想以上に早くなりそうだから、かと」
狼狽しながらも、劉備軍唯一となった軍師は、外見と挙動に見合わぬ確かな見識を主君に披露した。
「それで泡食って、とるものもとりあえず手近なところを抱え込もうって算段だろうよ。要害固めて志々雄の北上を待ち受ける気か。それとも一帯丸々賊どもに献上して歓心を得ようって肚か」
「いずれにせよ、あまり利口とは言い難い立ち回りね」
敵の拙攻に呆れ、エーデルガルトは吐息を零す。
ともあれ、むしろこの侵攻は歓迎すべきアクシデントには違いない。
「玄徳」
桃髪の少女の字を呼ばわり、若き女帝は作為無しに伝えた。
「誰だって、自分が悪だと考えて戦争はしない。張衛にせよ、曹操にせよ、そしてかつての私や貴女にせよ。そんな彼女たちの戦争を頭ごなしに否定したところで、理解や和解が生まれることは決してない。まずは貴女自身が多くの選択を身に付けなさい。視野を広げなさい。そのためには、泥にまみれ、力をつけることよ。それ自体は悪ではない。どう使うのか、貴女が考えれば良いのだから」
かつて己にはできなかったことを説くおかしみが、苦笑となってエーデルガルトの口端にのぼる。
だが、この少女には……彼女の前途には、自分と違い、まだ多くの余地が残されている。虚ろであるがゆえに、可能性は閉ざされてはいないはずだ。
それを祝福するがごとく、優しい口調で伝え終える。
娘は答えない。きっとまだ容易に首肯しがたいことであることは、想像に難くない。
だがそれを拒みたい、否定できるだけの何かを、己の内に築き上げたいという気持ちが生まれれば、まずは一足前進、と思うこととしよう。
「……とにかく、今は張衛さんを迎え撃とう。皆、支度を!」
顔を持ち上げた次の瞬間、劉備玄徳は初めて人君らしき号令を、よく通る声音でもって下したのだった。
本来書く気のなかった、完全捏造エンディング。
登場する御遣いは現時点での没キャラ、未登場キャラからランダムで選びました。
良かったね、嶋野の親父だとかヌワンギだとか千翼だとか瀬戸内寂沖だとかオルガ・イツカだとか出なくて。
あ、一応次回最終回です。